417.広い海の上で
声を張り上げた瞬間。確かに目が合った。
読み取れない表情とは裏腹に、その瞳には揺らぎがあった。
完全に悪意で染まっている訳ではないのだと、すぐに理解した。
だけど、何も出来なかった。追えなかった。
遠くなっていく背中を、霞んだ視界で見送っただけに終わった。
本当に必要な時に、手を差し伸べる事が出来ない。
自分は昔と何ひとつ変わってはいない。我ながら情けないと自嘲した。
……*
「ここは――」
シンに覚醒を促したのは、波のさざめきだった。
熱っぽい身体を起こそうとすると、随分と窮屈に感じる。
視線を下へと動かすと、全身に巻かれた包帯が動きを阻害しているだけではない。
頭を自分の足に乗せている少女が寝息を立てている事に気が付いた。
顔を見るまでもない。
この腰まで伸びた美しい金髪を持っている少女の心辺りは一人しかいないのだから。
「フェリー……」
名を呼びこそすれど、フェリーが起きる気配はない。
ただ、硬く握りしめられたシーツからは離さまいという強い意思を感じていた。
窓の向こうから差し込む太陽の光。そして、広がる青い海。
波に呼応するように部屋が揺らめく。間違いなく、船の中に居る。
ネクトリア号に戻ってきているのだと、シンは理解した。
身体中に巻き付いた包帯から、自分は力尽きたのだと実感する。
最後まで立っていられなかったと悔やむよりも先に、シンは空白の島での戦いがどうなったのかと思案を巡らせる。
(ビルフレスト・エステレラは。邪神は……。
いや、それよりもフローラ殿下だ。どうなったんだ……)
「ん、んん……」
最悪の結果さえも考えてしまう中、それを否定したのはフェリーの寝顔だった。
あまりにも無防備で、能天気な声が彼女の口から漏れる。
それを見て、シンはなんだか安心をしてしまった。
ずっと旅をしている時も、野営で見慣れた寝顔。彼女が寝ている間はこうだった。
子供の時からなにひとつ変わらない、夢の中で幸せを噛みしめているようにも見える。
邪魔をしてはならないと、彼女の寝顔を眺めている間。不意に、船室の扉が開く。
「お、案外早く目覚めたんだね。全く、タフすぎてこっちが驚いちまうよ」
白い毛を全身に纏った人虎。
ネクトリア号の船員であるベリアが豪快に笑いながら部屋へと入る。
「……ベリア」
「ん? なんだい、その反応は? ひょっとして、お邪魔だったかい?」
「揶揄わなくていい」
口を手で覆いながらニヤニヤと笑みを浮かべるベリアを前にして、シンは眉間に皺を寄せる。
尤も、期待通りの反応だったのか。彼女は一切自重する気を持っていなかった。
「いやぁ、でもさ。フェリーはアンタが起きるまでずっと船室から離れなかったんだよ。
労ってやるぐらいしてもバチは当たんないと思うけどねぇ~?」
もたれ掛かっている時点で、相当な時間看病してくれている事は予想していた。
けれど、改めて知らされると少しだけ気恥ずかしくなる。
「ほら、髪を撫でてやるとかさ。頬を撫でてやるとか。
なんなら、チューぐらいしてやっても――」
「やらん」
「ちっ、おカタい奴め。トリスといい勝負だよ」
つまらなさそうにベリアが口を尖らせる。
そんな彼女の仕草を見て、シンはマレットと気が合うだけはあると納得していた。
だが、そんなのは些細な問題だ。
シンには訊かなければならない事が山ほどある。
「それよりもベリア、教えてくれ。俺は――」
「どれぐらい眠っていたのか」と、尋ねようとした瞬間。
自分にもたれ掛かっていた金髪の頭が持ち上がる。フェリーが目を覚ました。
「……う?」
寝ぼけ眼を擦りながら、フェリーはシンの頭が置かれているはずの位置をぼんやりと見つける。
しかし、そこにあるべきものはない。徐々に視線を上げていくと、やがて二人は目を合わせる。
「わわっ! シン、起きてたの!?」
黒い眼は開かれており、口からよく知った低い声が空気を震わせる。
一瞬にして、フェリーの目が冴える。同時に、歓喜で胸がいっぱいになった。
「ああ、今しがた起きたばかりだ」
「そっか、よかったぁ……」
安堵のため息を漏らす一方で、彼女はシーツを硬く握ったままだった。
実感が湧かないというよりは、夢ではないと確かめているようにも見える。
「心配かけて悪かった」
「ホントだよぉ……」
シンの言葉に間髪入れず、フェリーはシーツに顔を埋めた。
若干の涙声を通して、余程心配をかけたのだとシンは申し訳なく思う。
「ホラ、そこは頭ぐらい撫でてやんないと」
「煩い」
フェリーの頭越しに、頭を撫でるジェスチャーを見せるベリアが視界に入る。
