416.投げかけられた言葉
洞窟内を走る稲妻が浮き彫りにした現実は、シンとビルフレスト双方に同じ感想を抱かせる。
後一歩で。もう少しで。この男を仕留める事が出来るのだと。
(破棄弾で仕留めきれなかったのは痛いが……。
奴も満身創痍である事には変わりない。決めるなら、ここだ。
……俺が先に折れるわけにはいかない)
一瞬の光に照らされた姿からでも十分判る程に、ビルフレストは傷付いていた。
元々が万全ではないはずだ。ミスリアで戦った際の傷は完全に癒えていなかっただろう。
ミスリアでの戦いは大きな意味を持つ。
ライラスが腕を犠牲にしてまで、希望を繋いだ。テランが魔導石を用いて、懸命に『暴食』を封じ込めた。
黄龍王の神剣の継承者となったヴァレリアが、一太刀を浴びせた。
王都から離れた彼に、自分達が更なる傷を負わせた。
それでも尚、シンが不利であった事は否めない。
状況を覆したのはビルフレストが危険視した存在。『怠惰』の齎した魔導弾。
破棄弾により魔力が失われた短時間で、ビルフレストの姿は驚く程に傷だらけとなっていた。
鎖骨が断たれ、左肩は持ち上がらない。だらんと下がった左腕の傍では、投擲用の杭が痛々しく刺さったままだ。
右腕や首筋からも糸により皮膚の裂かれた痕が見える。首筋と手首には、地面へ伸びるよう赤い線が引かれていた。
視界に映ったのは無数に刻まれた傷だけではない。
彼の命を護り抜いた胸当ても。折られた右手の指も。魔導石の爆発により爆ぜた肉も。
痛々しい光景であるが故に、シンは察する。今を置いて、ビルフレスト・エステレラを仕留める好機が存在するものかと。
(ここで全てを終わらせる……ッ)
我が身に鞭を打ちながら、シンは銃口をビルフレストへと向ける。
確かな殺意を以て、彼と向き合っていた。
(触れれば即座に倒れてしまいそうな身体で、よくも……)
一方、ビルフレストも傷だらけのシンの姿を見て自らを奮い立たせていた。
洞窟内に漂わせた魔力を風の刃に転換した結果、シンの身体は無数に斬り刻まれている。
傷口から血が撒き散らされる様は把握していたが、視界に入れてみると驚いた。
全身を鮮血に染めながら、一切の闘志を失っていないのだから。
風の刃以外でも、彼が血を流し過ぎているのは明白だ。
世界を統べる魔剣の一太刀により斬り裂かれた左肩から胸は一層濃い赤で染まっていた。
他にも、マギアでの戦闘で深い傷を負っていたのだろう。自分が攻撃したとは思えない位置からも血が漏れている。
(こんな状態で、あれだけの動きをしていたのか)
耳を澄ますまでもない。浅い呼吸が洞窟に反響している。
押せば倒れるどころか、放っておいても失血死するのではないだろうか。
どう見ても死に体であるというのに。そう言いきれない気迫を、未だに秘めている。
畏怖。賞賛。嫌忌。驚嘆。
シンを前にして、ビルフレストは自分でも予想外の感情ばかりが湧き上がる。
「ただの人間」であるはずなのに、今までに逢った事が無い人種だった。
(誰もが、この男の領域に到達する可能性を秘めている……)
あり得ないと頭の中では否定しつつも、シンの言葉が脳裏にこびり付いたままだった。
彼は何も持ち合わせていない。血筋も、魔術の素養も。信心深い訳ですらない。剣の才さえも、自分やアメリアに劣るだろう。
