415.魔力のない世界で
破棄弾が生み出す、魔力の齎す恩恵を否定した世界。
暗闇の中で淡々と突き立てられるナイフは恐怖を煽っていく。ビルフレストの精神を蝕んでいく。
世界再生の民が振り撒く悪意よりもこの暗闇の方が余程恐怖の象徴ではないのかとさえ感じる。
(こんな、こんなはずでは……!)
ビルフレストは慄き、狼狽える。
生まれた頃から強い魔力を持ち、剣術の才覚にも恵まれていた。
頭角を現すのに時間は必要とせず、日を追う事に自分を信用する者は増えていった。
エステレラ夫妻は自分の真の両親ではなかったと聞かされても、不思議とショックはなかった。
むしろ、安心と納得さえしていた。
あのように愚鈍な、器の小さい人間から生まれた存在ではないと判ったのだから、歓喜に震えたものだ。
彼らとは違う。真の母であるファニルは魔王の末裔。
遠い祖先が成し遂げられなかった事を、果たすべく生まれた存在なのだと。
その過程で悪意を積み重ねていく度に、ビルフレストは確信していく。
自分はずっと得ていく。捕食するべき側に立っているのだと。
だからこそ、『暴食』に適合したのだと。
しかし、その思い上がりは否定される。
たった独りの、何者でもない青年によって。
時間の経過と共に増えていく生傷が証明していく。
もうどこが傷付けられているのかすら判らない程に感覚が曖昧になっていく。
(速すぎる……っ!!)
反撃を試みる事さえ許されない。シンの方が圧倒的に速いのだから。
万が一、自分の方が先に反応したとしても忽ち追い抜かれてしまうのは明白だった。
そうなれば防御も間に合わない。即死を免れない。
堪え忍ぶしかない苦痛を前にして、ビルフレストはこの闇を恨めしく思う。
自分で創り出した状況にも関わらず、だ。
探知の使える自分ならば、より有利な状況で戦闘を運べるはずだった。
仮にシン・キーランドが暗闇での戦闘に慣れていたとしても、漂わせている魔力を武器に転換出来る自分に死角はないと。
しかし、彼は予想だにしない隠し玉を持っていた。
寝耳に水どころの話ではない。とてつもない爆弾を懐へ忍ばせていた。
身体がシンの猛攻を受け止めるしかなくなった一方で、ビルフレストは頭を回し続ける。
正しくは、勝手に思考が動いていく。現実と向き合いながら、苦痛から逃避すべく。
(やはり、私の考えは正しかった――)
刃に皮膚を裂かれ、拳に骨を折られながらビルフレストは再認識をする。
破棄に目覚めたジーネスを殺した事も。
持たざる者であるシン・キーランドを、殺さなくてはならないと判断した事も。
在ってはならない存在だったのだ。この、自分の理外に立とうとする者達は。
(だが、ここまで成ったのはシン・キーランド自らの力によるもの……)
ビルフレストは錯綜する一方で、己が持ち得なかった感情を抱き始める。
耐え難い屈辱や畏怖といった負の一面は当然として、彼はシンへ尊敬の念を抱いたのだった。
自分でも意外だったが、認めざるを得ないのだ。
シン・キーランドを認めなければ、自分の全てが否定されてしまうのだから。
都合三度、ビルフレストはシンと対峙した。
一度目の戦いでは、援護ありきとはいえ左腕を失った。
二度目の戦いでは、負傷しているとはいえ自分と競って見せた。
こと戦闘に於いて、シンは自分より先を見据えている。
いや、正確に言えばそうなるように仕向けている。
持てる手札を晒しながら、思考を誘導していく手腕。
魔力を消し去るという切り札を持ちながら、隠し通した胆力。
そして今。ビルフレストの背筋が凍る。
彼の領域へ引きずり込まれていると、改めて実感をしてしまった。
(これがこの男の……。シン・キーランドの生きてきた世界か……)
水の中へ沈められたように身体が重い。
向けられた敵意に抗うのも、その身ひとつ。
