41.きみのためなら死ねる
レイバーンが何を言っているのか、解らなかった。
視界が霞む。浅い呼吸を何度も、何度も繰り返す。
周囲の雑音が煩わしい。何を言っているのか、解らない。
頭で理解していても、心で解りたくない。
そんな中で、レイバーンの声だけがはっきりと自分の中へと染み渡る。
でも、それは望んだ言葉ではなかった。
自分が望んだのは、ずっと彼と一緒に居る事だ。
向かい合う事ではなくて、共に並ぶ事だ。
「ああ、そうだ」
胡坐をかいて座ったレイバーンが、何かを思い出したようだった。
そうだ、これは悪い夢なんだ。死ぬつもりなんてないんだ。そう言って欲しかった。
「間も無く余の部下がここに着くだろう。
だが、余は人間とも妖精族とも争うつもりはない。
見逃しては貰えぬか?」
なんで、そんな事を言うんだろう。
レイバーンが一言、みんなに「帰ろう」と伝えるだけなのに。
どうして、ほかの人に頼むんだろう。
ストルは、言葉を発する事は無かった。
僅かな頭の上下運動には、彼への感謝と敬意。そして、申し訳無さが込められていた。
いつも目の敵にされていた男へ願いが通じ、レイバーンは笑みを浮かべた。
最期に分かり合えたと、満足した顔だった。
「善処しよう」
同じく、ガレオンが頷いた。
この男は初めて見る。何を考えているかも解らない。
だが、レイバーンは約束を信じようと決めている。
最期の景色を堪能ししようと、周囲を見渡す。
妖精族の群れに一人、会話を交わした事のある少女の存在に気付いた。
フェリー・ハートニア。シンと共にアルフヘイムの森を訪れた異邦人。
「フェリーか、シンを連れ攫って済まなかったな。
もうすぐこちらに着くだろう。感謝を伝えておいてくれ。
……それと、何度も『帰せ』と言っていたので謝罪も伝えてくれると助かる」
「っ……」
レイバーンは苦笑した。
フェリーは、ただ口を開けている事しかできなかった。
久しぶりにシンと逢える事よりも、目の前の出来事を理解する事の方が脳のウェイトを占める。
どうすればいいのか、解らない。
何をすれば、リタを哀しませずに済むのか。
「レイバーン!」
妖精族の群れを漸く抜け出したイリシャが声を荒げた。
息を切らし、紅潮した顔。こんなに余裕のないイリシャは初めて見たと、レイバーンはまた笑った。
「イリシャ。ルナール達にはちゃんと説明をしてくれまいか。
お主の話なら、きっと素直に聞き入れるであろう。
間違っても、争いにならぬようにな」
「何を言っているの! 貴方、リタの事をちゃんと考えて言っているの!?」
「当然だ」
きっぱりと、レイバーンが言い切った。
リタの視線が、レイバーンに向けられる。
自らの死を選んだ者とは思えない、清々しい顔をしている。
そんな顔をしないで欲しかった。
恐くて目を合わせる事が出来ずに居ると、レイバーンは哀しそうな顔をした。
そんな顔は見たくなかった。でも、そんな顔をさせたのは自分だった。
「さあ、リタ様。弓を構えて。
お気持ちは察しております。ですが、これも妖精族の為です。
女王たる者、毅然とした姿を皆にお見せください」
震えるリタの耳にぬるりと、レチェリの声が入り込んだ。
耳障りな音なのに、逆らう事が出来ない。
リタはどうして、女王になったのかを自らに問い掛ける。
妖精王の神弓に選ばれたから?
違う、後付けだ。自分は妖精族が好きなのだ。
大切で、護りたいものなあるからこそ女王になる事を受け入れたのだ。
では、自分が今行おうとしている行為は何なのか。
愛する者に弓を引く事が、同胞を護る?