何度見返しても、結果は変わらない。本当に、生まれだけを見れば突出する事のない平凡な人間。
だからこそ、堪らなく危険だった。同時に、尊敬に値すると確信をした。
ビルフレストは生涯、この男の事を忘れないだろう。
同時に、他の人間の記憶からは消し去りたい存在でもある。
意思の力ひとつで「ただの人間」を、高みに昇り詰める事が出来ると知られたくはなかった。
立っているのもやっとな状態。半死人を殺すならば今しかない。
その眼光に惑わされるな。真っ直ぐに構えた銃口に怯えるな。
自身も満身創痍でありながら、ビルフレストは己の身体へ鞭を打つ。
シンとビルフレストの互いに、余力は残されていなかった。
もう二、三度の交戦でどちらか。あるいは両方が絶命していただろう。
二人の戦いを中断する横槍が入ったのは、直後の事だった。
シンが引鉄を。ビルフレストが風の刃を発生させようとした瞬間。
心の溝を表現するかのように、黒い閃光が二人の間を走り去った。
「なんだ……!?」
「これは――」
閃光は頭上から放たれていた。それも、そうとう高くから。
洞窟の天井は鋭利な刃物で斬られたかのように断たれ、光が差し込む。
導かれるように顔を顔を上げた瞬間。シンは、隙間から覗き込みそれと目が合った。
顔中に彩られた紋様はお世辞にも、美しいとは言えない。
悪意を煮詰めたようなどす黒い色が、のっぺりとした表情の代わりと言わんばかりに塗りたくられている。
見開かれた瞳に光は宿っておらず、無限の闇に吸い込まれるのではないかという錯覚すら覚えた。
ビルフレストの持つ分体。『暴食』ではない。
いや、邪神の分体ではないのは明らかだった。
実体化した姿を初めて見るにも関わらず、シンは確信を持ってその名を口にした。
「邪神――」
シンがその名を呟いた瞬間。
邪神の口が、僅かに開いたのを彼は見逃さなかった。
「私の可愛い息子を傷付ける不埒な輩は許さないわ。
さあ、やってしまいなさい」
「――!」
裂けた天井の向こうで、女の声が聴こえる。
初めて聞く声だったが、「息子」という単語から誰であるか察する事は出来る。
ビルフレストが語った昔話に登場する、彼の母親なのだろう。つまりは、魔王の子孫。
(奴の母親が、邪神本体の適合者? いや、そもそも本体に適合者は必要なのか? 身体は耐えきれるのか?)
様々な可能性を考慮する中、息子を痛めつけられた恨みを晴らすべくファニルは邪神へ悪意と呪詛を捧げる。
ファニルは決して適合者ではない。捧げられたのは、命令ではなく願い。
それでも邪神は、ファニルの思い通りに動いた。それが自分の存在意義であると言わんばかりに。
「――ッ!!!」
声にならない奇声と共に、再び黒い閃光が空白の島へと走る。
山を割り、海を断つ。邪神の放つ一撃は、島そのものを破壊しようとしていた。
無論、シン達の立っている洞窟とて例外ではない。
天井は完全に避け、視界が大きく広がる。シンとビルフレストの間に生まれた溝は、最早崖と化していた。
「母上……」
ビルフレストは邪神の肩に乗るファニルを見上げ、ぽつりと呟く。
水を差されたという苛立ちと、援軍が来たという安堵が入り混じった複雑な表情をしていた。
だが、それはあくまでビルフレストの視点。
彼が心配で訪れたファニルは、傷だらけとなった息子の姿を見て酷く取り乱す。
「ああ! 私の可愛いビルフレスト……!
