422.ただいま
アルフヘイムの森に位置する、妖精族の里。
大樹に囲まれた世界は神秘的という表現が似合っており、新たな来訪者達はしきりに口を開けていた。
「おお。噂には聞いてたけど、こうして入ってみると壮観だね……」
「ああ、ベリアの言う通りだ」
ベリアはぽかんと口を開け、聳え立つ大樹の先を求めて天を見上げた。
同様にトリスも、まるで御伽噺の住人になったかのような感覚を味わっている。
「ようこそ、アルフヘイムの森へ。
もう少しで妖精族の里だから、頑張ろうね」
肺いっぱいに新鮮な空気を取り込むリタ。やはり故郷は良いものだと、改めて実感する。
久しぶりにきちんと愛と豊穣の神へ祈りを捧げようと、顔を綻ばせる。
アルフヘイムの森もまた、女王の帰還を歓迎するかの如く、木漏れ日に触れた大気を輝かせていた。
……*
ピンと立てられた耳が音を拾う。
不在だった主の帰還をいち早く察知したのは、魔獣族だった。
中でもレイバーンにとって頼れる右腕である狐の獣人は、いの一番に出迎えようと飛び出していた。
「おお、ルナール。余が留守の間、ご苦労だった」
巨大な体躯を持つ主の姿は、否が応でも目立つ。
そして彼もまた、ルナールよりも遥かに優れた嗅覚と聴覚を持っている。
信頼する臣下が出迎えてくれた事を察知し、大手を振って帰還を報せる。
「レイバーン様! と、その獣人は一体……」
主が自分を察してくれたと、ルナールの顔が明るくなる。
だが、その笑顔は彼へ近付くにつれ別に感情によって上書きされてしまう。
雪のように白い毛を持つ人虎の女が、本来ならば自分がいるべき位置に立っているように見えたからでもあった。
ルナールは反射的に、リタへと視線を滑らせる。
レイバーンと恋仲である彼女の反応を視る事で、得体の知れない人虎を見定めようとしていたのだ。
「どうだ、ベリア。ここが皆で共に暮らしている居住特区だ」
だが、そんな彼女の様子に気付く素振りもないまま、レイバーンは両手を広げて見せた。
まるで客人のような扱いに、ルナールは更に複雑な想いを募らせる。
「ここが……」
レイバーンに促されるまま、一歩を踏み出すベリア。
周囲を見渡せば、獣人と人間が追いかけっこをしている。
その奥では、小人族の作った玩具で遊ぶ妖精族の姿があった。
距離を感じさせないのは幼い子供達だけではない。
大人達も当たり前のように、生活へと溶け込んでいる。
種族の壁や溝なんて、存在していないかのように。
獣人のように、全身が毛で覆われていようが。
妖精族のように、耳が長かろうが。
小人族のように、背丈が低かろうが。
人間のように、成長と老いが早かろうが。
この集落へ住む者達は、全く気にしていない。
自分を、相手を特別だと思っている素振りがまるで見えない。
それはベリアにとって。ネクトリア号を管理するセアリアス家にとって、ひとつの答えでもあった。
ここへ来て良かった。この光景を見られた事は、間違いなく財産になる。
心が震え、ベリアは思わず拳を強く握りしめていた。
(そうか。これが彼らの創り上げた居場所か……)
トリスも同様に、居住特区の光景を眺めて物思いに耽る。
世界再生の民に所属していた頃から、強力な敵戦力として把握はしていた。
けれど、それはあくまで知識のみ。その先にある人々の営みまでは考えた事がなかった。
ラヴィーヌのように魅了で操った訳でもなく。皆が皆、互いを尊重している世界。
思い返してみれば、カタラクト島もそうだった。蒼龍族が先頭に立ち、様々な種族が共存を果たしている。
世界は思ったよりも簡単で、種族の壁なんて些細なものなのだと思い知らされる。
トリスは自分の愚かな行動を恥じると同時に、自分が護らなくてはいけないものを本当の意味で理解をした。
(ああ、本当に。お人好しばっかりですね)
自分の経験してきたものとはまるで違う。穏やかな世界を前にして、サーニャは苦笑する。
抱いた感情は嫉妬ではなく、羨望。ほんの少し自分が違う道を歩んでいたならば、この道へ辿り着けただろうか。
口惜しいと思う反面、彼女は今の自分も悪くないと思っている。
自分が理不尽に奪われたもの全てを取り返せはしないかもしれないけれど、だからこそ得られたものもある。
心の底から大切だと言ってくれる男性に出逢えた。自分も、彼を大切だと思えた。
道を違えてしまえば、アルマとは逢えないかもしれない。そればかりは勘弁願いたかった。
本来ならきっと、自分はのうのうと生きていられる立場ではない。
けれど、その機会すらもここに居るお人好しが与えてくれた。
自分の為に。何より、アルマの為に。
サーニャはこの地で自らの『罪』を償うのだと、深く胸に刻み込む。
「心配、なさそうですね」
「ええ」
それぞれの思いを抱く来訪者は皆が皆、決意を心に秘めていた。
これならば安心だと呟くフローラに、アメリアは同意した。
