438.愛ゆえに、狂い始める
イリシャが自分の元を離れて、二年の時が過ぎた。
ユリアンは彼女と始めた薬屋を、家族で営んでいる。
少しでも彼女が居た痕跡を、残しておきたかったから。
自分と息子のアル。そして、その妻のマリー。
三人で力を合わせて、毎日汗を流していく日々。
それなりに幸せな日々を送る一方で、ユリアンの脳内にはいつも同じ考えが漂っている。
ここにイリシャが居たならば。と。
更に二年後。息子夫婦に子供が生まれる。
初めて抱いた孫はすぐに壊れてしまいそうな程に儚い。
一方で、今まで紡いで来たものの重みを感じた。
同じだった。生まれたばかりの息子を、初めて抱いた時と。
目に入れても痛くないというのは、まさしくこの事だろう。ただただ、愛おしい。
けれど、やはり考えてしまうのだ。
イリシャにも孫を抱いて欲しかった。共にこの幸せを分かち合いたかったと。
その頃だった。ユリアン宛に、一通の手紙が届いたのは。
差出人は全く知らない名だったが、手紙からほんのりと香る匂いで、すぐに判った。
この香水は彼女が好んでいたもの。間違いない、イリシャだ。
そう確信した時には、既に封は開けられていた。
手紙にはまず、今まで連絡をしてこなかった事の謝罪が綴られている。
彼女らしいと苦笑すると同時に、少し丸みのある彼女の字が懐かしく感じる。
差出人に偽名を使ったのも、息子の妻であるマリーが自分の名を見て疑問に思わないようとの配慮からだった。
手紙によると彼女は、旅から旅への根無し草のような生活をしているらしい。
幸い、どこへ渡っても傷薬の需要はある。彼女の腕前は確かだから、路銀に困る事はないだろう。
最近では冒険者ギルドに卸す事もあるそうで、心配は無用だという言葉で締めくくられていた。
ユリアンは紙の匂いが手へ移る程に、手紙を強く握りしめる。
漸く離したと思えば、彼はペンを手に取っていた。
冒険者ギルドに卸しているのであれば、ギルド伝いに本人へ返事を届けられるのではないか。
一縷の望みを掛けて、ユリアンは思いの丈を綴った。
息子が結婚し、子を授かった事。
彼女が作った薬屋は、家族皆で護っている事。
絵のモチーフにしていたあの樹は、今日もまた違う表情を覗かせていた事。
伝えたい事は、数枚程度の便箋ではまるで足りない。
それでも彼は、ありったけの想いを込めた。イリシャへ届く事を祈りながら。
彼の願いは叶う。冒険者ギルド伝いに、手紙が彼女の手に渡ったのだ。
それを確信したのは、イリシャ本人から再び手紙を受領したからだ。
ここからイリシャとユリアンの文通が始まる事となる。
「えっ。母さんが?」
「ああ、今も無事に冒険者をしているらしい」
妻と子が寝静まった夜。
ユリアンはイリシャと文を交わしていると明かした。
「そっか、よかった……」
息子はずっと、母の心配をしていた。
自分のせいで彼女は家を出ていったのだと責任を感じていた。
故に、無事の報せを受けた時は心から安堵していた。
「母さん……」
ユリアンから渡された手紙を読みながら、アルは一筋の涙を流す。
出ていった経緯からして、イリシャがこの家へ戻る事はないだろう。
孫を一目でいいから、見て欲しかった。抱いて欲しかった。
「ごめん。父さんの方が、辛いだろうに」
「いや……」
アルは涙を袖で拭うと、手紙をユリアンへと返す。
受け取ったユリアンは彼の気持ちを慮り、小さく首を左右へ振った。
二人はそれから、夜通しイリシャの思い出を語っていた。
懐かしさを覚えると同時に、ユリアンの中で大きくなっていく感情があった。
イリシャに逢いたい。やはり、共に過ごしたいと。
……*
それからも刻は恙無く過ぎていく。
