425.とある少女の話
彼女はそれなりに幸せな幼少期を送っていただろう。
世話焼きではあるが、愛情を持って接してくれた両親。
顔立ちのよく似た双子の姉とは、いつも仲が良かった。
笑顔の絶えない食卓。旅行だって、定期的に連れて行ってくれた。
穏やかで幸せな日々を過ごしていく。
――はずだった。
ある日。彼女は父の書斎で、一冊の本を見つける。
とある冒険家の書記を、小説風に仕立て上げたものだった。
他人の手が加えられている事もあり、どこまでが真実で、どこからが空想なのかは判らない。
けれど、彼女にとってそれは些細な問題だった。確かめる術など、持ってはいないのだから。
ページをめくるたびに、心が昂っていく。彼女は活字で描かれた世界に引き込まれていった。
どれだけ指先の水分を奪われようと、時間が溶けていこうと気にも留めない。
彼女にとっては身の丈ほどもある大剣を振るう戦士や、魔術により様々な奇跡を引き起こす魔術師の方がどんな運命を切り拓くかの方が大切だ。
頭の中で膨らんでいく世界は、いつしか彼女に憧れを抱かせる。
自分だったら、どんな冒険をするだろうか。魔術は使えるけれど得意ではないから、剣を握った方がいいのかもしれない。
小鬼や一角ウサギは、武勇伝として語るにはちょっと弱いだろうか。
だったら、遺跡や洞窟へ潜って強力な魔物を仕留めるのもいい。
龍族でも討伐した日には、自分が主役の小説が売り出されるかもしれない。
「何言ってるの。龍族なんて、その辺に転がってるわけないじゃない」
双子の姉が、呆れたように夢見る自分を否定した。
自分と同じ金髪。同じ真っ赤な瞳。そして、同じ顔。
唯一違うのは、正確ぐらいだろうか。姉はあまり争い事を好まず、よく教会で奉仕活動に励む女性だった。
「別にその辺とは言ってないでしょ! 遺跡とか洞窟とか、もっと人が寄り付かない場所!」
「あのねぇ……。人の寄り付かない場所に住んでいて、向こうも襲い掛かる気がないなら、わざわざちょっかいを掛ける必要がないじゃない」
大きなため息を吐く姉。彼女は浪漫というものをまるで理解していない。
第一、いつまでも襲ってこないという保証もないではないか。
今は力を蓄えていて、その鋭い牙を剥ける日が唐突に訪れるかもしれないではないか。
事実、小説の中だってそうだ。ある日突然、魔族は人間の国へと襲い掛かってきた。
世界を旅して、仲間を集め、力を蓄えて、なんとか撃退したのだ。
話の中の龍族は仲間だったけれど、敵意を持った個体だって居てもおかしくはない。
いや、居なくてもいい。彼女はそれを、自分の眼で見つけたいのだ。
同じ世界を回るという点でも、旅行とはまるで違う。
自らの実力が全ての冒険は、きっとわくわくするだろう。
一歩歩くごとに。一夜を過ごす度に。新しい発見に、胸をときめかせるのだ。
「夢見すぎ」
眼を輝かせる自分に、姉は冷ややかな視線を浴びせる。
同じ日に、同じ両親から生まれたというのに。どうしてこんなに冷め切った人間が誕生してしまったのだろうと首を捻る。
「お姉ちゃん。情熱とか、お母さんの中に忘れて来たの?
