411.事実と真実
ファニルの一言により、フェリーは否が応でも思い出してしまう。
自分を見つけてくれた、大好きなおじいちゃん。
アンダル・ハートニアによってフェリーという名前を貰うよりも前の話。
無造作に散らかった部屋で、部屋の隅に蹲る毎日。
太陽の光が窓から差し込み、消えていくのをただ眺めているだけの日々。
扉の向こうでは、自分を産んだ人達が居た。
薄い板を一枚挟んだだけなのに、まるで別世界のような不干渉。
まるでいないように扱われ、自分が異を唱える事もない。
フェリーにとってはそれはまさしく、『無』に等しい記憶だった。
……*
「離れ離れになったワケじゃ……」
言葉を詰まらせながら、フェリーは反論を試みる。
あれから20年以上が警戒している。自分だって、いつまでも子供のままではない。
人買いに売られた事ぐらいは、容易に想像がつく。
フェリーは今更、その事を恨んだりするつもりもない。
どうでもいい。興味がないとさえ思っている。
シンは棄てた相手に対して憤っているけれど、自分の為に怒ってくれるのは少しだけ嬉しくも思う。
ともあれ、フェリーにとっては『無』である頃の話は気にするような代物ではない。
結果論ではあるが、お陰でアンダルと出逢えた。
シンやリン。キーランド家の皆と日々を過ごせた。
自分の幸福はカランコエにあったのだと、はっきりと言い切れる。
自身に眠る魔女の暴走か、大切なものを喪ってしまったけれど。
赦されないとさえ思っていたのに。シンは自分の傍に居てくれた。歩幅を合わせてくれた。
気付けばまた、友人や仲間がたくさん出来ていた。
今までに出来た大切なもの全てで、血や種族などを気にした事は無かった。
血縁による繋がりに意味を見出しているファニルとフェリーは、対極に位置している。
「一方的に棄てたのは、あっちだよ。あたしは、今のあたしでいい。
おじいちゃんやシンに逢えたから、こうしていられるんだもん。
血の繋がりなんて、ゼンゼンカンケーないよ!」
「本当に、一方的に棄てられたのかしら?」
妖しく笑みを浮かべるファニル。
言わんとしている意味が解らないにも関わらず、フェリーは寒気を覚えた。
「私をごらんなさい。お腹を痛めて、ずっと待ち望んで産んだ我が子よ?
一方的に棄てるなんて、考えられないわ」
「それは、あなたがそうだっただけで!」
世の中には、様々な家族の形がある。
子供を目の前で奪われ、憤りの中生きて来た彼女のような者もいれば、自分のように引き取ってくれた家族と幸福を築いた者だっている。
ただそれだけの話だというのに、ファニルは母という立場からの意見を述べる。
「けれど、貴女だって解らないでしょう? 母親の気持ちなんて」
フェリーは眉を顰める。当然だ。考えた事もない。
気持ちをちゃんとぶつけた事もぶつけられた事もないのに、解るはずがない。
そもそも、フェリーは母親だと認識すらしていない。
顔すらも直視した記憶が殆どない。当然、覚えているはずもなかった。
「だから、あたしは――」
「父親が暴力的な人間で、貴女を護るために仕方なく隔離したのかもしれない」
「……っ」
淡々とした口調でファニルから紡がれる言葉は、今まで考えた事すらないものだった。
これまでの一方的に母親の気持ちをぶつけられるよりも、よほどやり辛いとフェリーは息を呑む。
「貴女を育てる環境がどうしても整わなかった。だから、一縷の望みに託して人買いへ差し出した。
目の前の出来事が真実とは限らないじゃない。一方的に否定をして、拒絶をして。
もしも貴女を今も愛しているのだとすれば、とても冷たいことをしているのよ?」
ファニルの真に迫るような口調は、自分の経験と重ねた上で発せられているからだろう。
ビルフレストやエステレラ家の視点からすれば、ただの侍女だった彼女が真の母親だという真実。
自分の見えているものだけが全てではない。それを知っているからこそ、フェリーを揺さぶる。
(あたしのタメ……?)