孫もやんちゃに育っており、友達と一緒に町中を駆け回っている。
微笑ましい光景を見守っていると、窓に反射した自分の姿が瞳へ映る。
年齢を重ねた自分の髪あすっかりと白く染まってしまっている。
体力だって、昔のようにはいかない。薬屋はすっかりと、息子に代替わりしていた。
イリシャとの文通は、まだ続いている。
彼にとっては、イリシャの無事を知る唯一の手段。これがあるから、頑張れる。
ただ、気持ちとは裏腹に自分の身体は年老いて行く。
文を送ったといえど、到着には数ヶ月を要する事もある。
あと何回、彼女の文字を見られるだろうか。途切れた時に彼女は悲しんでくれるだろうか。
いつか必ず訪れる未来を思うと、胸が苦しくなった。
それでもユリアンは、手紙をしたためる。
唯一残っている彼女との繋がりを、終わらせたくはなかった。
「今日はどんな本を読もうか……」
すっかり隠居の身となったユリアンは、毎日を暇していた。
考える事は専ら、家族の幸せとイリシャへの手紙。後は時々、変わらず絵を描いているぐらいか。
今日は図書館へと赴き、文章に使えそうな話題や言い回しを探している。
少しでも綺麗な文章で。少しでも上手い言い回しで。
愛する妻の印象に残したい。その一心で彼は、辞書や資料を読み漁る。
だから、その本を見つけたのは全くの偶然だった。
芸術の国には似つかわしくない。古ぼけた芸術性の欠片も感じない、薄汚れた分厚い本を。
著者の名はコーネリア・リィンカーウェル。
法導暦が始まる前。魔族を退けるべく尽力した、実在する魔術師の名だった。
「なんだ、この細かい文字は……?」
その本の異変に気付いたのは、自分が老いていたからだろうか。
老眼も相まって、書かれている文字が全く読めない。
一方で、そんな状態にも関わらずはっきりと浮かぶ文字が存在していた。
話のタネにはなるかと思い、ユリアンは見えたそのままに書き留めていく。
模写したものは、とても文字とは呼べない。ただ線と点が組み合わさっただけの、妙な図形。
無駄な時間を過ごしたと思いつつ、本を片付けようと立ち上がる。
その拍子に、図形を書き留めていた紙を机から落としてしまう。
年々、こういった反応さえが鈍くなっている。
昔なら、落ちないように抑えつけるぐらいは出来たのに。
ため息を吐きながら腰を下ろすユリアン。
紙へと手を伸ばした時。彼は自分の模写したものがぼやけて見える事に気が付いた。
先刻、はっきりと見えたのは形によるものではない。
なんとなく。なんとなくだが、それは彼にとって疑念を抱かせるものとなる。
気付けばユリアンは、古ぼけた本を再び手に取っていた。
同じ距離から見ても、本の文字だけがくっきりと見える。
これはもう、偶然だとは思えない。何か意味があるはずだ。
横向きに、反対向きに。太陽に透かしてみたりもした。
その結果、ユリアンはある事に気付く。
ページを跨ぐと微妙に位置がずれた状態で、次の図形が描かれている。
これは四枚の紙を透かして見るのではないか。そう思うと彼は、即座に実践へと移す。
結論から言うと、彼の推察は当たっていた。
四つの図形で、ひとつの文字が完成する。ユリアンはその文字を読み取っては、書き写していく。
分厚い本をに隠されていた文字を全て書き写した時に生まれたもの。
そこにはある魔術の術式が書き写されていた。
ユリアンは決して魔術に明るい訳ではない。
それでも解る。態々隠しているぐらいなのだから、おいそれと他人に話して良いものではないと。
その日。ユリアンはありったけの魔術書を借りて図書館を後にする。
彼の手には、書き写された魔術式のメモが握られていた。
……*
それからは来る日も来る日も、魔術式とにらめっこの日々が続く。