だから、その分をアタシが……」
「生意気言わないの。変な妄想をしてないだけよ」
姉は人差し指をトンと、自分の額へ押し付ける。気を悪くした時の仕草だ。
流石に言い過ぎたと思うが、あくまで姉に対してのみ。
彼女の憧れは留まる事を知らない。外の世界を、知らない景色を、この眼に焼き付けたいという気持ちに変わりはなかった。
やがて彼女は、両親と姉の反対を押し切って生家を飛び出す事となる。
僅かなお金と、自分に夢を与えてくれた小説を握り締めて。
彼女の名はクロエ・クローバー。当時はまだ、18歳の少女だった。
……*
クロエはまず、ミスリアから逃げるようにして船へと乗り込んだ。
決して考え無しではない。ミスリアで冒険者として産声を上げたとすれば、遠くないうちに家族の耳に留まるだろうと懸念しての事だった。
家族へ自分の居場所が伝わるのは、冒険者として名を轟かせた時でいい。
この時の彼女は、間違いなく希望に満ち溢れていた。
辿り着いた先はリオビラ王国、ジルリアという街。
流石に魔術大国ミスリアに比べれば、国の規模は小さい。
ジルリア自体もどこか、こじんまりとした雰囲気を醸し出していた。
それでもクロエは、ここで冒険者として産声を上げると決めた。
理由はそう難しいものでもない。移動をするにも金が掛かる。無駄遣いを避けただけ。
拠点として選んだ宿は、自分の部屋よりも狭い。
それでも、稼ぎが無ければ一週間と住んでいられない。これが今の自分の、限界だった。
ここから先は、全てが自己責任の世界。
小説の主人公だって、そんな中で諦めずに戦い続けていた。
喉が絞られるほどの緊張を抱きながら、クロエは冒険者ギルドの扉を叩く。
……*
冒険者としてのクロエは、意外なほどに順調な滑り出しを見せていた。
小鬼や一角ウサギ退治は武勇伝には足りないけれど、お金にはなる。
作物を食い荒らす魔物を追い返しては、路銀を稼ぐ日々。
クロエはそんな日々を、退屈に感じつつあった。
農民から感謝されるのも悪くはない。けれど、自分が憧れた風景とは程遠い。
魔物も思ったよりは怖くない。冒険者ギルドで知り合った仲間との連携が、上手く行っている証拠だ。
「なあ、遺跡とか……。探索してみないか?」
無事に依頼が済み、酒場で祝勝会を上げる。いつも通りの暮らしの中で、仲間の一人がそう提案をした。
彼もそう思ったのだろう。今のままでは、到底自分達が名を上げるなんて不可能だと。
「たしかに。おれたちもそろそろ……。ていうか、かなりいいトコまで行けそうだよな」
別の仲間が同意をする。エールを流し込んだ影響か、顔こそは赤く染まっているが碧い目から放たれる眼差しは真剣そのものだ。
彼は常に前線で敵を引き付けてくれる。お陰でクロエも戦い易い。
「そうですわね。冒険者ギルドに斡旋していただけるか、訊いてみましょう」
この一行で唯一の魔術師である女性も、同意をした。
彼女はクロエより年上であるからか、非常に落ち着いている。
ミスリアの魔術師に比べれば一流とは言えないが、的確に放つ魔術は仲間にとって生命線だ。
「いいね、いいね! アタシはもちろん、さんせーい!」
クロエにとって、断る理由はない。
自分は元々、そんな生活に憧れて家を飛び出してきたのだ。
その日がついに来たのだと、心臓の鼓動が速くなっていくのを感じる。
乗り気となった仲間に充てられてか、クロエは感情の昂りを身体で表現してみせた。
エールを持った右手を高らかに掲げると、男どもが追従をする。
魔術師の女は掲げこそしなかったが、その光景を微笑みながら眺めていた。
……*
小説の主人公へと近付ける喜びを胸に、冒険者として新たな一歩を踏み出したクロエ。
冒険者ギルドから斡旋された遺跡や洞窟の探索は、今までの依頼とは全く性質の異なるものだった。
