421.残雪の中で
残雪を掻き分けながら、険しい山を登っていく。
人間と異種族を隔てる天然の城塞、ドナ山脈。
シン達は妖精族の里があるアルフヘイムの森を目指すべく、その地に足を踏み入れていた。
「すまない……っ。私たちのために、面倒を掛けてしまう……!」
白い吐息を漏らしながら、トリスが眉を下げる。
その言葉は途切れ途切れで、慣れない登山に神経を集中している事が窺える。
事実、彼女は身体を預けられる足場を求めるだけで一苦労だった。
足を乗せた瞬間に沈み、バランスを崩しそうになる。もう何度、ベリアに支えられただろうか。
同じ雪でも、ネクトリア号やティーマ公国とはまるで違う。
山を越えた先に魔族が居ると知りつつも、攻め入ろうとしない理由がよく解る。
転移魔術でアルフヘイムの森とミスリアの王都を繋いだにも関わらず、ドナ山脈を渡っているのには理由がある。
今回、新たに受け入れる事となったサーニャはトリス、スリット。更には一目妖精族の里を見たいと言うベリア。
彼女達は転移魔術の認識を行っていない為、こうして山道を登らなくてはならなかった。
「気にする必要はない。もし疲れたのであれば、余が抱えてやることも出来るぞ!」
眠ったままのスリットを左肩に。
反対の腕ではシン脇で抱えているにも関わらず、魔獣族の王は高らかに笑って見せた。
「い、いや。そこまでして頂くわけには……!」
恐縮のあまり、トリスは両手と首をぶんぶんと左右へ振る。
ただでさえ、自分は色んな厚意の元でこうしていられる。
身体が動くうちは、手間を増やしたくはない。
「レイバーン。俺は自分で歩けるから下ろしてくれ」
「む。そうは言ってもだな」
一方で、担がれたままの体勢でシンが解放を訴える。
眉間に皺を寄せながらの発言は、明らかに現状の待遇に不満を見せていた。
「ダメよ、シン。あなた、大怪我したままなんだから。
大人しくレイバーンに運ばれてなさい」
シンの訴えに待ったを掛けるのは、主に彼の手当をしているイリシャ。
彼女はこれまでの経験でよく知っている。シンを自由を許可する事と、無理や無茶を許可する事が同義であると。
故に、レイバーンに運んでもらうように頼み込んだのだ。
体格差も相まって、シンはレイバーンを力づくで振りほどく事は出来ない。
彼を大人しくさせるのには、うってつけだった。
「そうですよ、シンさん。贅沢言うのはなしです。
本来ならリタさんのポジションを譲ってもらってるんですから」
魔術でフローラの足場を固めながら進むのは、オリヴィアだった。
自分が護衛から離れた隙に窮地へ陥った事に責任を感じているのか、ここでは絶対に怪我をさせないという意気込みが伝わる。
「そ、そんなことないよ。そりゃあ、ちょっとは羨ましいけど」
リタはチラチラとレイバーンへ目配せをしながら、前へと進んでいく。
実際、羨ましいという感情が隠しきれていないのは誰の目から見ても明らかだった。
「それにしても、相変わらずこの山道はしんどいな。
ピース、お前なんとか出来ないのか?」
「雑な無茶振りをすんな! おれにどうこう出来るわけないだろ!」
トレードマークである栗毛をフードで覆いながら、マレットはケタケタと笑う。
その場のノリで無理難題を押し付けられたピースは、呆れながらも彼女の要請を却下した。
「だいじょぶだよ。いざとなったら、あたしが灼神で――」
「それだけは絶対にやめろ」
力業で雪を融かせばどうにかなるだろうと、フェリーはグッと力こぶしを握る。
間髪入れず、全員が一斉に止める。理解が出来ないフェリーは「うん?」と小首を傾げていた。
……*
ドナ山脈を進む一行は、やがてイリシャが住んでいた小屋へと辿り着く。
人数が多く、手狭ではあるが雨風を凌げるだけマシだと、一晩過ごす事を決めた。
白く舞い上がる煙。硫黄の臭いが、鼻をツンと突く。
けれども、そんなものを全て帳消しにする程の快感が全身を駆け巡っていく。
「はぁ……。いやされるぅ~……」
フェリーは蕩けるような声を漏らしながら、湯舟の中で溶けていく。
肩まで浸かったぐらいでは足りないと言わんばかりに、全身が温もりを求めていた。
「こんなところがあったなんて。以前通った際も使わせてもらえば良かったですね」
「ほんとですよぉ~……」