「あの、レイバーン様……? その人虎は……」
居住特区に着くなり、感無量になる者達を前にしながら。
事情を知らず、ただ一人空気から取り残されたルナールは恐る恐る再び口をする。
「おお、すまぬ。この者はベリアという。
人間と共存をしている獣人のようでな、余たちの暮らしが見てみたいと言っておったのだ」
「そ、そうなのですか。では、新たに臣下として迎えるわけでは……」
「それはないな、ベリアはあくまで知見を深めに来ただねだ。そもそも、余には頼れる臣下が沢山いるからな。
臣下に加えるのであれば、まずは皆に説明をするというのが筋というものだ!」
「そ、そうですか……!」
まだ自分は、彼へ仕える事が出来る。頼りにされている。
豪快に笑うレイバーンを前にして、漸くルナールの表情に安堵が宿る。
長い間不在にしていたからか、心配で仕方が無かったのだ。新たな獣人を引き攣れているという現実に。
「コホン。ベリアと言ったな。私はルナール。かつて、ミスリアに暮らしていたこともあった。
人間の社会にはそれなりに知見があると自負している。何かあれば、私が力になろう」
余裕を取り戻したルナールは、一度咳払いを行う。
凛とした声を以て、ベリアを受け入れる心の準備が整ったのだと行動で示す。
「本当かい!? アタイはベリアってんだ!
ミスリアに住んでたなら、色んな経験をしているんだろ!?
是非とも頼むよ!」
「あ、ああ……! 分かった。分かったから、離してくれ!」
固く握手をしたと思えば、ベリアはルナールを力の限り抱擁する。
ベリアにとって彼女の宣言は「友達になろう」とも同義だった。
ネクトリア号を運行する関係上、他の獣人と接する機会は少なくない。
しかしそれは、『友』というよりは『客』と言う関係が正しい。
こんな風に商売っ気抜きで手を差し伸べてくれるルナールの存在は、人懐っこいベリアにとっては神の恵みにも等しかった。
「やれやれ。ベリアはいつもどおりだな」
初めての場所だろうが、初めての相手だろうが関係ない。
いつもと変わらないベリアの様子を羨ましく感じると、トリスは肩を竦めていた。
「さて、と。じゃあ、私はそろそろお祈りに……」
新たな来訪者もきっと大丈夫。馴染んでくれる。
一部始終を見届けたリタは、祈りを捧げる為の果実酒を用意するべく自宅へ向かおうとする。
ミスリアでも簡易的に祈りを捧げてはいたが、きっと愛と豊穣の神も寂しがっているだろう。
今日はうんと祈りを捧げようなどと、一人で納得していたところだった。
「あれ、リタさん。ストルのところへは行かないんですか?」
オリヴィアの指摘により、リタの足が止まる。
そう、彼女はこの発言を恐れていた。もう随分と、ストルにあらゆる役目を押し付けていた身として。
勿論、ストルへ感謝はしている。
砂漠の国との戦争が始まり、危険だという自分を送り出してくれたのだ。
その間、居住特区に関わるものは勿論、妖精族の里に関わる政を全て任せていた。
補佐にレチェリを充てていたとはいえ、その負担は相当なものだろう。
とりあえず、落ち着いてから顔を合わせたいというのが本音だった。
「いやー……。ははは。ほら、それはオリヴィアちゃんが行った方がいいかなーって……」
乾いた笑いを浮かべながら、リタは視線をあちこちへ泳がせる。
彼女の策としては、まずストルとオリヴィアを会わせたかった。
恋心というのは恐るべし力を秘めていて、どんなに辛くても好きな相手の前では元気が湧いてくるのだ。
そうしてストルが気力を取り戻した所に、颯爽と自分が彼を慮る。完璧な作戦のはずだった。
無論、応援したい気持ちもあったのだ。ストルはずっと、自分を支えてくれていたのだから。
因みに彼の気持ちを知っているのは、直接相談を受けたレチェリを除いてはリタだけである。
正確に言えば、リタは教えられた訳ではない。
ただ、オリヴィアを自然と眼で追う彼の姿は、かつての自分に似ている。
色恋沙汰が好きな少女にとって、それは恋へ答えを結びつけるには十分すぎる情報だった。
しかしここでリタに誤算が起きる。先日のお茶会で、最新の情報を得た。
なんとオリヴィアもストルへ恋心を抱いているというのだから驚きだ。
二人の恋に障害はないではないかと浮かれるリタだったが、オリヴィアの様子がおかしい。
正確に言えば、フローラが半ば無理矢理引き出した情報。つまり、オリヴィアにとっては本来隠したかったもの。
それを利用しようとしたが故に、オリヴィアが口を尖らせる。
「むっ。リタさん、わたしを盾にしようとしてませんか?」
「いやー……。そんなつもりはないけど?」
まだ肌寒いにも関わらず、リタは冷や汗をだらだらと流している。
あっさりと看破していくのは、流石というべきか。もう少し鈍くあって欲しかった。
「なになに? オリヴィア、ストルさんの所へ向かうの?