侵入者を拒むように設計された罠が、あざ笑うかのように自分達へ襲い掛かる。
棲みついた魔物は、自分達よりも地形に明るい。油断していると、囲まれる事も珍しくはない。
仲間と分断をされ、血眼になって探す事も珍しくはない。
「クロエ、大丈夫だ。あいつらだって、すぐに見つかるさ」
「……うん」
剣士の男が、自分を不安にさせまいと話し続ける。
両手に持ったナイフで敵を斬り伏せる事の多いクロエは、基本的には前衛を任されている。
同じく前線を張る彼とは、こうして仲間と引き離されても一緒に居る事が多かった。
自然と言葉を交わす機会が増える。身を寄せ合う機会も、同じぐらいに増えていく。
仲間と合流をした後も、クロエは彼から目が離せない。彼も、クロエの視線に気が付いては白い歯を見せている。
常に自分を気に掛けてくれる彼へ好意を寄せるのは、半ば必然でもあった。
やがて恋仲となった二人は、ジルリアの外れに小さな一軒家を買う。
冒険者として貯めたお金を使い果たして購入したにも関わらず、とても立派とは言い難い。
扉を開くと、光に反射して埃が煌めく。充満する黴臭さが、貧乏臭さを強調させていた。
「初めはこんなもんさ。また金を貯めて、立派な家に住もうじゃないか」
男はまた、白い歯を見せる。
クロエは苦笑しながらも、彼の言葉を否定はしない。
今までだって上手くやれたんだ。間違いない、きっと上手く行く。
根拠のない自信を持って家を飛び出した時から、なんだかんだで上手くやれていた。
だから、きっと大丈夫。なにひとつ、問題はない。
クロエはただ漠然と、この瞬間の小さな幸せに身を委ねていた。
彼女は、いつも大切に持ち歩いていた小説を読まなくなっていた。
夢を憧れを与えてくれた事実だけを頭に残し、頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。
小説の主人公達は、前へ進むたび危機に晒されていた。
いつどこで、幸せは自分達から梯子を外すか判らない。
そんな当たり前の事を、忘れてしまっていた。
……*
男と結婚をしてからも、冒険者として活動する日々は変わらない。
順調に依頼をこなしていき、少しずつ蓄えが増えていく。
家が立派になる日もそう遠くはないと、二人で笑い合っていた頃だった。
クロエの妊娠が発覚する。結婚して、半年後の事だった。
冒険者、特に遺跡や洞窟を探索する者は常に命懸けだ。
子を身籠った状態では、クロエやお腹の子は勿論、一行にも危険が及ぶ。
「まだ、まだアタシ、戦えるよ!」
クロエの訴えも虚しく、一行はクロエを探索へ連れて行かない事を決断した。
一行に仲間が一人加えられる。本来なら自分が居るべき場所に立つ女を、クロエは疎ましく感じていた。
更に半年が経過した後、クロエは一人の少女を産む。
薄く生えた髪は、自分と同じ金色。ぱっちりと開いた瞳は、男と同じ碧色をしていた。
子が産まれたのであれば、世話をしなくてはならない。今の稼ぎでは、侍女など雇っては居られないと。
そう主張をする男の言い分は正しい。事実、稼ぎが半分に減った影響で蓄えは目減りしていく一方なのだから。
けれどクロエは、そんな生活を望んでいた訳ではない。
冒険者として名を上げる事を夢見たのだ。第一、子育てなんてやった事もない。
欲望には抗えなかった。クロエは赤子を抱くよう諭されたその腕で、剣を握り締める。
説得をしよう。今は借金をしてでも、侍女を雇うべきだ。
二人で稼げば、あっという間に返せるはずだと。
気付けばクロエは、再び家を飛び出していた。
黴臭い部屋で泣き叫ぶ赤子の声は、その耳に届いては居なかった。
ここが、クロエにとって最後の分岐点だったのかもしれない。
……*
「どうしたの……!?」
肩で息をしながら、クロエは仲間に答えを求める。
遺跡の入り口で、クロエは一行を見つけた。
