442.成し遂げたいこと
初めて逢った時は、何も知らない。純真無垢という言葉が相応しかった。
楽しい事や嬉しい事が多かったのか、よく笑っている。
ちょっと機嫌を損ねると、頬を膨らませる。
悲しい事があると、人目を憚らず泣いていた。
コロコロと変わる表情は見ていて飽きない。
同時に、放っておけない。いや、彼女から目を離したくはなかった。
悲しんで欲しくはない。彼女には笑顔が一番よく似合うと知っているから。
シンは改めて実感する。自分は、フェリー・ハートニアが好きなのだと。
「俺はやっぱり……フェリーを救いたい。
だから、ユリアン・リントリィには諦めてもらわないといけない。
フェリーの身体を通して、イリシャと永遠に生き続けることを。
例えそれが、イリシャやユリアンを悲しませることになっても」
だからこそ、彼は本音を口にする。
他の誰かから見れば、それは他者の幸福を奪う事かもしれない。
それでも。自分にとって一番大切なものを譲ったりは出来なかった。
「だろうな」
マレットが彼の言葉に強く頷く。
もうずっと前。シンが駆け出しの冒険者だった頃から、マレットは知っている。
彼との雑談で、何度フェリーの名を耳にしたか判らない。
出逢う前からイチャつかれていたのだから、今更この二人の結末が悲劇で終えるのは認められない。
「ええ。シンさんがフェリーさんを大切に想っているのは、よく知ってますから」
追ってアメリアも、優しく微笑む。自分の初めての恋は実らなかった。
一方で、少しだけ誇らしくも思う。
好きになった男性は、大切な人をこれだけ強く想える男性なのだ。
自分の見る目は間違っていなかったのだと、胸を張って言える。
懸念があるとすれば。彼が求める結果には、ユリアン・リントリィの消滅が避けられない。
シンの願いは、自分の為に他者へ悲しみを齎すものである事には違いない。
「……だけど、それだけじゃない」
故に、彼には成し遂げたいものがある。
それこそが、自分が思い悩んでいたものへの回答だった。
「俺はきっと、ユリアンと本当の意味で分かり合うことはできない……と思う」
嘘偽りなく。心から出た、本音だった。
イリシャに逢いたいという執念は、彼を凶行へと走らせた。
その結果。故郷は燃え、自分の家族も還らぬ人となった。
気持ちは理解できるといいつつ、呑み込めない部分もある。
シンとユリアンの間に生じた蟠りは、恐らくは解消しないだろう。
「……ええ。そうですよね。
赦すせないと思うのも、また、自然な流れです」
弟によって父の命を奪われたからこそ、フローラはシンの気持ちが理解できた。
自分や母だって、アルマがあのまま世界再生の民に居たならばとても赦したりはしないだろう。
彼が心から悔やんでいるからこそ。罪を償おうとしているからこそ。彼の後悔を、受け入れられたのだから。
「……うん。そうだよね」
やや歯切れが悪いのは、リタだった。
彼女はシンやフェリーと知り合うずっと前から、イリシャと友人だった。
そんな彼女が死んだと思っていた夫と再会を果たしたのに、追い出さなくてはならない。
イリシャの気持ちを考えれば、居た堪れない。
「なに、案ずるな」
「レイバーン……」
そんなリタの頭を、レイバーンはポンと撫でる。
彼もリタ同様に、昔からイリシャを知っている。リタの気持ちも、よく解る。
「シンは余の友人だ。余は、友が願っているものを信じるぞ」
けれど、レイバーンに不安はなかった。
レイバーンは知っている。シンが今まで、色んなものを護る為に奔走してきたことを。
それは形あるものだけではない。心さえも守ろうと、戦ってきたことを。
「……俺は、ユリアン・リントリィとは分かり合えない。
だけど、奴がイリシャへ抱いている気持ちは本物だ。
だからこそ、俺はユリアンに納得してもらいたい。
すれ違ったままじゃなくて。ちゃんとした形で、イリシャとユリアンには別れを迎えて欲しい」
シンの願いは自己満足で、ユリアンの意向をなにひとつ反映していない。
それでも。フェリーの中に潜む存在としてではなく、一人の人間として願う。
ユリアンには納得する形で、フェリーの中から退いて欲しかった。
間違った形かもしれないけれど、イリシャへの愛は本物だと知っているから。
「それって……」
「ああ。我儘なのは承知の上だ。俺とは分かり合えなくてもいい。
でも、イリシャとはすれ違わないで欲しい。
ちゃんと納得した上で、ユリアンにはフェリーの中から去って欲しいんだ」
思わず声を漏らすリタへ、シンは頷く。
自分が成すべき本懐の為に。ユリアンがフェリーの中へ居続けるのは受け入れられない。
彼がイリシャと逢う為に取った行動を、赦す事は出来ない。
だけど、あくまでそれは自分だけの話だ。
彼が愛した。彼を愛したイリシャとは、蟠りなく理解し合って欲しい。
100年以上もの間。失う事の無かった想いを、理不尽に奪いたくはなかった。
「要するに。ユリアンさんの心も救いたいってことですよね?」
「それが奴にとっての救いになるかどうかは、判らないが……」
天を仰ぎながら問うピースに、珍しくシンが自信の無い回答を示す。
自分の我儘で彼を『消す』事には変わりがない。
仮に納得させられたとして、それを『救い』と言っていいのか。自分では判らなかった。
「まぁ、いいんじゃねぇのか?