私、オリヴィアのいいところたくさん知ってるわよ! アピールなら任せて!」
「大丈夫です、フローラ様! 絶対に、不要です!」
オリヴィアの恋を成就させる為なら、一肌脱がなくてはならない。
自分も連れていけと主張するフローラへ、オリヴィアは両腕でバツ印を作り否定する。
「とにかく! まずはリタさんが帰ってきたって言うべきです!
女王様なんですから、その辺はしっかりしてください!」
「……はい」
ぐうの音も出ない正論を前にして、リタはがっくりと項垂れた。
……*
「あ、あの……。ごめん……」
執務室を訪れたリタは開口一番、謝罪の言葉を口にする。
無理もない。あれだけ凛として仕事をこなすストルとレチェリが、机に突っ伏しているのだから。
目の下に造られたクマと、口から抜けている生気が過酷さを物語っている。
「お久しぶりです。リタ様……」
「リタ様。ご無事でしたか……」
「う、うん」
どちらかといえば無事でないのはそっちだとは、口が裂けても言えない。
理由の一端。むしろ大部分は、自分が占めているだろうから。
「ストル、レチェリ。ごめんね、無理をさせちゃって」
あちこちに散らばった書類をかき集めながら、リタは眉を下げる。
オリヴィアで機嫌を取ろうとしていた身として偉そうな事は言えないが、それでもやはりこの光景を前にすると罪悪感が湧いてくる。
「なんの。リタ様に牢から出していただいた時から、覚悟はしていましたから……」
「あはは……。ごめん……」
レチェリは身体を起こしながら、愛想笑いを浮かべて見せる。
それはそれで申し訳ないと、リタは引き攣った笑顔を返答とした。
「私も、リタ様が気に病むことはありません。以前、ミスリアへ同行した際にどれだけ大事かは理解しているつもりです。
危険を承知で前線に立っているリタ様へ比べれば、これぐらいは……」
「ストル……」
一方のストルは、意外な回答を寄せて来た。
妖精族の里だけではなく、世界全体を考えた結果。
妖精王の神弓を持つ彼女が、悪意に立ち向かう事を受け入れていたのだ。
その前から兆候はあった。研究チームに参加し、彼は休息に共に見聞を広めていった。
恐らくは、居住特区が出来上がった事により一番視野が広がったのはストルだろう。
排他的な妖精族の代表格であった彼が、だ。
オリヴィアへ恋心を抱いているのもそうだ。
変わっていくストルを前に、リタはなんだか胸が熱くなるのを感じた。
自分が抱いていたものを、皆が理解してくれた。この感情はきっと、歓喜だ。
妖精族の女王。リタ・レナータ・アルヴィオラは、齢170を越えている。
それでも妖精族にとっては見た目通りの少女であり、彼女もまたその見た目に違えず単純だった。
いい方向へ変わっていく同胞を前にして、どんどん気力が湧いていくのだ。
「ストル、レチェリ。ありがとう! でも、私は大丈夫だよ!
後は私がやっておくから、二人は休んで!」
「リタ様……」
グッと拳を握るリタ。雑務を嫌がっていた彼女が、まさか自分から申し出るとは。
感極まったストルの瞳から、熱い雫が零れ落ちようとしている。
妙な熱気を感じる。この執務室に於いて、レチェリだけがその状況を正しく認識していた。
ただ、彼女は敢えてそれを口にはしない。自分が限界だとい事実がひっくり返りはしないのだから。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます。
ストルも、休めるうちに休んでおくべきだ」
「ああ……!」
リタは自分の家へと戻っていく二人を見送り、積み重ねられた書類の山を向き合う。
今は気力が湧いている。なんだって出来そうだと、腕まくりをして難敵へと挑んでいった。
二時間後。
自分一人では手に負えないと、イリシャやシンへ泣きつくのはまた別の話である。
気力だけではどうにもならないこともある。彼女はこの日、それを学んだ。