439.ふたつの秘術
初めに魂を宿した身体は、世界中を旅をしているという冒険者だった。
理由は至極明快で、イリシャと同じ世界が見られるかもしれないと考えたからだ。
しかし、ここでユリアンに誤算が生じる。
魂だけの存在となり、他者へと潜り込んだまでは良い。
問題はあくまで『器』を間借りしているに過ぎないという点。
自分の意思とは無関係に動く身体に、ユリアンの心は揺さぶられていく。
この身体は自分が考えもしない行動を採る。口走る。影響されるのが、少しだけ怖かった。
一方で、時折だが自分の意思が『表』へ出る瞬間もあった。
具体的に言えば、依代となった人間が激しく動揺をした時。本人の意思が著しく弱まった時だ。
尤も、すぐに正気を取り戻されては何もできない。
まだ魂を知覚しているだけに留まり、魔力も不十分だ。妙な行動を起こす間も与えられはしない。
冒険者の中へ潜り込んで10年以上の時間が過ぎた頃。
辿り着いた先は、魔術大国ミスリア。
ここで名を上げるべく奮起する冒険者だったが、結果は真逆のものとなる。
魔物と戦う途中に、冒険者は怪我を負ってしまった。
今までなら、難なく避けられた攻撃。それでも彼は、避けきれなかった。
加齢による反射の低下が原因だった。冒険者を引退するには、十分な理由となる。
情熱に溢れた人間だったが、自分の引き際を見失う程に盲目では無かった。
結局イリシャに逢えないまま、見知らぬ男の人生を看取ってしまうのか。
否、ユリアンはそんな結末を求めてはいない。
どれだけ時間が掛かってもいい。成し遂げたい目的がある。
引退した冒険者の胸の内で、ユリアンは情熱の炎を滾らせる。
反対に冒険者は燃え尽きた、やりきったと言わんばかりに、張り詰めた空気が抜けるようにぼんやりとしている。
身体の主導権を得るには申し分ない状況が、出来上がっていた。
だが、奪ったところでどうなる?
冒険者を引退したのは、加齢による反応の低下が原因だ。
そんな肉体を得ても、まるで意味がないではないか。
ユリアンはこの男の肉体を棄て、別の者へ魂を移すべきだと決めた。
同じように冒険者ギルドで、魂を移すに相応しい人間を見繕っていた。
その時だ。建物一体に轟くほど声を張り上げる、貴族の姿が居た。
「我と共に、魔族の世界で国を興す者はいないか!?
上手く行った暁には、相応の地位を約束しよう!」
荒くれ者の巣窟には似合わない、小綺麗な格好で叫ぶ貴族への視線は冷ややかだ。
無理もない。天然の城塞と言われるドナ山脈を越え、国を興す。
当然ながら、周囲に人間はいない。逃げ帰るにも、再びドナ山脈を越えなくてはならない。
風変りな自殺に付き合えと言っているようなものだ。
向かった先では金など、役に立たないだろう。
人間の国はひとつしかない。興した張本人であるこの貴族の思うがままだ。
相場の破壊など、いとも容易くできる。だからこそ、地位を約束しているのだろうが。
けれど中には物好きも居るもので、貴族に賛同する者がちらほらと集まり始める。
ユリアンもその一人だった。何かを成し遂げようとするその男を、自分と重ねた。
そして彼は、自らの魂を賛同者の一人へと移す。
貴族本人を選ばなかった理由は、彼の強い意思では自分が『表』に出る機会はないだろうと悟ったからった。
ユリアンが魂を移した先は、若い女の肉体だった。
仲間を思わしき男に流されるまま、彼女は同行を決めていた。
意思の弱い人間だと察したユリアンは、彼女であれば自分が自由に動ける機会があるだろうと考えた。
だが、道中でその願いは叶わなかった。というのも、女は魔術師としては一流と呼ぶに相応しかったからだ。