血行が促進され、身体中を駆け巡るのが伝わってくる。旅の疲れが徐々に、お湯に溶けているような感覚。
知らなかったのは勿体なかったとアメリアが漏らすと、オリヴィアもそれに同意した。
「前の時は、色々と急いでたからね」
心なしかいつもより穏やかな空間に、イリシャは笑みを溢す。
事実、以前にこの地を訪れた際はそれどころではなかった。
瀕死の状態でドナ山脈へ逃げおおせたオリヴィアとフローラ。
折り返す時も同盟を結ぶ為に妖精族の里へ急がねばならないと足早に山を駆け抜ける。
季節によるものもあっただろう。こればかりは、残雪に感謝せざるを得ない。
そんな中、ただ一人だけが別の思考へと入り込む。
失われた左眼の為。そして、義眼を造ろうとするマレットへ協力をする為。
妖精族の里へ向かう事を決めた、サーニャだった。
「……ちょっと失礼しますね」
それだけ呟くと、返答を待たずして彼女は徐に手を伸ばす。
狙いはマレットとフェリー。正確に言えば、彼女達が持つ双丘に対して。
「あん?」
「沈む……」
マレットへ触れたサーニャは、それだけをぽつりと呟く。
「ちょ、ちょっと!」
「弾く……」
続けてサーニャの魔の手は、フェリーへと伸びた。
先ほどとは違う感想を、神妙な顔つきで漏らす。
両手の指を動かしながら、感触を反芻させていく。
ひとしきり考えた後に、彼女が次なる獲物を品定めしようとした時だった。
「何をしているんだ、お前は」
彼女の額に、ゆっくり手刀が下ろされていく。
その向こう側には、呆れた顔をしたトリスの姿が見える。
「いえ、だってですよ。ずっと気になってたんですよ!?
こんな絶好な機会があれば、そりゃあ確かめるでしょうよ!?」
「サーニャ……」
アメリアは頭を抱える一方で、なんだか懐かしい気持ちが蘇る。
フォスター家で彼女は、特にオリヴィアと仲が良かった。それもこの性格に起因するものだろう。
自分達の日常に溶け込んでいた彼女が「素」を曝け出してくれていた事を嬉しく思った。
「まあ、好みは人それぞれですから。トリスさんも、ちゃんと需要ありますよ」
「~~っ! このっ、痴れ者がっ!」
手刀の先にあるトリスの姿をまじまじと見つめながら、白い歯を見せるサーニャ。
たちまち顔を赤らめるトリスは、決してのぼせた訳ではない。
怒りを撒き散らすように吠えると同時に、冷えた身体を湯の中へと潜らせた。
「トリスちゃんでああ言われるなら、私って……」
この中ではイリシャに次ぐ年数を生きているというのに。
人間の成長力はずるいと言わんばかりに、リタは口元まで身体を沈めていく。
「まあまあ。そんなのは言わばおまけですから。
リタ様の良いところを、レイバーン様はたくさん知っていますよ。
逆だって、そうなのですよね?」
フローラはフォローを入れる一方で、羨ましくもあった。
他人の色恋沙汰に首を突っ込んでいく中で、自らも危うく望まぬ婚姻を結ばされる所だった。
故に、女王でありながら想い人と気持ちを通じ合わせているリタが羨ましく感じてしまう。
「それは、もちろんそうだけどね。フローラちゃんは?」
「私ですか? 私は、相手が居ませんからね……」
環境が変わったからか、王宮に居る時よりも他人の色恋沙汰をよく目撃する。
だからこそ、自分も誰かとそういう関係に陥りたいと憧れる事もある。
けれど、いない。相手がいない。
勿論、自分の立場を考慮した上で見つからないという問題もある。
だが、それ以上に問題なのはフローラの求める条件だった。
姉のように成長を共にし、自分の護衛を務め、今は神器の継承者となっている騎士。
アメリア・フォスターを間近で見たが故に、彼女を基準に捉えてしまっている。実力だけでなく、人格も。
そんな傑物はミスリアどころか、世界でも数えるほどしかいないだろう。彼女が恋心を抱く相手は、暫く相手は見つかりそうになかった。
「しっかし、本当に不思議だね」
「どうかしたの?」
あちこちに残る雪のように真っ白な体毛を持つ人虎。ベリアが、温泉に浸かりながら苦笑をする。
一歩引いて眺めているように見えた彼女だが、その実は強い感銘を受けていた。
「いやさ、アタイたちの旦那も人間と獣人の共存に力を入れてくれているんだけど。
こっちは加えて妖精族や小人族もだろ?