らしくなってきたじゃねぇか。お前さんは、そういうヤツだもんな」
小人王の神槌の柄をトンと地面へ叩きながら、ギルレッグは豪快に笑う。
付き合いは短いけれど、ギルレッグもシンをよく知っている。
困っている、悲しんでいる者へ手を差し伸べる事を厭わない人間だと。
「どのみち、フェリーさんの中から追い出す方法もまだ分かりませんしね。
納得して出てもらうっていうのは、大分うまい手法だと思いますよ」
「オリ――」
いつものように軽口を叩くオリヴィア。
彼女を嗜めようとアメリアが口を開いた瞬間だった。
「オリヴィア、言い方があるだろう……」「オリヴィア。もう少し言葉を選べ……」
ストルとトリスが、同時に彼女へ苦言を呈する。
オリヴィアは軽口を叩く様に「でも、現状の把握は大切ですから」と笑みを浮かべていた。
「まったく……」
いつもの調子で居るオリヴィアを見て、アメリアは肩を竦める。
けれど、これは彼女にとってもいい傾向だ。
「オリヴィアはオリヴィアで、ちゃんと気を遣ってますわよ。
あんまり、理解されませんでしたけど」
「そうですね。でも、今は楽しそうで何よりです」
彼女はあの物言いから、社交的な風でいて理解者というものは案外多くなかったように見える。
自分より先に彼女を嗜める者が居るのは、正直言って有難い。
それだけの関係を築ける人間が増えた事に、アメリアとフローラは嬉しくも寂しさを感じていた。
「じゃあ。イリシャとユリアンに和解してもらう方向か。
まあ、それだとドンパチはやらなくて済みそうだけど」
「待ってくれ」
今後の方針を決めるべく、思案を始めるマレット。
そんな彼女を止めたのは、やはりシンだった。
「あん? まだ何かあるのか?」
「ああ。まだ、俺にはしたいことが残っている」
話は終わっていないと主張するシンに、全員が互いの顔を見合わせた。
イリシャとユリアンが和解し、納得をすれば。自ずとフェリーは不老不死の身体から解放される。
これ以上、一体何を望むというのか。訝しむ視線が、シンへと集中する。
「俺は出来るのなら、邪神も救いたい」
真っ直ぐ。迷いのない眼差しで宣言したシンに、周囲は騒然とする。
彼はフェリーだけではなく、悪意にとって生み出された存在さえも救いたい。確かにそう言った。
「人間の都合で、悪意で生み出されて。言われるがままに、破壊する。
だけど、本当のアイツはきっと違うと思う。
勿論、倒さないといけないかもしれない。
それでもやっぱり、救えるなら救いたいんだ」
邪神は悪意によって生まれ、善悪も判らないまま力を振舞う。
世界を揺るがす。脅威となる存在だというのは、重々承知している。
それでもやっぱり。シンはどうしても忘れられない。
純白の子供を。縋るように手を差し出してきた子供を。
純真無垢で、何も知らない。それこそ、周囲によって簡単に染め上げられてしまうであろう存在。
シンにはあの子供が、フェリーと重なって見えた。
もしも何かひとつでも間違えば、子供の頃のフェリーだって似た状況に晒されていたかもしれない。
そう思うと、どうしても放っておけなかった。
「……シンさん」
「君ってやつは、本当に」
ピースが思わず声を漏らす。
テランに至っては、うっすらと笑みを浮かべて前髪を掻いている。
不思議と驚きはしなかった。
彼ならばきっと、そうするだろうと心の中で思っていたから。
「そうですね。私も、賛成ですわ」
そっと胸元に手を当てながら、フローラは小さく頷く。
邪神に適合した彼女もまた、シンの言わんとしている事を理解している。