ユリアンは解らないなりにひとつずつ。次第に魔術の知識を深めていく。
暫くして分かったのは、人間の魔術式だけで構成された訳ではないという事。
気付けばユリアンは、当時の歴史を調べ始めていた。
コーネリア・リィンカーウェルの足跡を追えば、組み込まれた魔術式が判るかもしれない。
藁にも縋る想いだった。
調べ始めて二年が経過した頃。
ユリアンは漸く、答えに辿り着く。
この魔術式は人間のものと、妖精族のものを基礎にしてる。
加えて言うなれば、生命と慈愛の神の古代文字が使用されている。
この魔術の正体を読み解いたといえど、正解を知る者はいない。
けれど、ユリアンはこれが正しいのだと確信を持っていた。
そうでなければ、説明が付かないからだ。どうしてコーネリア・リィンカーウェルは、この魔術を隠したのかと。
古ぼけた本。魔術の古文書に室されていたひとつの術式。
その正体は生命と魔力を紡いでいくと言ったものだった。
自らの生命を、魂を、ひとつの魔力の塊と捉える。
それを他者へと紡ぎ、魔力を重ねていく。
何人も。何人も。人を介する度に、その魔力は膨れ上がっていく。
コーネリア・リィンカーウェルがどうしてこの魔術を開発したかは、判らない。
ただ、文献での彼女は底なしの魔力を持つ魔術師だと記されている事が多い。
この魔術を使用した可能性は大いにあった。
そしてそれは、決して眉唾の存在ではないという期待をユリアンへ抱かせる。
「これがあれば……」
魔力を重ねていくという特性に、この時のユリアンは左程魅力を感じてはいなかった。
だが、この老いた肉体を棄てて、若い肉体を手に入れられる。
それはつまり、イリシャを追い求める事が出来るという事を意味している。
二度と逢えないと思っていたイリシャに、逢えるかもしれない。
突如舞い降りた希望は、ユリアンの目を眩ませるには十分すぎる代物だった。
……*
「父さん、本気かい……!?
どう考えても、無謀じゃないか!」
アルが声を荒げるのも、無理はない。
年老いた父が、今更になって冒険者まがいの事をしようと言い出したのだから。
「本気に決まっている」
ユリアンの眼差しは、今までの自分の運命をぼんやりと受け入れていたものとは打って変わっていた。
普段の穏やかな彼からは想像も出来ない顔つきに、アルは慄いてしまう。
息子には、自分がどんな行いをしようとしているかは明かしていない。
もしも話してしまえば、恐らくは苦悩し続けるからだ。
我欲の為に他者の身体を間借りしようとしている父親を。
知っていながら、止められなかった自分自身を。
息子の人生はまだ長い。罪の意識を抱いて欲しくはなかった。
ただ、何も知らないからこそ余計に、アルは心配しているのだ。
冒険者の経験はない。ましてや、老人であるユリアンが今更旅に出るなど、無謀でしかないと。
「私は、イリシャに逢いたいんだ」
「……っ」
止めなくてはならないと思う一方で、アルは母の名に弱かった。
仲の良かった両親が離れ離れになった切っ掛けは、自分の結婚にある。
解かっている。イリシャもユリアンもその事を恨んだりはしてない。
けれど、アルはずっと負い目を感じていた。
「……分かった」
だからこそ、彼は頷いてしまった。
このまま母の手紙だけを生き甲斐に、緩やかに『死』を待つ父の姿が容易に想像できたから。
こうしてユリアンは、自らの生まれ育った芸術の国を後にした。
ユリアンが家へと戻ってくる事は無かった。
イリシャへの便りが途絶え、誰も眠っていない墓石に二人目の名前が刻まれるのはそれからすぐ後の事だった。
その時は、誰も想像だにしていなかった。ユリアン・リントリィが、他の誰かの中で魂だけの存在になっているとは。