本来ならば、ここで冒険者として復帰すると伝えれば済む話だった。
けれど、一行は明らかに異様な光景だった。
四人で探索をしているはずなのに、一人足りない。
いつも一歩引いた位置から自分を見守ってくれた、魔術師の女が居ないのだ。
「離せ! オレはアイツを救けに行くんだ!」
自分の代わりに一行へ入った女に抑えつけられているのは、初めに探索をしようと言い出した男だった。
その左腕は、肘から先がない。不格好に千切れた袖は真っ赤に染まっており、鉄の臭いが鼻をツンと突いた。
「もう無理ですよ!」
「煩い! オレは行くんだ! 絶対、救けに行くんだ!!」
男は傷だらけにも関わらず、女を振りほどこうと懸命に藻掻く。
歯を食い縛り、身体を揺さぶる度に地面へ血痕が滴り落ちていく。
異様な光景であるにも関わらず、夫は止めようともしない。
ただ身を丸め、歯の根をぶつけ続けていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! まずは傷の手当をしないと!」
「クロエ……」
このままでは男が失血死してしまうと、クロエは半ば無理矢理に割って入る。
懐かしい仲間の姿を見たからか、興奮状態にあった男が我に返る。
同時に、もうあの日々は戻らないのだと大粒の涙を流し始めた。
「なにがあったの……?」
訪ねては見るものの、大体の想像はつく。
敢えて言葉で受け取ろうとしているのはクロエ自身が、受け入れ難かったから。
男は残った右手で零れ落ちる涙を拭いながら、自分達の身に起きた出来事を語り始めた。
……*
いつものように、一行は遺跡の探索を続けていた。
潜る毎により深く。より奥へ。クロエにとって、憧れた世界へ彼らは近付いて行った。
この一行ならどこまででも行けると言う気持ちは、全く色褪せていなかった。
だが、それはあくまで自己評価によるもの。
越えてはいけない境界線は、確かに存在している。
彼らはこの日、その一線を越えた。
現れた魔物は、尾が鋭い刃となった蜥蜴だったという。
刃を持つ蜥蜴。それ自体は、そう珍しい魔物ではない。
他と違ったのは、その体躯である。遺跡の深部に眠る個体は、ゆうに5メートルを超えていたという。
まるで龍族のような大きさの刃を持つ蜥蜴。
鞭のようにしなる尾は、高速で大剣を振り回しているにも等しかった。
故に前線に立っている夫と女は、その恐ろしさがより鮮明に理解できたのだろう。
自分があの刃と相対しなくてはならないのかと躊躇した次の瞬間。
刃を持つ蜥蜴の一突きによって後方に居た男の左腕は消失した。
この時点で一行は、勝てる相手ではないと判断をした。
全滅の二文字が脳裏を過る。最悪の事態を回避したのは、魔術師の女だった。
「今のうちに、逃げてください!」
彼女は冷静な判断の下、魔術で小さな爆発を生み出した。
煙で目眩ましをしている間に撤退を試みる一行。
だが、どれだけ待とうとも魔術師の女は煙の中から姿を現さない。
三人の衣服に、見慣れぬ血痕が付着していると気付いたのはその直後だった。
……*
「そ、んな……」
非情な真実に、クロエは言葉を失う。
血が止まり次第、遺跡へ潜ろうとする男を、女は依然として抑え込んでいる。
後で知った話だが、男は魔術師の女へ恋慕を抱いていたらしい。
夫は未だに、身体を小刻みに震わせている。その眼に光は宿っていない。
あれだけ頼もしかった背中が、とても小さく見えた。
結果として、一行は遺跡へ潜りはしなかった。
例え潜ったとしても、刃を持つ蜥蜴までは辿り着けなかっただろう。
彼らよりも手練れの冒険者が刃を持つ蜥蜴を討伐したと耳にしたのは、数日経ってからの事だった。
この日。クロエの知らぬ間に、一行は崩壊をした。
彼女の胸中には、未だ憧れが燻り続けているというのに。