元々の素養に加えて、魂を移したユリアンの魔力がかさ増しされていた恩恵もあり、すっかりとその地位を確立していった。
尤も、ユリアンにも恩恵が無かったと言えば嘘となる。
彼女は暇さえあれば、魔術書を読み耽っていたのだ。
ユリアンが魔術の基礎知識を正しく身に着けられたのは、彼女のお陰と言っても過言ではない。
皆で身を寄せ合い、ドナ山脈を越える。
その向こうで広がる森には、妖精族が集落を作っていた。
当然ながら皆の興味を惹きつけるものの、妖精族は干渉を拒んだ。
ただ、自分達よりも華奢な種族である妖精族が無事に過ごせているというのは大きな希望となった。
アルフヘイムの森から少しだけ離れた先。廃墟と化した遺跡で、彼らは国を興し始める。
力を蓄え、いつかはミスリアを越える国家を創り上げようという高い志の下。
ドナ山脈を越えた先で人間の国が生まれた。
名をギランドレ帝国。現代では滅びてしまった国の名である。
……*
建国されたばかりのギランドレは、順風満帆とはいかなかった。
慣れない環境での生活は、苦難の連続でしかない。
妖精族が華奢故に、侮っていたのだ。
高い魔力を持ち、精霊魔術を自在に操る種族だからこそこの環境に適応しているというのに。
ユリアンが依代としている女も、遠目に見た妖精族を前にして魔術師としての矜持を打ち砕かれている。
ただ、彼女はそこで諦める事を良しとしなかった。ギランドレを新たな故郷とするべく、何を成すべきか。
その答えを求めて、地下に眠る遺跡へと潜り始める。刻と運命の神が祀られている遺跡へ。
ユリアンは見誤っていた。彼女は自分が思うよりもずっと、芯の強い女性だったのだ。
身体の主導権を得る機会は訪れず、遺跡の中で壁画を眺め続ける日々が続く。
魔力に反応する灯りだけが頼りの中、彼女はぶつぶつと独りごとを呟き続けていた。
肉体の中からその景色を眺めるだけという奇妙な状況ではあったが、不思議とユリアンは退屈しなかった。
灯りが灯った先に映る壁画は見ていて飽きないし、考察の余地がある。
奥に進めば、更に不思議な者が待ち受けていた。
まずは妙な石像が追従してくるが、敵意は感じられない。
ただ、気が落ち着かないからと彼女はついて来ないで欲しいと命令を下していた。
そして、祈りを捧げる際に使われていたと思われる道具を見つける。
中に収められているのは聖杯や香炉。どう使われていたのだろうかと、推測を重ねていく。
彼女はその中で、奇妙な短剣も一緒に収められている事に気が付いた。
古代魔導具の一種。もしかすると、神器かもしれない。
そんな期待を抱きつつ手に取った瞬間。
「きゃっ!?」
恐ろしいまでの脱力感が、彼女へ襲い掛かる。その中に存在するユリアンも同様だった。
魔力が吸い取られる感覚。侵入者を逃がさない為の罠だろうか。
元よりこの遺跡は、魔力を元に作動している物が多い。灯りひとつだって、魔力による恩恵だ。
魔力を失ってしまえば、帰る事さえもままならない。
彼女は咄嗟に短剣を手放す。ユリアンも彼女の行動には同意見だった。
「でも、こんなものばかりあるってことは……。
やっぱり、重要な遺跡だったのかも」
魔力を元に発光する壁、遺跡を護る魔造巨兵。祭壇とその道具。
ここならば、ギランドレを反映させるヒントが得られるかもしれないと彼女は鼻息を荒くする。
暇を見つけては、遺跡へと潜り続ける日々。
そして、彼女はついに遺跡で祀られている神の存在にまでたどり着く。
刻と運命の神。時間と運命を司ると言われる神だ。
「老人と子供が手を取り合っている……。
ううん。片方だけ若返ったのかも」
(……そうか。その手があったか!)