今まで、思ってもみなかった可能性がファニルによって提示される。
そんなはずはないと思いつつも、フェリーははっきりと否定が出来ない。
確かめる術がないのだから、当然だった。幼い自分の中に、産んだ人間の心情が読み取れる記憶など存在していない。
一方で、『母』という存在に強い憧れを抱いている事に気付いてしまう。
シンの母親。カンナは、自分にとっての憧れだった。
自分にも分け隔てなく接してくれた彼女は、フェリーにとっても『母』と呼べる存在。
イリシャもそうだ。彼女は苦汁の決断の末、家族から身を引いた。
200年経った今でも大切に想っている事は、彼女の口振りから解る。
妖精族の里で皆の「お母さん」を務めているのも、こういった背景からなのだと思う。
「でもっ、それでもっ! あたしを棄てたコトには変わりないよ!」
ファニルがなんと言おうと、認められない。認めたくないフェリーが、声を荒げる。
自分の憧れた母親像と比べれば、やはりお朧げな記憶との乖離が大きすぎる。
カンナやイリシャと同列に思いたくない自分がそこには居た。
意識していなかった自分の心を見透かされたような気がして、強い動揺を見せるフェリー。
いつしか真紅の刃と透明の刃は、その先端が地面へ向けられていた。
その様子に、ファニルは自分の目論見が上手く行っているのだと口元を僅かに緩めた。
「揺るがない事実だからこそ、きちんと真実を知った方がいいわ。
私を受け入れたビルフレストのように、考えが変わるかもしれないじゃない」
「――変わらないよっ!」
フェリーは間髪入れず、ファニルの言葉を否定する。
自分にだって、今まで積み上げて来た思い出がある。
例え自分を売った事が苦汁の決断だったとしても、フェリー・ハートニアとして歩んだ人生は変わらない。
良い出逢いをしてきたからこそ。
嬉しい時も、哀しい時も側に居てくれた男性がいるからこそ。
フェリーは言い切れる。自分を産んだ人間がどう思っていようが、自分は変わらないと。
(いくらなんでも、突っつき過ぎたわね。却って反発させてしまったわ)
再び持ち上げられた真紅の刃。その先端を見つめながら、ファニルは反省をした。
フェリー・ハートニアを支えているのは間違いなく、シン・キーランド。
彼が居ない状況であるのなら、言葉による揺さぶりも通用すると考えていた。
事実、一定の効果はあったと手応えを感じていた。けれど、懐柔するまでには至らない。
自分が思っているより遥かに、彼女は血が繋がっていない家族を愛していた。
母親だと言い出したいのを堪えながら、一途に成長を見守っていた自分のように。
フェリーを崩す事が出来れば、戦況は有利に運べるがこの様子だと期待は出来ない。
むしろ、折角下げた刃を上げさせてしまった。
心を折りきるのであれば神経を逆撫でするのも有効だが、そうでないのなら諸刃の剣だ。
たかが小娘と思って侮っていた自分を、ファニルは戒める。
(……ま、私にとってはどちらでもいいのだけれど)
尤も、本音を言えばフェリーの精神は折れるかどうかはどちらでもよかった。
彼女が欲しかったものは手に入った。場を取り繕うだけの、時間が。
「そう。そこまで言うのなら私からはもう何もないわ」
肩を竦めながら、フェリーへ拍手を送るファニル。
意味の解らない問答で、ただ嫌な記憶を掘り返されたフェリーは不快感を露わにする。
「だったら、あんなコト言わなくったって……」
「そうね。けれど、私は血の繋がりは何よりも強いと確信しているわ。
これは自分の経験から来る、偽りのない本心よ。
もしかしたら、貴女も解る日が来るかもしれないわ」
「……分かりたく、ない」
下唇を嚙みながら、フェリーはファニルから視線を逸らした。
そんなものよりも、もっと大切なものに目を向けるべきだと思っていた。
「血の繋がりがそんなにだいじなら、あなたをここで捕まえればあの人は止まるっていうの!?」