悪意によって生まれた存在かもしれないが、決してそれが本質ではない。
まだ染まり切っていないのであれば、いくらでも救う機会はあるはずだと。
「私も、フローラ様を救う際に手伝ってもらった恩があります」
「そうそう。ビルフレストなんかに良い様に扱われるなんて、可哀想ですからね」
アメリアとフローラも異論はなかった。
知っている。邪神の奥に潜んでいる、善意の欠片を。
「うん。愛と豊穣の神様だって、ちゃんとしたお祈りじゃないと嫌だろうしね。
ヤな願い事ばっかり送られて、邪神もうんざりしてるだろうし!」
愛と豊穣の神を強く信仰しているからこそ、リタは強く頷く。
誰だってそうだ。悪意をずっと念じ続けられて、平然としていられる訳がない。
そんな状況からは、救ってあげるべきだと立ち上がる。
「相手が神と呼ばれようが、シンがお節介なのは変わりないな!
余は、そんなお主が大好きだぞ!」
大口を開けて、レイバーンは再び豪快に笑う。
嬉しかったのだ。自分の友人が、こうして思いの丈を皆にぶちまけてくれた事が。
彼の力になりたいと強く思う。思える事が、レイバーンにとっての誇りだった。
そして。
彼の旅をずっと支えていた白衣の女性が、徐にシンへと近付いていく。
「ったく……」
栗毛の髪をボリボリと掻きながら、一歩ずつ大地を踏みしめる女性はベル・マレット。
魔導大国マギアの天才発明家であり、シンの善意に最も早く触れた人物。
彼女は握り締めた拳をシンの胸元へと当てる。
「お前は本当にバカで、本当にお人好しだよ」
「いつも苦労を掛けて、悪いとは思ってる」
「よく言うよ」
シンの返答に、マレットは笑みを溢す。
彼はいつも魔導具を乱暴に扱うし、仕方ないと判断すれば平気で壊す。
だけど、嫌だと思った事は無かった。
自分の運命を決定付けてくれた青年の力になれている。
マレットはそれだけで、十分に満たされていた。
「シン。お前に願いを言わせたのはアタシだ。
その責任は取る。アタシの持てる技術を全部、お前にくれてやるよ」
「そしたら、世界を敵に回しても勝てそうか?」
「圧勝だよ、バカ」
恥ずかしい台詞をよくもまあ、蒸し返したものだ。
若干の気恥ずかしさを覚えながらも、マレットは肩を竦めて見せた。
誰もが幸せになる形ではないかもしれない。
それでも、せめて心だけでも救ってやりたい。
例え自己満足だとしても。シンは本気で、そう願っていた。
……*
「さて、と。それじゃあ、ユリアンさんの方は説得が必須なわけですし。
まずは世界再生の民をどうするか――」
オリヴィアが顎に手を当てながら、じっと考え込む。
ユリアンに納得してもらうには、イリシャの協力が不可欠だ。
彼女へは後に話をするとして、悪意を蔓延させる存在。
世界再生の民をどう相手取るかを話し合おうとしたその時だった。
「フローラ様!」
「コリスさん……?」
息を切らせながら、懸命に走る一人の少女。
フローラやイリシャと共に、子供の世話をしているコリスの姿がそこにはあった。
「どうかしたのですか?」
肩で息をするコリスを慮りながらも、フローラは胸騒ぎをしていた。
普段は大人しい彼女がここまで慌てふためく心当たりなど、そう多くはないからだ。
「イリシャさんが。イリシャさんが、見当たらないんです!」
そして、その予感は当たっていた。
コリスによるとイリシャは朝食を作ったきり、姿が見当たらないという話だった。
「おいおい。マジかよ……」
眉間に皺を寄せながら、マレットは天を仰ぐ。
シンとフェリー。イリシャとユリアンを巡る騒動は、ここからが本当の始まりだった。