壁画を眺めながら、女は何気なしに呟いた。
ただこの遺跡の謎を解き明かそうとしているだけだったが、ユリアンにとっては違う。
彼女の言葉に閃いてしまったのだ。若返る。即ち、肉体の時間を遡るという手段に。
以降、ユリアンは自らの魂を彼女から移す。
芯が強い彼女では、身体の自由が得られないからだ。
三人目に選ばれたのは、ギランドレでの過酷な生活に心が折れかかっている男。魔術師の彼女を誘った張本人だった。
想像を絶する苦難の連続に憔悴しきっており、彼女とは今ではすっかり立場が逆転している。
ユリアンにとっては操りやすく丁度いい、若くて健康的な男の肉体。
男へと乗り移ったユリアンは、女と共にギランドレの遺跡へと潜る。
彼女は男の魔力が強まっている事に驚いていた。尤も、二人の肉体を介したユリアンの影響なのだが。
こうしてユリアンは男になりすまし、刻と運命の神の遺した情報をかき集める。
得られた情報を元に、ユリアンはある魔術の研究へと着手する。
イリシャと共に過ごしたいのであれば、イリシャと同じになればいい。
いや、それ以上の存在になれば永遠に彼女を護れるではないか。
三人の人間に憑依し、自分では見る事の無かった世界を見ても。
ユリアンの根底はイリシャへの愛で構成されていた。
彼が生み出そうとしたもの。それこそが肉体の時間を巻き戻す魔術。
フェリー・ハートニアが不老不死とされるものの正体。
尤も。この魔術を行使するにあたって、ユリアンは多くの問題に直面する。
中でも一番の問題は、肉体を同じ時間へと巻き戻す為には想像を絶する魔力が必要になる。
通常の人間。いや、魔力に恵まれた妖精族や魔族でも術式を維持する事は出来ないだろう。
現段階では完成をしても、行使にまでは辿り着けない。
更に、自分の意識が常に『表』へと出られなくては意味が無い。
宿主の意識に振られるがまま行動をしていては、永遠にイリシャと巡り合えない。
たとえ奇跡が起きても、自分だと伝えられない。そうすれば彼女とは、また離れ離れになるだろう。
不老不死となるには、この男のように虚無に近い存在となった人間へと宿る必要がある。
そして最大の問題は、この魔術を使用してしまえば二度と他者へ魂を移す事は出来ないだろう。
時間を巻き戻す秘術は自分の魂諸共、その肉体へ定着をさせる。
故に、機会は一度のみ。失敗は許されなかった。
それでもユリアンは、成し遂げると決めた。
イリシャに逢いたい。二人で永遠に生きていたいという想いが、彼を動かし続ける。
数年の時を経て、肉体の時間を巻き戻す秘術が完成した日。
彼は初めて、自らの意思で人を殺めた。
「あれ? こんな部屋あった?
というか、この魔術……なんだろう……?」
自分の背中からひょいと、女が顔を覗かせる。
この魔術を知られてしまえば、自分を差し置いて何者かが永遠に生きる存在となってしまえば。
まだ、力の及ばない自分は消されてしまうかもしれない。
「え……?」
不安に駆られたユリアンは、咄嗟に魔術で女を斬り刻んでいた。
彼女の肉体を通して得た、彼女の得意とする風の魔術で。
直後、ユリアンの顔が青ざめる。衝動的な行動だった。
彼女はその知見と巧みな魔術から、ギランドレでも重要な存在だ。
死体を隠そうにも、居なくなった事はすぐ気付かれてしまうだろう。
こうなった以上、もう後戻りは出来ない。
ユリアンは彼女の亡骸を連れ、地上へと上がる。
そして伝えた。「遺跡には罠が仕掛けられていた。危険だ」と。
ギランドレの王となった貴族は、一番信頼していた彼女を喪った事を嘆くと同時に慄いた。
熟練の魔術師である彼女を仕留められるような存在が地表に出てしまえば、この国は一巻の終わりだと。
国王主導の下、大慌てで遺跡への道が塞がれていった。
一方で、自らの手を汚したユリアンはもう冷静で居られなかった。
独りの夜で、何度も「自分は悪くない」と呟く。けれど、朝になれば彼女の死を嘆く者が後を絶たない。
このままこの国に居ては、精神が狂ってしまう。そう考えたユリアンは、魂を移動させる事決めた。
そこからユリアンは、人間に留まらず様々な者の肉体を渡り歩く。
ギランドレへ襲い掛かる魔物は、逃走するには丁度良かった。
ただ、獣の生活に耐え切れずすぐに魂を移動させる事となったが。
その後もユリアンは何人もの肉体を介し、中から様々な世界を肌で感じていく。
100年以上の間、頻繁に変わる価値観や、多くの感情に呑み込まれていく中。
彼自身の倫理観もぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
それでもユリアン・リントリィが自我を保てた理由はひとつしかない。
愛する妻。イリシャへの執着が、彼をここまで突き動かした。
もう何が正しくて、正しくないかも曖昧な中。
イリシャを想う気持ちは間違っていないと、愛を肥大化させていた。
そして法導暦0485年。彼は奇跡に巡り合う。
アンダル・ハートニアを介してイリシャと再会を果たした事もそうだが、天啓を得たのだ。
天涯孤独の少女。『無』に等しい少女と共に、再びイリシャと出逢う青年の存在を知った。
時間にしてたった32年。彼が決断しない理由は無かった。