是非、参考にさせてもらわなきゃなって思うのさ」
「でも、私たちのはひと悶着あったりもしたから……。
おかげで、人間も魔獣族も悪いひとだけじゃないって判ったりもしたんだけどね」
そう。妖精族と魔獣族の恋は、悲恋に終わるはずだった。
あの時、居てくれた青年と少女。そして、二人を連れてきてくれた親友にはいくら感謝をしてもし足りない。
「そうだよな。一括りにしちゃいけないよな」
リタの言葉に賛同し、ベリアはうんうんと強く頷く。
「そうだよね。ちゃんと、その人を見なきゃわからないもんね」
そう言うリタの眼はマレットとサーニャへ詰め寄られ、イリシャの背に隠れる恩人を追っていた。
リタにとってこの出逢いは、一生ものの宝だった。きっと、レイバーンにとっても。
……*
そのレイバーンはというと、イリシャの小屋を窓から覗いている。
中ではベッドへ寝かされたスリットと、すぐ傍で身動きが取れないよう縄に繋がれたピースの姿があった。
「あの、どうしておれはしばられているのでしょうか?」
自分の置かれている状況がまるで理解できないと、ピースは顔を上げた。
気持ちよさそうに寝息を立てているスリット……は、放っておいていいだろう。
というか目が覚めた所で、自己紹介ぐらいしかする事がない。
訊くべき相手は前方に居る。椅子に座り、最低限の機能だけを搭載した義手を身に着けた魔術師の男。
テラン・エステレラがにこやかな笑みを浮かべているのだから。
「簡単な話さ、ベルに頼まれてね。『ピースは覗くだろうし、拘束しておいて欲しい』と。
ベル自身は気にしてないようだけど、あそこには要人も居るからね。念のためさ」
「因みに、魔術で破られないように魔硬金属で枷を造らせてもらったぞ」
「しねえよ! そこまで命知らずじゃねえよ!
