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その魔女に祝福を  作者: 晴海翼
第二部:第八章 再会
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437.愛ゆえに

 男の故郷であるクンストハレは芸術が盛んな国だった。

 その風土に充てられたからか。はたまた、画家だった兄の影響を受けたからか。

 自分も暇を見つけては、風景画を描くのが趣味になっていた。


 真っ白なキャンパスへ、瞳に映った景色を書き留めていく。

 同じ場所を描いているのに一度たりとも、同じ瞬間はない。

 いつものように違う表情を見せるその場所で筆を走らせている時。彼女と出逢った。


「すみません。邪魔でしたか?」

 

 銀色の髪が風に揺られ、泳いでいる。陽光が反射し、宝石のように輝いていた。

 その可憐な見た目とは裏腹に、大きなパンを両手に抱えている。

 小さな口でかぶり付こうとした瞬間。彼女は視線に気が付いたのだった。

 

 自分が絵を描く邪魔をしているのではないかと、懸念したのだろう。

 その女性は慌てて立ち上がり、隅へと移動する。

 

「いえ、そんなことは……」


 邪魔だとは、一切感じていなかった。むしろ生い茂った緑に、彼女の姿はよく映える。

 慌てて否定をするものの、移動した彼女へ「戻ってくれ」というのも変な話だ。

 

 少し勿体ない事をしたと思いつつも、真っ白なキャンパスへ筆を走らせていく。

 途中。彼女の喉が何度も膨らんだ。咀嚼したパンを呑み込んだのだろう。

 パンの欠片を拭う指の動きを、自然と眼で追ってしまう。


 女性の食事をチラチラ窺うのも失礼だと思ったが、自分の身体は正直だ。

 思わず見惚れてしまう程、彼女は美しかった。


 一方で、自分の様子を窺う視線に気付かないはずもない。

 琥珀色の瞳が、自分の姿を捉えていた。


 食事を終えた彼女は徐に立ち上がる。その視線は、自分の姿を捉えていた。

 反射的に目を逸らしていると、足音が聴こえる。彼女が近付いてきているのは明白だ。

 やはりまじまじと見るのは失礼だったか。怒れても致し方ないなどと考えていると、彼女の声が聴こえた。

 それは怒号や罵声を覚悟していた彼にとって、それは意外なものだった。

 

「どんな絵を描いているんですか?」


 彼女はひょいと、身体を傾ける。

 重力に沿って揺れる髪が、自分の頬に触れる。くすぐったいが、心地よいと感じた。


「いえ。この樹とその周辺を適当に描いているだけで……」


 どぎまぎしながらも、男は答える。

 キャンパスの中心には、一際大きな大木が描かれていた。

 この国で最も古く、太い樹。とはいえ、それだけだ。この樹に大きな価値を持つものはいない。

 自分だって、絵を描くのにちょうどいい場所だからと選んでいるに過ぎない。


「へぇ……」

「あの、決して画家とかではないので。趣味の範疇言いますか……」


 じっと自分の絵を見つめる彼女を前にして、恥ずかしさが顔を覗かせる。

 芸術の国(クンストハレ)では、自分よりも上手い。自分よりも味のある絵を描く人間など、ごまんといる。

 

 男は自分の絵が品評される日が訪れるとは思ってもみなかった。

 この緊張は美しい女性が顔を近付けているからか、絵が酷評される事に対する恐怖からなのか分からなくなっていた。


「なのでその、あまり酷評をされても困るというか……」

「え? ……ああ!」


 流石に趣味と言えど、あまりに酷評されてしまえばそのまま筆を折りかねない。

 それだけは勘弁してくれないかと、暗に伝えようとしたところ。

 美しくハリのある彼女の眉間に、縦皺が刻まれた。

 

「違いますって! ただ純粋に、興味があっただけですよ。

 わたしだって、芸術に明るいわけじゃないですから」


 誤解をさせて申し訳ないと、彼女は苦笑する。


「それに、絵のことは分かりませんけど。

 わたしは上手だと思いますよ」


 自分の絵はあくまで趣味。誰かに評価をされた経験など、無かった。

 芸術家と比べるのも烏滸がましい程の差があると、自覚もあった。


 けれど彼女は、そんな絵を「上手」だと言ってくれた。

 明るい陽射しにも負けないぐらい、その笑顔が眩しく見えた。


「あれ? 『上手』はちょっと上から目線だったかしら……。

 ごめんなさい、別にあなたの絵を評価したいわけじゃなくってですね!」


 自分が彼女に見惚れていたからか。

 言い方を間違えてしまったのではないかと誤解した彼女が、顎に手を当てながらブツブツと呟く。

 男はその様がおかしくて、思わず笑みを溢してしまう。

 美しさだけではなく、どこか可愛らしさも残している。彼はこの時、もう恋に落ちていたのかもしれない。

 

