426.彼女を棄てた理由
クロエはまだ諦めきれなかった。
自分が不在の間に夢が潰えたなどと、認められるはずがなかった。
刃を持つ蜥蜴は討伐されたけれど、自分の順番では無かっただけだ。
冒険者を続けていれば、必ず訪れる。自分が主役となる時が。
彼女は本気で、そう信じていた。
その根拠として、クロエは今まで鍛錬を積み上げていた。
努力は身を結ぶはずだと、信じて疑わなかった。
だが、その努力はあくまで人並みなのだ。
「頑張った」という線を相対的なものではなく、自分の中で引いてしまった。
故に成長の波は、時間の経過と共に緩やかになっていく。
この点に関して、クロエに落ち度はない。
特殊な教育を受けた訳でもなく。才能に秀でた訳でもなく。
そうしなければならない理由も、彼女には無かったのだから。
ただ、同時に覚悟も足りなかった。
漠然とした夢は、瞭然とした現実との差を教えてはくれなかった。
鈍った身体を鍛え直している間、赤子の鳴き声にで中断されるのが癪に障った。
夫の傷が肉体的には癒えた頃。
目指している場所も、立っている場所も曖昧なままクロエは冒険者としての活動を再開した。
夫婦二人での、冒険者業の再開。
彼の心の内が精神的外傷に囚われている事には、目を瞑った。
そんな状態で危険を冒す事の意味さえ、考えようともしなかった。
薄暗い遺跡の中。仄かに漂う血の臭いは、魔物か他の冒険者なのか。
クロエにとっては緊張感が走ると同時に、懐かしくも感じる。
暫く前線を離れていたというのに、あの頃の感覚が取り戻されていくようだった。
だが、夫にとっては違う。
その臭いは恐怖を呼び起こさせるものだった。
次の瞬間、刃のような尾を持った魔物が襲い掛かってくるのではないか。
今度は自分なのではないかと、彼は錯乱をした。
発狂する彼の声を呼び水に、魔物達が次々と襲い掛かる。
近くに他の冒険者は見当たらない。ブランクの在るクロエ独りではとても対処しきれず、撤退を余儀なくされた。
結果として、遺跡の探索は失敗に終わる。小さな擦り傷ひとつでカタカタと身を震わせる夫の背中が、ひどく小さく見えた。
……*
久しぶりの冒険だという事で、夫婦は装いを新たにしていた。
そうでなくとも、夫の治療費も決して安くはない。その間、当然ながら収入はゼロだった。
冒険に出れば返せると豪語し、借りた金を返す当てが外れた。
だからと言って、返済期限が延びる訳でもない。
金は返さなくてはならない。冒険者は辞めたくない。
今回は運が悪かっただけだ。次こそは、稼げる。
未だ現実の見えていない彼女は、その場しのぎで金策に励んだ。
尤も、その手段は人の道として正しいとは言えない。
向かった先は生家の在るミスリア。家族や周囲の人間はこぞって近寄った。
「クロエ! 今まで一体何をしていたというの!?」
「冒険者をしてるの。ただ、今ちょっと入用で。
仲間が怪我をしちゃって、お金が必要になっっちゃって」
真実と虚構を織り交ぜながら、それらしい話をクロエは構築していく。
冒険者となった自分を支えてくれた恩人が、負傷をした。
依頼人の屋敷を魔物から護ったけれど、大切な家財を傷付けてしまった。
あの手この手で金をせびるクロエに周囲は訝しんだが、最終的には貸してくれた。
皆も彼女を心配していたのだ。女が身ひとつで、飛び出していった事に。
ただ、クロエは最後まで自分の子については話さなかった。
もし話してしまえば、実家のあるミスリアへ強制送還されてしまう。そう確信していたから。
クロエは結局、数年ぶりに帰還したミスリアでありったけの金を借りた。これだけあれば、借金はゆうに返せるだろう。
いつかその名を轟かせ、耳を揃えてきっちりと返す。誰かに宣言する訳でもなく、己の心にだけ彼女は誓う。
その約束は、未だ果たされていない。
……*
借金は返済した。懸念は払拭されたと考えているのは、クロエだけだった。
未だ夫の精神的外傷は何も解決をしていない。それどころか、悪化をしていた。
積み重なる依頼の失敗。
遺跡や洞窟の探索だけではない。昔は軽くこなしていた魔物の討伐でさえ、支障をきたすようになった。
魔物と命のやり取りをする事に、夫は強い忌避感を示し始める。