意味が解らない。話が繋がらない。
信仰する神は、どうしてこんな仕打ちをするのか。
自分が誉高き妖精族らしからぬ欲を抱いたから、その報いを受けているのだろうか。
カタカタと手が震える。妖精王の神弓も合わせて小刻みに揺れる。
今、手に握られている物の感覚すら朧げになる。
「リタ様。それでは妖精族に当たってしまいます」
そっと優しく、レチェリが手を添える。
白く冷たい指がリタの手を持ち、胸の高さまで上げる。
その先には、レイバーンの顔があった。
彼と目が合う。どんな顔をすれば良いのか判らない。
唇がカタカタと震える。揺れる身体は、レチェリによって支えられている。
背を向ける事は叶わない。顔を逸らそうとしたその時。
「リタ」
彼の優しい声が鼓膜を揺らす。
驚いたような、怯えたような震えがレチェリの拘束越しでも判った。
「そんな顔をするな」
「ど……して……」
どうしてそんな事を言うのか。言えるのか。
「余はリタの大切なものが護れるなら本望だ」
「っ、ぐ……」
涙で視界が歪む。リタの瞳には、彼の姿が正しく映っては居なかった。
妖精族も、レイバーンも自分にとってかけがえのないものなのに。
両方を大切にする選択肢を、どうして選ばせてくれないのか。
「さあ、リタ様」
神弓から光の矢が精製される。弦を引き、全てはリタの右手に委ねられた。
輝く鏃の先には、レイバーンがいる。
妖精王の神弓はその輝きを失わない。
こんな事をしていても、神弓は決してそっぽを向かないのだ。
無抵抗の、自分の大切な人を射る事を拒絶しないのだ。
こんな事が正しいはずないのに。
それでも神弓は輝きを放ち、自分はその弓を引いている。
頭がおかしくなりそうだった。
ぽろぽろと零れ落ちる涙を見て、レイバーンは言った。
「泣くな、リタ。……愛しておるぞ」
「っ!」
ずっと言って欲しかった言葉。
ずっと言いたかった言葉。
飛び跳ねる程嬉しいはずなのに。顔がくしゃくしゃになるぐらい嬉し泣きをしたいはずなのに。
今は、違う涙が止めどなく流れる。
この手を放したくない。
放せば、レイバーンを殺してしまう。
この手を放せば、きっと妖精族の女王リタ・レナータ・アルヴィオラとしてしか生きられなくなる。
恋をして、笑って、自分と相手の気持ちで一喜一憂するリタは、きっと死んでしまう。
そう思うと、この指は今、何よりも重要なものだと思えた。
「さあ! リタ様!」
だが、レチェリが許してはくれない。痺れを切らし、声を荒げる。
妖精族と人狼の情事など下らないと言わんばかりに。
「レチェ……や、め……っ!」
レチェリは強引にリタの右手をほどく。
光の矢が強大な魔力を宿しながら、放たれる。
「レイバ――!」
その矢は真っ直ぐに――。
「ダメっ!!」
二人の間に飛びだした、フェリーの身体へと突き刺さる。
そのまま彼女の身体は崩れ落ち、地面に真紅の液体を染み込ませる。
アルフヘイムの森が、静まり返った。
……*
泣きながら弓を引くリタの姿を見て、フェリーの記憶と重なり合う。
あの顔は、識っている。
怯え、逡巡し、哀しみ、拒絶を孕んだ顔。
忘れるはずもない、あの日と同じだった。
10年前。自分がシンにさせてしまった顔と同じだった。
愛しくて、大切で、傍に居て欲しいひと。
そんな大切なひとに、真逆の表情をさせてしまった。
このままリタがレイバーンを討てば、彼女は一生後悔をする。
妖精族がどうとか、魔獣族がどうとか、隣国がどうとか、そんなものを考えられるほどフェリーは器用でない。
でも、彼女が苦しむ事だけは既に識っている。
誰よりも、識っている。
ずっと隣に居てくれる彼が、そうなのだから。
そんな事は許されない。
二人はまだ、何も始まっていない。
自分のように、裁かれるべき理由がない。
――フェリーはどうしたいんだ?
シンの言葉が、聞こえた気がした。
でも、今この場に彼は居ない。
彼に訊かれた事を理由にしてはいけない。
考えるのも、決断するのも、自分だけで行わなければならなかった。
出した結論は簡単だった。
死んでほしくない。
リタがレイバーンを、討っていいはずがない。
「フェリーちゃん!?」
気がつくと、脚が勝手に動いていた。
イリシャの声は、耳に入っていなかった。
レイバーンを死なせるわけにいかない。
リタに殺させるわけにいかない。
ただそれだけを考えて、フェリーは二人の間に割って入った。
……*
魔力で造られた光の矢は拡散し、霧散する。
フェリーの身体には穴が開いたまま、その血を止めどなく流していく。
その場に居た全員が、目の前の光景を疑った。
何故、人間の少女が倒れているのか。
何故、彼女は飛び出したのか。
フェリーの心中を理解しているものは居なかった。
一人を除いて。
「どいて……! フェリーちゃん! どうしてこんな……」
唯一、彼女の心情を理解したイリシャがフェリーへと駆け寄る。
不老不死だと知ってこそいるが、実際に怪我をするフェリーを見たのは初めてだった。
普通なら確実に命を落としている。それほどの傷と出血量だった。
「へへ、あたしなら死なないから……」
「確かにそうかもしれないけれど――」
イリシャはぞっとした。
死なないといっても、痛みは感じると言っていた。
それなのに、彼女はさも当然のように言ってのけた。
「フェリーちゃん……!」
「フェリー!」
遅れてリタとレイバーンが駆け寄る。
リタを抑えていたレチェリは、予想外の出来事に呆然としていた。
「お主は一体何を……」
「だって、レイバーンさん、逃げようとしたもん」
「は……?」
フェリーが何言っているのか、レイバーンには解らなかった。
「告白したら、ちゃんと返事聞かなきゃ。
あんなのズルっこだよ」
「お主というやつは……」
今度は、リタの方へと顔を向ける。
美しい妖精族の女王は、涙で顔を腫らしていた。
「リタさんも、ダメ。こんな危ないのじゃなくて、ちゃんと言葉で返事してあげて」
首を激しく上下させながら、リタが返事をする。
嗚咽混じりで、何を言っているのか全く分からなかったけどそれで良いと思った。
「ふざけるな!」
ガレオンの怒声が、空気を一変させる。
ビリビリと張り詰めた空気になり、主導権を握ろうとしていた。
「貴様ら妖精族の女王が撃ったのは、人間の少女だぞ!