貴方がそんなに傷だらけになるなんて。そこの男が、死にぞこないがやったのね。
お母さんが仇を――!」
邪神よりも余程憎悪の籠った眼で、ファニルはシンを見下ろした。
今すぐ捻り潰したいという怒りを纏ったまま、彼女は自らの髪を掻き毟る。
「いえ、でも。ビルフレストが勝ったことにはならないわね。
けれど、私も殺したいぐらい憎いわ。可愛い息子をここまで傷付けられて、黙っていられるはずがない。
どうすればいいの、どうすれば――」
ヒステリックに取り乱す様を見たシンは、眉間に皺を寄せる。
迂闊には動けない。邪神の援軍により、自分が圧倒的に不利な状況に追い込まれたのは明らかなのだから。
何より、自分の状態も危険だと改めて思い知らされた。邪神の乱入というよりは、集中力を掻き乱されたからか。
シンは意識が朦朧としはじめる。
「いえ、違うわね。そう、一番大切なのはビルフレストよ。
可愛い息子こそが、私の全てなのだから。まずはあの子を治療しなきゃいけないわね」
ファニルの表情は怒りに満ちたものから、子を想う母のものへと入れ替わっていく。
邪神に手を差し伸べさせ、大きな掌へビルフレストを乗せる。
瞬く間に、シンとビルフレストの距離が開いていく。
「――ッ」
言葉には言い表せない感情を抱きながら、シンとビルフレストは視線を交わす。
敵意に満ちた視線を遮ったのは、やはり彼の母親だった。
「ビルフレスト、心配しないで。もう大丈夫よ。
貴方の部下だもの。使えそうな人材は回収しておくわ。
まずはゆっくりと、治癒魔術で英気を養いましょう。貴方には、やるべきことがあるのだから」
「ええ、感謝します。母上」
血塗れのビルフレストを、一切の躊躇なく抱擁するファニル。
行き過ぎた愛情表現だとは思うが、ビルフレストは抵抗する気力すら残っていない。
それに、実際助けられたのだ。あのままシンと交戦して、自分が確実に勝てる保証はなかった。
「いいのよ。私がお母さんなんだもの。
さあ、行きましょう。もうこの島に、用はないわ」
ファニルが退却を促すと、邪神は踵を返す。
醜い、悪意の塊である紋様を宿した背中が壁のようにシンの前へと聳え立つ。
「……待て!」
刹那、シンは残る力を振り絞って声を張り上げた。
邪神の足が止まる。悪意の紋様を宿した顔が、シンへと向けられる。
「お前は……。本当に、それでいいのか!?」
見上げるシンと、見下ろすビルフレスト。二人の視線は交わっていなかった。
シンの視線が自分へ定まっていない事を訝しみながらも、ビルフレストは答える。
「無論だ。私は必ず一族の悲願を達成して見せる。そして、次に遭った時が貴様の最期だ」
ビルフレストの言葉に、シンは反応を示さない。
言葉は最早不要と判断したビルフレストは、彼から視線を外した。
シンは、邪神が視界から消えるまでの間。沈黙を保ったまま、その背中を眼へと焼き付けていた。
……*
「シン……! そのケガ……」
フェリーがシンの元へと辿り着いた時には、既に彼以外の姿は見当たらなかった。
戦闘は終わった。生きていると安堵する一方で、血塗れとなったシンの姿に狼狽える。
「フェリーか。身体は無事か?」
離れ離れとなったフェリーの姿を確認し、シンは安堵のため息を漏らす。
正直に言うと、少しだけ怖かった。破棄弾の影響が、彼女にまで及んでいる可能性は否定できなかったから。
「あ、あたしはだいじょぶだよ」
「そうか」
フェリーの反応を見る限り、破棄弾の影響は受けていない。
汚れこそ散見されるが、いつも通り怪我は見当たらない。皮肉な話だが、こういう時は不老不死の身体に感謝をしてしまう。
「それよりも、シンが!」
しかし、フェリーにとっては自分の身体どころの話ではない。
シンの傷の方が余程深刻で、その認識は間違っていなかった。
「無事で、よかっ……」
フェリーの無事を確認した瞬間の事だった。不安は的中した。
シンの意識を保っていた緊張の糸が、ぷつりと途切れる。
次の瞬間。彼の身体はその場へと崩れ落ち始めた。
「シン……っ!」
咄嗟にフェリーは彼の身体を抱きかかえる。
鼻に突く鉄の臭いと、掌に纏わりつくぬめりとした感触が彼女の血の気を引かせる。
フェリーはシンの手荷物から、血に染まった包帯を取り出す。
衛生面を気にしている場合ではなかった。兎に角止血をしなくては話にならない。
「待って、待っててね、シン!」
傷口を縛り上げたフェリーはそのまま彼を背負う。
力なく掛かる負荷は、彼女を不安にさせる。
耳元で囁くように吐かれる浅い呼吸は、彼が生きている事の証明。
「アメリアさんやオリヴィアちゃんのトコに、すぐ連れていくからね!」
シンに治癒魔術の効果が薄いのは知っている。けれど、全く効果がない訳ではない事も知っている。
現にアメリアは、シンの応急処置を何度もしてくれた。
一刻も早くシンを救けたい。その思いだけで、フェリーは崩れつつある空白の島を駆け抜ける。
フローラも、邪神も、世界再生の民も。この瞬間ばかりは頭から消し飛んでしまっていた。