 これがユリアンと、イリシャの出逢い。

 法導暦0331年の、春の日の出来事だった。

 

 ……*


 イリシャと知り合って数ヶ月が経過した。

 彼女は元々、芸術の国(クンストハレ)の人間ではない。

 冒険者として旅をする中、この国に立ち寄ったのだという。


「いつも組んでいた人が、結婚しちゃったのよねぇ。

 素敵な旦那さん見つけたみたいで何よりだけど、惚気話ばかり聞かされているわ」


 あれから度々、イリシャは絵を描くユリアンの元を訪れていた。

 生い茂った芝生に腰を下ろしながら、イリシャはユリアンの描く絵を漠然と眺めている。


 彼女は剣士の女性と組んで、冒険者として活動していたらしい。

 ただ、その相棒が結婚してしまったという事で今は手持無沙汰だという。


「他の誰かと冒険に出かけたりはしないのかい?」

「うう……ん」


 ユリアンの問いに対する返答は、あまり歯切れが良くない。

 後で知った話だが、彼女はその美しさ故に言い寄られる事が少なくはないというのだ。

 そんな軟派な男達から自分を護ってくれていたのが剣士の女性であり、イリシャも全幅の信頼を置いていた。

 

 人付き合いが苦手という訳ではないが、命の関わる極限状態では想像もしなかった事が起こり得る。

 信用に足る人物を見極める役割も女剣士が担っていた為、目利きにはあまり自信がないようだった。

 

「最近はわたしも薬草の採取や調合ばかりだわ」


 彼女が得意とするのは、薬の調合だという。

 だから独りで無理をして、危険な地へ赴く必要もないのだとか。


 一方で、ユリアンは不安を覚えた。

 彼女は好奇心が旺盛だ。自分の決して上手くはない絵にさえ、興味を持ってくれるぐらいには。

 

 何より、彼女はこの国の人間ではない。

 この時間が終わってしまうのではないかと、ユリアンは漠然とした不安を抱いた。


「……だったら、イリシャ」


 そうなる前にと、ユリアンは勇気を出した。

 彼にとってこの場所は、いつも絵を描いている場所というだけではなくなっていた。

 イリシャと。自分が恋心を抱く女性(ひと)と話をする、憩いの場。

 そこに彼女が訪れなくなるのは、耐えがたかった。


「この街で、薬屋を開いてはどうだい?

 君の傷薬は、評判がいいんだろう? 私も手伝うから……どうだい?」

「んー……?」


 突然の提案に、イリシャは首を傾げる。

 どうしてユリアンはそんな事を口走ったのかと、物思いに耽る。

 そして彼女は辿り着く。そう難しくもない答えへと。


「ねえ、ユリアン。わたしは別に、お店を持ちたいってわけじゃないのよ。

 それなのに、どうしてそんな提案をするのかしら?」


 ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、イリシャは顔を近付ける。

 この時点でイリシャの答えは決まっていたのだが、ユリアンは緊張のあまり気が付いていない。


 ユリアンはあまりにも遠回し過ぎたと、後悔をした。

 だが、このままでは彼女は去ってしまうかもしれない。

 そうなるぐらいならと、思いの丈を口にする。

 

「それはその、私がずっと君の傍にいたいからで……。

 冒険者は無理でも、共に居られたらと思って……」


 思い返せば、歯切れの悪い言葉が並べられている。

 格好悪い告白だったにも関わらず、彼女が頷いてくれた時は歓喜に打ちひしがれた。


 こうして、イリシャは芸術の国(クンストハレ)に腰を落ち着ける事となる。

 ユリアン・リントリィと結婚し、イリシャ・リントリィと名を改めるのは翌年の事だった。

 

 ……*

 

 自分の顔に小じわが増えていく。

 これが人生に刻まれた幸せの数なのだと思うと、誇らしい。

 

 授かったひとり息子もすっかり、大人になった。

 その一方で、イリシャは決して変わらない。愛する妻はいつまでも若々しく、美しかった。

 

 初めは疑問にも思わなかった。

 彼女は傷薬を作る傍ら、美を保つ為の化粧品を生み出す事にも力を注いでたいから。

 その努力が実っていたのだと、勝手に思っていた。

 

 けれどそれは誤りだと突き付けてくるのは、刻の流れ。

 毎日見ているからこそ、解るのだ。イリシャは決して老けてはいない。

 いつまでも若々しい姿を保っているのだと。

 

 不思議ではあったけれど、悪い事ではない。自分や息子は気にも留めなかった。

 彼女も美を保とうと追求していたぐらいだ。喜ばしいのではないかと考えていた。

 イリシャが。愛する妻が、苦悩していたとは夢にも思わなかった。



 