マトモな神経では瞬く間に折れてしまうであろ世界に、彼はひとり立っていた。
魔力を持たない。魔術を扱えない人間。
出来損ないとまでは言わなくとも、こと戦場に身を置く者としては致命的なハンデを抱えている。
魔術大国ミスリアでその才覚を遺憾なく発揮していた者としては、余計にそう感じる。
無論、ミスリア以外にも歴戦の戦士は存在している。
同じく体内に少ない魔力を宿す、ジーネスがいい例だろう。
しかし、彼も魔術師に比べれば少ないという評価に落ち着く。間違いなく魔力による恩恵は受けていた。
その点からもシンの特異性が浮き彫りになる。生まれがではなく、育ちが。
本来なら、戦いに携わるような人材ではない。
夢を見るのは結構だが、すぐに命を落とすような有象無象。
もしくは、住む世界が違うと諦めて身の丈に合った人生を選ぶ。
この高みに登るまで、どれだけの研鑽を重ねたか窺い知れない。
修行を始めたばかりの、片っ端から物事を吸収するような時期はとうに過ぎただろうに。
限界をほんの僅か押し上げるだけで、途方も無い苦労があっただろうに。
そうまでしてやっと、彼は魔導具による擬似魔術と併用する事で同じ舞台に上がってきたのだ。
割に合わないにも程がある。
だが、シンは戦い続けた。そうする理由は考えるまでもない。
不老不死の少女の存在が、彼に自分の身体を虐め抜く事を選択させた。
そして今、彼は悪意を。自分を追い詰めようとしている。
(早く、早く終われ! 魔力を私の身体へ、戻せ……!)
形容しがたい地獄の中、ビルフレストは生傷を増やしていく。
途切れる事なく続く地獄を前にして、時間の感覚はとうに消え失せていた。
(まだだ、まだ終わるな)
ビルフレストがあらゆる屈辱に耐えている中。
シンの願いは彼と正反対のものだった。
無理もない。破棄弾はこの一発しか用意されていない。
材料に『怠惰』の『核』を使用している以上、二度と精製は出来ない。
世界再生の民を止める。ビルフレスト・エステレラを潰すにあたってこれ以上の好機は二度と訪れないかもしれない。
骨が軋む。全身に刻まれた傷口が、無理な動きに引っ張られ広がっていく。
マギアから先。シンが受け続けた負傷は決して軽くない。限界はとうに超えていた。
悲鳴を上げる身体に鞭を打ちながら、シンはビルフレストを攻め立てる。
吸収を持つ左腕を封じ、世界を統べる魔剣を弾く。
探知の使えない彼は、自分の姿を正確に捉えきれない。
踏み込んだ足音が織りなすフェイントに翻弄されないよう、亀のように身を丸めている。
圧倒的な優位を手にした事により攻めすぎてしまったと、シンは猛省する。
いっそ、反撃に出て欲しかった。防御が緩んでしまえば、交差法で仕留める事も可能だったというのに。
自分の心の中に焦りがあったのだと気付かされ、下唇を噛んだ。
破棄弾の持続時間は造ったマレットにすら判らない。
今、この瞬間にビルフレストが魔力を取り戻してもおかしくない。
『怠惰』が齎す奇跡は、唐突に終わりの鐘を鳴らすだろう。
だからこそ、シンは今も全力で戦っている。
ビルフレストを仕留めるべく攻める中。
シンは次の一手を目論んでいた。ビルフレスト・エステレラを確実に殺す為。
仮に自分が失敗したとしても、致命傷を負わせる為に。
「ぐっ――!?」
異物が首へと触れた瞬間、ビルフレストの血の気が引いた。
断じてシンの腕や指などではない。ナイフのような刃物でもない。
首を伝っていく細い感触。紛れもなく、魔硬金属で造られた糸だった。
通常の糸や縄でさえ、首を締め上げる凶器へと変わる。
その素材が魔硬金属となれば、腕力次第では首の切断さえも可能とするのではないか。
ひとたび捕まってしまえば、逃れる術はない。
(右腕を差し出すしか――)
左肩は鎖骨を断たれ、上がらない。
シンの攻撃に耐えるべく上げていた右腕を、ビルフレストは首元へと寄せる。