ていうか、そんなことに魔硬金属をホイホイ加工すんな!」
軽快に笑うテランとギルレッグへ、ピースは声を張り上げる。
あの場にはマレットだけではない。アメリアやオリヴィア、トリスまでもいる。
自分がどうこう出来る面子ではないのだ。
何より、フェリーが居る。シンの怒りを買ってしまえば即死は免れないだろう。
いくらなんでも、ピースにそこまでの度胸は無かった。
「って、あれ? シンさんは?」
ここでピースは漸く、シンが不在である事に気が付いた。
部屋中を見渡しても、彼の姿は見当たらない。
「シンなら夜風に当たりたいって外へ出たぞ」
「やっぱり、シン・キーランドが一番の難関と見ているのかい?」
「ちげえよ!」
ただ純粋に疑問を抱いただけだというのに。
どこまで信用がないのだと、ピースは再び声を張り上げていた。
……*
「む。シン、どうかしたのか?」
ふらりと小屋から出たシンの姿を、レイバーンは視界へと捉えた。
彼の表情は思い悩んでいるように見える。声を掛けるべきか逡巡するものの、次の瞬間には呼び止めていた。
理由は至極単純で、きっと逆の立場なら彼は声を掛けるだろうと思ったからだ。
レイバーンと顔を合わせたシンは、彼にしては珍しいものだった。
覇気が感じられない。……というよりは、後ろ髪を引かれていると言った方が正しいだろうか。
「……レイバーン。隣、いいか?」
シンは返事を待つ事なく、レイバーンの隣まで歩み寄る。
彼は決して断らないだろうという想っているが故に、安心して腰を下ろす事が出来た。
レイバーンはそんな彼の様子を、ただただ見守る。
治癒魔術の効果が薄い中、新たに刻まれた生傷が痛々しい。
時間が経てば消えるだろうが、それまでフェリーは気が気でないだろう。
リタの治癒魔術ですぐさま完治した自分とは、根本的に違うのだ。
「……ビルフレスト・エステレラを仕留めきれなかった」
静寂をしばらく味わった後、口を開いたのはシンだった。
空白の島での戦い。そのやり残しを、ぽつりと呟く。
「仕方がないだろう。破棄弾の効力が切れてしまったのだ。
その後、直ぐに邪神も現れたと聞いたぞ。こうやって生きているだけで、ありがたいぐらいだ」
「……ああ」
シンはレイバーンに目線を合わせる事なく、小さく頷いた。
口から発せられた言葉は明らかに生返事で、それが話題の本質ではないというのはすぐに判る。
これがリタならば、レイバーンは間髪入れずに尋ねていただろう。
けれど、今回の相手はシンだ。彼はきっと、言葉を探している。
見つけるまでは待ってあげるべきだと、レイバーンは経験則で学んでいた。
「破棄弾を、本当にあそこで使うべきだったのか。
出し惜しみをしないと思い込んで、無駄に撃ったんじゃないか。
そう考えると、少しだけ後悔している」
レイバーンは、破棄弾を失った事が悩みなのだと察した。
ビルフレストを追い詰めたとはいえ、結果的に破棄弾は戦果を挙げられていない。
勿論、ビルフレストが回復するまでの時間を稼いだ可能性はある。けれど、それを知る術はない。
加えて、レイバーンには語らないがもうひとつ悩みが存在している。
それは邪神の顕現を促してしまったかもしれないという事。
ビルフレストがなまじ生きているが故に、彼の母は逆上をした。悪意がまた、強まっていく。
破棄弾の影響が生きている間に、仕留めていれば終わったかもしれないのに。
自分が。自分だけが、ビルフレストを殺す事が出来たのに。
そう思うと、自分の怪我を気にしているどころではなかった。
「ふむ」
シンの様子から、口に出した事が全てではないだろうとレイバーンも察していた。
話さないと言う事は、隠したいのだろう。理由は解らないけれど。
レイバーンはシンの気持ちを尊重した上で、彼の頭に大きな手を乗せる。
「あまり気負うでない。破棄弾が無ければ、シンが死んでいたかもしれないだろう。
余にとってはそっちの方が悲しい。フェリーだって、お主がそんな形で死ぬなんて望んでいないはずだ」
フェリーの名前を出すのは少し卑怯な気もしたが、敢えて口に出した。
彼にとって一番の原動力を無視する方が、余程失礼だと感じたから。
「命あっての物種だ。これからのことは、これから考えればいいだろう。
無論、皆で一緒にな」
豪快に笑うレイバーン。口から覗かせる牙が、月明りに反射をする。
人間なんて軽々と噛み砕けそうだというのに。不思議と、恐ろしさは感じられなかった。
「……そうだな。悪い、変なことを口走った」
「なにを言うか。余は嬉しいぞ、遠慮なしに弱音を吐いてくれたことがな!」
「弱音」という単語に反応したのか、シンは眉を顰める。
いつもの頑固な一面が顔を覗かせたからか、レイバーンはまた笑みを浮かべていた。