「ユリアン。アル。わたし、この家を……出ようと思うの」


 ある日。家族のひと時は一瞬にして凍り付いた。

 喉に流し込んだ紅茶が焼け焦がれるように熱かったのを、今でもはっきりと思い出せる。


「か、母さん……!?」


 息子のアルは狼狽している。

 体重を乗せた机が揺れ、スプーンが床へと転げ落ちた。


「理由を聞かせては……くれないか……?」


 ユリアンは冷静を装いながらも、内心ではアルよりも遥かに動揺をしていた。

 知らぬ間に不満を募らせていたのだろうか。自分に至らぬ所があったのでないか。

 そんな悪い予感が彼へと襲い掛かる。


「理由は……。わたし自身よ。どう見てもこの身体、おかしいでしょう?」


 ゆっくりと息を吐きながら、イリシャは掌を開く。

 白く細い指は、一切の年齢を感じさせない。

 首元だって、額だって。皺ひとつ見つからない。出逢った頃のように、瑞々しさを保っていた。

 すっかり成長した息子と並んで歩くと、姉弟に間違われる日もあった。

 

「そんなことは……」


 ユリアンは決して、イリシャが「おかしい」とは思わない。

 けれど、人とは違う。そういう意味合いであるならば、否定は出来ない。

 眼の前にある彼女の姿が、純然たる事実として残っているのだから。


「ごめんなさい。ユリアンやアルなら、そう言ってくれるわよね。

 けれど、他の人はどうかしら。こんなわたしの体質を、受け入れてくれるとは限らないでしょう?」


 ユリアンとアルは互いの顔を見合わせる。

 彼女が突拍子もなく「家を出る」と言った理由を察したからだ。


「そんな……。まさか、僕のせいで……?」


 アルが狼狽えるのも無理はない。

 他の人間がリントリィ家に介入する状況など、限られている。

 自分の結婚が控えているからこそ、母は自ら行方を眩まそうとしているのだと悟った。


「あなたのせいじゃないわ、アル。

 わたしのせいで、あなたが幸せになれないことの方が辛いもの。

 あなたは、あなたが選んだ女性と幸せになって欲しいの。

 母親として間違った選択かもしれないけれど、許してちょうだい」

「っ……」


 アルは言葉を詰まらせた。彼の愛した女性は信じている。

 彼女は決して、イリシャに対して悪感情を抱く事はないだろうと。


 だが、母はそれより先を見据えて話しているのだ。

 何年。何十年と経った時。依然として変わらないイリシャを見て、周囲はどう思うのか。

 

 好奇の眼に晒されるだけならまだいい。

 決して老いない彼女と同じ存在に成りたくて、諍いが起きたとすれば?

 危害が家族へ、更には親族にまで及ぶなら?

 冒険者をしていたからか。彼女の懸念は、はるか先まで見越していた。


「ユリアンも、ごめんなさい。どうか……許して」

「……っ」


 イリシャの願いを、ユリアンの心は拒絶していた。

 それでも「嫌だ」と断れないのは、彼女が涙を流しているから。

 本心では自分達家族と共に居たいと想ってくれているのが、伝わるから。


「イリシャ。許すもなにもない。……行っておいで」

「……ええ。ごめんなさい、ユリアン、アル。

 愛している。あなたたちの幸せを、ずっと祈ってる」

「ありがとう。イリシャこそ、身体には気をつけて」


 イリシャは二度と逢えない辛さを少しでも和らげようと抱擁を交わす。

 まずは息子のアル。自分がお腹を痛めて産んだ愛する我が子を、抱き留める。


「アル。マリーちゃんと幸せになってね。

 お母さんらしいこと出来なくて、ごめんなさい」

「そんなことないよ。僕の方こそ、母さんの子に生まれて幸せだった。

 ありがとう、ごめん……」


 お礼と謝罪の言葉には、嗚咽が混じっていた。

 母親として最低の好意をしていると自覚しつつも、イリシャは息子の幸せをただただ願う。


 続けて、イリシャはユリアンと抱擁を交わす。

 ユリアンも彼女の温もりを忘れないよう、彼女を強く抱きしめた。


「ユリアン。これだけは信じて欲しい。

 あなたに逢えて、本当に幸せだった」

「疑うものか。私だって、たくさんの幸せを君から貰った……!」


 疑うはずもない。彼女がどれだけ、自分達を愛してくれていたかを一番理解しているのは自分なのだから。

 出来るなら、その幸せを少しでも多く返したかった。否、共有したかった。

 だがそれは、もう叶わない。突き付けられる事実に、ユリアンは咽び泣く。

 

 自分の腕から、イリシャの温もりが離れていく。

 涙で歪んだ視界の先に、イリシャが居る。

 

 もう一度、はっきりと彼女の笑顔を瞳に焼き付けたい。

 叶わぬ願いだと知りながらも、ユリアン・リントリィは願ってしまった。

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