間一髪というにはあまりにも厳しい状況ではあるが、右腕を潜り込ませる事で、糸が首のみに巻き付く事態は防いだ。
だが、それはビルフレストに防御する術が失われた事を意味する。
両腕の自由を奪われたビルフレスト。絞め殺せないと判断し、即座に糸から手を離すシン。
二人の身体に、ほんの僅かではあるが隙間が生まれる。
「貴様の好きにさせてなるものか!」
ナイフを突きだそうとするシンに対し、ビルフレストは身体を左へ傾ける。
脇腹へナイフが深く突き刺さる。今までで一番の激痛が、ビルフレストを襲う。
「――ッ」
情けない悲鳴は上げまいと、歯を食い縛るビルフレスト。
これでいいと、闇の中でうっすらと口角を上げる。ナイフは自分の身体へ深々と突き刺さったが、距離は詰められた。
これならば、左肩が上がらなくても問題はない。左手がすぐ届く位置に、シンの身体が存在している。
(身体を左に傾けたか)
指先を伸ばし、吸収でシンを喰らおうとするビルフレスト。
シンもまた、ナイフが触れた瞬間には彼の意図を読んでいた。
このまま追撃は出来ない。刃を抜いている間はないと、ナイフをビルフレストの身体に残したまま距離を置く。
『暴食』の左手が空を切り、ビルフレストが舌打ちをした瞬間。
ビルフレストは感じ取った。洞窟の中に、魔力が発生しはじめている事に。
「魔力が――」
「くそッ……」
それは同時に、ビルフレストの体内にも魔力が戻り始めた事を意味する。
時間にして、五分にも満たないだろう。それなのに、随分と久しぶりに感じる。
乾いた喉に水を流し込んだかの如く、活力が戻るのを感じる。
耐え忍ぶだけの屈辱の時間は終わりを告げた。
シンに地獄を見せるべく、ビルフレストは傷付いた身体に鞭を打つ。
脇腹へと突き刺さったナイフを引き抜き、シンへと投げつける。
シンがナイフを受ける間に、ビルフレストは自らの剣を求めた。
探知を扱い、世界を統べる魔剣の位置を把握する。
準備は整った。今度は自分が、漆黒の魔剣にシンの血を吸わせる番だ。
「残念だったな。シン・キーランド」
「まだだ。まだ、終わっちゃいない」
シンは魔導砲の銃口を、ビルフレストへ向ける。
その所作だけで判る。込められた弾丸は破棄弾ではないのだと。
躱せる距離ではない。破棄弾ならば、有無を言わずに撃てばいい。
そうしないのは、装填されていないから。もしかすると、もう存在しない弾丸なのかもしれない。
シンの持つ銃を過度に怯える必要はない。
自分の持てる力を出し、彼を仕留めればいい。
「いいや、ここまでだ」
その為には、まず世界を統べる魔剣に巻き付いた糸を取り払わなくてはならない。
魔導石へ魔力を流し込み、邪魔な存在を吹き飛ばそうとした瞬間。
「――なんだとっ!?」
ビルフレストの手元で、連鎖するように小さな爆発が起きる。
予想外の攻撃を前にして魔力による障壁は間に合わず、ビルフレストはその爆発を一身に浴びた。
「だから、まだだと言っただろう」
爆発の正体は、魔導弾。
破棄弾の影響下で世界を統べる魔剣の刃を弾いた際。
魔硬金属の糸には、魔導弾が巻き付けられていた。
探知が使えないビルフレストは、それが糸である以外の認識は出来ない。
魔力が復帰してからも同様に、動きが存在していない魔導弾を感知する事は出来なかった。
ビルフレストが魔力を流した瞬間。
魔導弾の弾頭は暴発をする。爆発が引き起こされた。
シンが予め用意していた、次の一手だった。
「キ……ッサマァ!」
「悪いが、俺は何が何でもアンタをここで仕留めるつもりだ」
激昂するビルフレスト。シンは対照的に眉ひとつ動かす事なく、引鉄を引いた。
稲妻弾による稲妻がビルフレストへ襲い掛かり、洞窟の中を照らす。
そこには傷付き血塗れとなった二人の姿が、互いに曝け出されていた。