揶揄っているようにしか見えないその動作に、シンは若干の苛立ちを覚えた。
……*
シンが目覚めたとベリアが伝えた為、船室へ皆が訪れる。
フェリーに加え、アメリア、オリヴィア、フローラ、トリス、アルマと揃えば仕方のない事ではあるが、若干の息苦しさを覚える。
(フローラ殿下は無事に奪還出来たのか)
一方で、その並びにフローラの姿があった事にシンは安堵する。
当初の目的は果たせていたのだ。自分が役に立ったかどうかは別として。
「フローラ殿下。ご無事でしたか」
「ええ、私はこの通り。みなさんのおかげです。
それよりも、シンさんのお怪我こそ……」
包帯から薄い火傷の痕を覗かせながら、フローラが眉を下げる。
尤も、彼女自身は火傷を気にしている様子はない。
治癒魔術で治せるとオリヴィアから聞かされているだからだろうか、他の者も特段気にする様子を見せなかった。
フェリーとの悔恨を残さなくてよかったと安心しながら、シンはフローラの言葉に反応を示す。
「いえ、俺はこれぐらい――」
シンは「問題ない」と言いたかったのだが、続きを遮る者が三名いた。
彼に代わる代わる治癒魔術を唱えていた、三名の魔術師である。
「今回は本当に死ぬかと思いましたよ」
まずは都合二度、自分の大怪我を治療した経験のあるアメリアの言葉だった。
どうやら傷が多すぎたらしい。治癒魔術の効果が薄い自分では、中々傷が塞がらないと焦らせてしまったようだ。
「毎度のことですけど、無茶しすぎです。おかげで助かりましたけど」
間髪入れず、オリヴィアが追従をする。
ビルフレストを抑えてくれていたおかげで横槍を防げたと強く言えない様子だったが、呆れ半分怒り半分と言った様子だ。
尤も、彼女とトリスは並行してアメリアの治療も行っていたそうなのだから無理もない。疲労困憊なのは、誰の目から見ても明らかだった。
「というか、よく生きているな……」
シンの生命力に若干引いているのは、トリスだった。
傷の多さもさることながら、深いものもあった。血を流し過ぎていた。
彼女は包み隠さず話してくれたが、ミスリアでのアメリアやサーニャの時より余程無理ではないかと覚悟をしたらしい。
「ホントにシン、死んじゃうかと思ったんだからね!」
「その、なんだ。……すまない」
治癒魔術を唱えた訳ではないが、極めつけは涙で顔をぐしゃぐしゃに歪めるフェリーだった。
訊けば自分は丸一日眠っていたらしい。その間に掛けた迷惑は計り知れない。
自分が生存した裏には、皆の力がある。
事実を突きつけられ、流石のシンも強がりが言える状況ではなくなっていた。
……*
全員が揃った事もあり、シンは改めて空白の島での出来事を訪ねた。
言うまでもなく、そこには顕現を果たした邪神の動向も含まれている。
「フローラさまの心臓に埋め込まれた『傲慢』の『核』はお姉さまが破壊しました。
今はこの通り、いつも通りのフローラさまに戻っています」
口火を切ったのはオリヴィア。彼女はフローラの体内を蝕む『傲慢』の結末について語る。
空白の島へ向かった目的でもあるのだから、当然の流れとも言える。
「――『傲慢』はもうひとりの私を創り出して、身体の所有権を奪っていました。
ただ、完璧ではなかったようです。私が主導権を握ることもありました。
その時は邪神の能力や分体も言うことを聞いてくれました。大元は私が適合者だから、だったのでしょうね」
フローラはもうひとりの自分が生まれていた状況と、その時の感覚について事細かく説明をする。
同じ適合者でも、移植という形ではなく心臓に癒着をしていたからか。彼女は特別な存在だったように思える。
特にもうひとりの人格が生まれた間、匣の中へ閉じ込められていたという表現はシンの興味を惹いた。
力が溢れた際に主導権が握れる点も含めて、フェリーに通ずるものがあるようにも思える。
「今はどうなんですか?」
「適合者として目覚める前と、変わりありません。
自分を脅かすような感覚も無ければ、邪神の能力が使えるような兆候も見られませんから」
己の両手をじっと見つめながら、フローラはオリヴィアの問いに答える。
一度は手にした人智を超えた力を失ってしまったが、それで良かったのだ。
彼女が再び悪意に支配される心配は消えたのだから。
「あとは……。最後はフローラ様が主導権を握っていたからかもしれませんが、邪神の分体が協力をしてくれたのです。
自分が消えることを、恐らく察していたにも関わらず……」
フローラを救う最後の攻防。満身創痍のアメリアを支えたのは、他でもない『傲慢』だった。
悪意に染まっていない純白の身体は、己が為すべき事を自分で選んだ。その結果、自分が消えると察していながら。