灼神の先端が、真紅に染まる。洞窟内に漂う酸素が燃焼されていく。
次第に充満していく焦げた臭いに、ファニルは顔を顰めた。
「あの子は止まらないでしょうね。いいえ、止まって欲しくないわ。
だって、世界を統べるために戦っているのよ? あの子にはそれを成し遂げてもらわないと困るもの。
私の願いは、あの子が求めるものを手に入れること。私がその障害になるなんて、自分が赦せなくなる。
母の愛情は無償でいいのよ。私の手を取ってくれただけで、私は既に報われているのだから」
「また、そんなコトばっかり……!」
無償の愛だとか、耳障りだけはいいかもしれない。
けれど、やっている事は決して褒められたものではない。
悪意によって世界を混乱に陥れようとしている。
大切なものを、多くの人が奪われた。奪われようとしていた。
そんな人間に愛情だとかを語って欲しくはない。
「あの子が私を犠牲にするのは構わない。戦う力を持っていない私のために、無理をすることはないもの。
けれどね、私があの子の足を引っ張ることだけは認められない。
他の誰でもない、私自身が許せない。あの子を傷付けようとする輩も同罪よ。
だから私、許せないの。私の可愛いビルフレストを何度も傷付けた、シン・キーランドが」
「シンを――っ!」
フェリーにとってその男の名は、今までの会話を全て置き去りにする程の影響があった。
ファニルがビルフレストへ執念にも近い愛情を抱くのと同様に、フェリーもまたシンの事を何よりも大切に想っている。
彼女は言った。シンが許せないと。
それはつまり、シンを傷付ける事を厭わないという意味。
好きにはさせない。認められないと、フェリーは強く大地を蹴る。
「シンは、ゼッタイにやらせないよ!」
「残念ね。もう遅いわ」
ファニルの口元が大きく上げられる。次の瞬間。洞窟全体が大きく震えあがる。
震えは足の裏から伝わってくる。深く落ちたにも関わらず、更に『底』が存在している事にフェリーは驚きを隠せない。
「なっ、なんなの!?」
「やだわ。一度逢ってるはずでしょう?
久しぶりの再会なんだから、喜んであげて欲しいわね」
大きくなっていく振動に耐え切れず、洞窟が崩落を始めていく。
地面に大きな亀裂が入ると同時に、『底』から這いあがってくる存在を前にして、フェリーは戦慄をした。
広い洞窟さえも窮屈だと感じさせる巨体が、その身を地表まで貫かせようとしている。
以前と姿形が異なっているように思えるものの、これだけの圧迫感を発する怪物はそういない。
フェリーは自然と、その名を呟いていた。
「じゃ……しん……?」
灼神から放たれる僅かな灯りでも判る。
その身は悪意によって彩られているのだと。
「ええ、そうよ。行きましょう、私の可愛い息子を救いに」
邪神の肩に腰を下ろしていたファニルが、フェリーを見下ろしながら笑みを浮かべる。
「ダメ! ゼッタイに、ダメッ!」
三日月島での記憶が反芻される。
あの時は時を渡る古代魔導具によって過去へ転移をしたが、今は違う。
これだけの悪意を、強大な力を。決してシンへ向けさせる訳にはいかない。
及ばないにしても、少しでも足止めをしようと、フェリーが灼神と霰神を魔導接筒で接続をする。
眼前に伸びている脚さえ斬り落とせばと、全力で振り被った瞬間。
「いいえ、行くのよ。必ずね」
ファニルの一言に呼応し、邪神の指先から黒い閃光が放たれる。
洞窟を、山を、島さえも切断するその光は、邪神とフェリーの間に深い溝を生み出した。
「――っ! 待って!」
必死に訴えるフェリーの声も虚しく、邪神は踵を返す。
最早、上半身は洞窟を完全に貫いている。フェリーの視界には、ファニルの姿すら映らない。
邪神が振り返った先には、恐らくシンとビルフレストが居る。
彼らと邪神の邂逅。それは空白の島での戦いが、終わりに近付いている事を意味していた。