次第に現実から逃げるようにして、彼は酒を浴びるように飲み始めた。
泥酔した彼が家族へ当たり散らすようになる。昔はそんな男ではなかったのにと、クロエは辟易する。
尤も、恐怖に怯えた彼と未だ夢の為に戦う意思を見せているクロエ。組み伏せるのに、難は無かった。
ただ、再び借金が積み重なっていく。音信不通の家族から、金を引っ張り出す事は出来ない。
ならば、不要な物を切り捨てていくしかない。お金に換えられるものは、なんでも換えるしかない。
この家で価値のあるものはなんだろうか。そう考えた時、彼女の脳裏に一人の少女が浮かんだ。
常に声を殺して、部屋の隅っこで蹲っている金髪の少女。名前も付けていない、自分の娘。
「う?」
クロエは少女の顔に、そっと手を当てる。大した面倒も見ていないからか、彼女はとても薄汚れていた。
けれど、顔立ちは自分に似ている。きっと需要はあるはずだ。
対して面倒も見ていない子供だが、日々の食費は間違いなく抑えられる。
最後に産んだ恩を返してもらおうではないか。クロエはまた一歩、人の道から外れていく。
金髪の少女は、意味も判らず外へと連れ出された。
いつもは窓から差し込んでくるだけの光を、全身で浴びる。たったそれだけの事で笑顔になっていた。
娘の姿を見て、クロエは安堵した。
それは、善い人に引き取られるだろうという意味ではない。
笑顔で離別したが故に、自分が罪悪感を抱かなくて済むという酷く独善的なものだった。
自分と同じ金髪を持つ娘と別れて、20年以上が経過した。
彼女達は、再びこの地で再会を果たす事となる。
……*
「とう……ちゃくっ!」
船から降りる際。ぴょんと跳んでは大地を踏みしめる。
耳を隠す為に被ったフードから、銀色の髪が見え隠れする。
妖精族の女王、リタ・レナータ・アルヴィオラはミスリアに続いてリオビラ王国の大地を踏みしめた。
「いやー。船って、こんな感じなんだね!」
初めての船旅に、リタは興奮を隠せない。
見た目が子供だからか、周囲の目も旅行に来た子供だと見間違っているぐらいだ。
「リタったら、元気ねえ」
口元に指を当てながら、イリシャがくすくすと笑みを溢す。
「だって、皆は船に乗るけと私は初めてだもん。
嬉しいに決まってるよ!」
リタは両手を広げては、自分がどれだけ憧れていたかを表現する。
ずっと羨ましいとは思っていたのだ。ミスリアやクスタリム渓谷へは向かったものの、陸続きの旅だ。
カタラクト島だって、マギアから帰るのだって、空白の島にだって向かっていない。
正真正銘、初めて乗る船は彼女の想像を大きく上回っていた。
「ホントにあんなにおっきくて、たくさん人を乗せられるんだね!
しかも、魔術もなしにだよ!? 人間って、ベルちゃん以外でも凄いんだねぇ……」
小舟程度なら、リタも乗った経験はある。
けれど、人を荷物であるかのように積み込んだ客船は初めてだった。
今回乗った船は、魔導石を搭載していない。
だからこそ余計に興奮をしてしまう。
「それも、船の上で何回も聞いたわ。ねえ、フェリーちゃん?」
「え? う、うん!」
もう一度苦笑をしながら、イリシャはフェリーへと話を振る。
急に話を振られた彼女は、僅かな緊張を覗かせながらイリシャに同意をした。
今回、リオビラ王国へ訪れたのはフェリー、イリシャ、リタの三人。
シンが別行動となる以上、フェリーは自分一人でも訪れようとしていた。
その状況に待ったを掛けたのが、イリシャとリタである。
自分を産んだかもしれない人間に一対一で逢うのは、本当に正しいのか。
いざという時は自分が護ると手を挙げたのが、イリシャとリタだった。
皆の「お母さん」として。親友として。
二人はシンの代わりを立派に務め上げようとしている。
「ストル。フェリーさんが、転移魔術の設置を独りで出来ると思いますか?」
「う……」
まだリタが不在となる事に難色を示したストルだが、彼女の擁護をしたのはオリヴィアだった。
余談だが、マレットも同意をしている。
フェリーがクロエに逢うだけであれば、ストルも折れなかっただろう。
だが、こちらの理由には納得せざるを得ない。なんだかんだで、研究チーム以外に魔術を熟知している人間は限られるのだから。
「フェリーちゃん、本当に大丈夫?