マギアで戦った『憤怒』と同じだ。
悪意に染まり切っていないが故に、衝動に身を任せるような真似はしない。
一柱だけではないのなら、偶然とは言えない。邪神の本質は、やはり悪意の塊ではないのだと思わされる。
「邪神を生み出した僕が言えた義理ではないけれど。
心なしか、満足しているようにも見えた」
『傲慢』の様子を思い返しながら、アルマがぽつりと呟く。
きっと、彼の認識に誤りはないだろう。『憤怒』も最後は、笑っていたのだから。
(だったら、やはり邪神も――)
だからこそ、シンは考えずにはいられない。
再び顕現を果たした邪神も、ただ破壊衝動に身を任せるだけの存在ではないと。
あの救いを求める小さな子供はまだ存在しているはずだと、希望を抱いてしまう。
「それで、邪神とビルフレストはどうなったんだ?」
シンの問いに、彼を除く全員が顔を見合わせる。
話すべきかと言うよりは、どう表現するべきかと悩んでいるようにも見受けられる。
「はっきりとは伝えられないのですが。事実だけをお話しますね」
「ああ、頼む」
戸惑いの表情を浮かべるアメリアに、シンはゆっくりと頷く。
彼女は自らも頭の整理をしながら、邪神の顕現後に起きた内容を語り始める。
「結論から申し上げますと、空白の島は島そのものが破壊されました」
開口一番。空白の島の消滅を告げるアメリアにシンは眉根を寄せる。
嘘偽りではない事はすぐに察した。彼女はこんな性質の悪い冗談を言う人間ではない。
なにより、邪神が放つ黒い閃光を見た。大地や海さえも切断するあの光ならば、不可能ではないと思わせる。
「待て。その状況で、俺たちは全員空白の島から脱出できたのか?」
邪神の脅威を再確認する一方で、シンにある疑問が浮かぶ。
島さえも破壊する存在が目の前に居るというのに、全員が無事に脱出できているという状況を訝しむ。
「ええ。邪神は私たちを攻撃することはありませんでした」
じっくりと言葉を探した後に、アメリアは「理由は解りませんが」とつけ加える。
顕現した邪神はビルフレストと彼の母。そして、世界再生の民の仲間を回収して空白の島から去ったらしい。
研究成果の隠滅が狙いなのか。
島こそ破壊したものの、シンを含む侵入者へ矛先を向ける事はなかったという。
「ビルフレストの他に、『強欲』はしっかり回収していきましたけどね。
あっちだけでも、仕留めとくべきでした」
「それで邪神の怒りを買ってしまえば、元も子もないだろう。
あの場面は、ああするしかなかった」
「それはまあ、そうなんですけど」
惜しい事をしたと漏らすオリヴィアをトリスが嗜める。
オリヴィアも理解しているのだ。あの場面で手をだすのは悪手である事ぐらいは。
「……邪神はそのまま、海を渡って去っていきました」
そして、崩壊する空白の島から脱出するべく右往左往する中。
異常を察したベリアがネクトリア号を寄せてくれた為に、事なきを得た一行は今に至る。
「そうか」
一通りの話を聞き終えたシンは、窓の外に広がる海を眺めた。
瞳に映し出されるのは、青く広がる穏やかな風景。とても邪神が現れたとは、思えない程に。
「……アルマ。ビルフレストの、世界再生の民の行先に心当たりはあるか?」
話を聞く限り、世界再生の民も今回の件で深手を負ったに違いない。
潜伏先を絞る事が出来れば先手が打てるのではないかと、シンはアルマへと問う。
「すまない。僕には、もうビルフレストが向かう場所を予測できない」
既に縋る場所が存在しているかどうかすら、解らない。
期待に応えられなくて申し訳ないと言わんばかりに、アルマは首を横に振る。
「……いや、悪かった。今更奴が、割れている場所へ向かうとも思えない」
尤も、それは決して悪い事ではない。最悪なのは、場所が割れているのを逆手に取られる事だった。
邪神を用いて動きを起こすのであれば、否が応でも目立つ。
まだ焦る必要はないと言い聞かせるのは、仲間ではなく自分に対してだった。
「ビルフレストのことは気になりますけど、まずはミスリアへ帰りましょう。
フィロメナ様も心配していますから。フローラさまは、これでもかってぐらい元気な姿を見せてあげてくださいね」
「……ええ、そうね。みなさん、本当にありがとう」
行先が判らない以上は考えても仕方がないと、オリヴィアが両手をパンと鳴らす。
気になる点はいくつもあるが、フローラの奪還。そして、トリスの兄も世界再生の民から救い出せた。
一先ずの目的を達成したネクトリア号は、再びミスリアを目指して青いキャンパスを駆けていく。
再び仲間の元へと、帰る為に。