やはり、侵略を考えていたという事か!!」
「は……!?」
フェリーが反論を試みるが、まだ回復が追い付いておらず声が上手く張れない。
神器でのダメージは思ったより深く、時間が掛かるようだった。
「違う! リタ様は間違いなく魔王を討とうとしていた!
貴様も見ていただろう!」
「実際に横たわっているものを見ろ! か弱い人間の少女ではないか!
貴様ら妖精族が、人間を撃ったという事実が覆る事はない!」
レチェリの反論を、ガレオンが一蹴した。
明らかに共犯だと思っていた二人の内輪揉めに、ストルは眉を顰めた。
恐らく、リタがレイバーンを討つという事までは二人で利害が一致していたのであろう。
それをあの人間の少女が邪魔をした事で、計画が崩れた。
互いの思惑の食い違いが、この場で表面化していた。
「いーかげんなコト言わないでよ。あたしは生きてるし、リタさんはちゃんと撃ったじゃん。
レイバーンさんが死ななかっただけでしょ。二人は手を組んでいないって、証明されたでしょ」
イリシャに肩を借りながら、フェリーが言った。
声はまだ、張るのが苦しそうだった。血は止まったようだが、傷が完全に塞がったわけではない。
明らかに致死量の出血をものともしない彼女に、空間がざわめく。
事情を知っているイリシャ、リタ、レイバーン以外はその姿に恐怖すら覚えた。
「お、お前……なんで立っていられるんだ……。
今の間に、治癒魔術でも受けていたのか。いや、リタ様は確かに得意ではあるが――」
ぶつぶつともっともらしい理由を考えるストルを見て、フェリーから笑みが零れる。
なんとなく、この人は悪い人ではないと思った。
しかし、レチェリとガレオンはそういうわけにはいかなかった。
「ば、化物め! 貴様、魔族の仲間だな!」
「おのれ! 人間のフリをしていたということか!」
この二人はきっと何を言っても引き下がれないのだろう。
「……好きほーだい言ってくれるね」
あんな酷い事を企む人たちに言われる筋合いはない。
フェリーは本気でそう思った。
「ギランドレが将軍、このガレオンが貴様を成敗してくれる!」
壁を作るように並んでいた兵隊が道を開けると、現れたのは大型弩砲だった。
先刻までは影も形も見当たらなかった、巨大兵器。
恐らく、騒ぎに乗じて土魔術で創造されたものだとイリシャは推測した。
「そ、そうだ! 撃て、ガレオン!
あの化物を殺してしまえ!」
どうやら、そこはレチェリとガレオンの利害が一致するようだ。
レチェリは、もう自分の本性を隠そうともしなくなっていた。
しかし、あの大型弩砲はまずい。
フェリー自身は死ぬ事がなくても、他の妖精族やレイバーン、イリシャがどうなるかは別だ。
魔導刃は飛び出してきたのでリタの家にある。
それ以前に、まだ満足に身体を動かせそうにない。
大型弩砲を破壊せんと、リタは妖精王の神弓に魔力を込める。
迷いがないせいか、先刻より眩い光を放っていた。
レイバーンはその身で矢を撃ち落とそうとしている。
ストルは、里を護るため結界魔術の詠唱を唱えていた。
だが、どれも大型弩砲の射出には間に合わない。
「――撃てい!」
ガレオンが叫んだその瞬間。
一発の銃弾が、大型弩砲に着弾する。
たかが一発、土魔術で生成された大型弩砲には痛くもかゆくもない。
それが、普通の銃弾であるならば。
「――なにぃ!?」
その弾は着弾した瞬間に、多量の水を生み出した。
土で創り出された大型弩砲は、みるみるその身を泥に変えて崩れていく。
魔導弾のひとつ、水属性の弾を射出する水流弾だった。
魔導弾を持っているのは、ただ一人しかいない。
「――シン!」
フェリーの瞳に映る、黒髪の青年。
三日ぶりに会う相棒の姿がそこにあった。
突如現れた新顔に、全員の視線が集まる。
だがその表情からは、感情が読み取れない。
ただ一人、フェリーだけがシンの怒りに気付いていた。