なんだったら、転移魔術の設置だけでも……」
こうして三人で訪れたリオビラ王国だが、フェリーの様子が明らかにいつもとは様子が違う。
やはり、クロエに逢うのは考え直した方がいいのではないか。その選択も吝かでは無かった。
「う、ううん。だいじょぶだよ!
ただ、その、ちょっと……。シンがいないの、寂しいかなって。
いたらいたでゼッタイ、クロエさんにオコるとは思うんだけどね!」
シンが居なければ不安だが、居たら居たで不安がある。
ジレンマを抱えながら、フェリーは慌てふためく。
その様子はいつもの彼女とあまり変わりなく、イリシャとリタは互いの顔を見合わせははにかんだ。
「そっか、それならいいんだけどね」
「ヤなことがあったら、私が護ってあげるからね」
「うん、ありがと」
自分独りだと、もっと不安に押しつぶされそうになっていただろう。
フェリーはイリシャとリタが付いてきてくれた事を、心から嬉しく思った。
クロエが自分を産んだ人間だとしても。そうでなくとも。
彼女達が居れば、きっと乗り越えられる。心から、そう思えた。
(シンも、そろそろ妖精族の里を出ていった頃かな……?)
それでもやはり、フェリーはシンが気になって仕方がない。
彼は今、どこで何をしているのだろう。早く終わらせて、また顔を合わせたい。
お互いの身に起きた出来事を、話し合いたい。笑って話せる事だといいなと、思い浮かべていた。
ただひとつ、気掛かりなのは。
(シン、けっきょくドコに行くか教えてくれなかった……)
彼の向かった先が、最後まで不明だった事ぐらいだろうか。
自分に隠れて危険な真似をしなければいいけれどと、フェリーは僅かな不安を胸に抱いていた。
……*
一方、妖精族の里。
転移魔術の魔導具と最低限の荷物を抱え、シンは立ち上がる。
自分の抱いている確信を、確かなものへと変える為に。
「行くぞ」
「ああ、いつでもいいよ」
振り返った先で待つのは、魔導具による義手を右腕に装着した男。
研究チームの一員である、テラン・エステレラ。
「しかし、意外だね。君から指名を貰えるなんて。
ベルは妖精族の里を離れられないとしても、アメリア・フォスターなら同行してくれそうなものだけど」
自分の旅へ同行するよう要請を受けた時、テランは意外だった。
確かに自分はシンを気に入っているが、必ずしも逆が当て嵌まる訳ではないと知っているからだ。
「どうしても、お前の力が借りたい」
いつものような仏頂面で呟いたにも関わらず、テランは言葉に妙な重みを感じた。
彼は決して気紛れで動くような人物ではない。特に、フェリーと別行動を取るのだから尚更だ。
「本当に、意外だね」
うっすらと笑みを浮かべながらも、テランは張り詰めた空気を感じ取る。
世界再生の民に対抗する為だけではない。彼自身の戦いに於いて、この旅は間違いなく分岐点となる。
そう思わせるには、十分な気迫だった。
テランとしても、純粋な興味深さがあった。自分が彼を必要とする理由そのものに。
その根底にあるのは、ある種の恩返し。シンは自分の人生を一変させてくれた。
彼は決して気にしていないし、要求もしてこないだろう。だから、一方的に返すとテランは決めた。
「君がそこまで言うのなら、本当に大切なことなのだろう。
僕でなければならない理由に心当たりはないけれど、協力は惜しまないつもりさ」
「……助かる」
やはりシンは、喉から声を絞り出しているように思える。
そこまでして向かわねばならない場所は何処なのか。
自然とテランにも、シンの緊張が伝わっていた。




