410.穢れとの邂逅
「しつ……こいっってば!」
灼神から放たれる高熱がいくら身体を貫いても。
『暴食』は決してフェリーの左肩を解放しようとはしない。
鉄の臭いと、肉の焦げる臭いが混ざり合い、異臭となってフェリーの鼻を突く。
思わず呼吸を止めたくなるような異臭だが、それどころではない。
不老不死だろうが、無尽蔵の魔力を持とうが。
フェリーの肉体は少女そのもの。自分よりも一回り以上大きい邪神の分体を前にして、じりじりと後退させられる。
灼熱の刃に貫かれ続けているというのに、驚異的な底力を見せる『暴食』にフェリーは驚きを隠せない。
この怪物を突き動かすものは、悪意の本懐たるビルフレストが持つ執念だというのか。
「っ、でも! あたしも……!」
フェリーは歯を食い縛り、足の指で地面を掴む。
ビルフレストがどれだけの悪意を秘めているかは知らない。
けれど、自分にだって譲れないものはある。悪意に決して負けてはいられない。
ぶつかり合う意地は、そのまま互いの持つ力の解放を意味する。
炎を纏い、悪意を滅さんとする灼神。『暴食』の名に恥じず、自らの脅威を喰らおうとする『暴食』。
その戦いに終止符を打ったのは、優劣の差などではない。
強大な力に耐え切れなくなった、地盤そのもの。
灼神の灯す光から僅かに確認できていた地面へ、亀裂が入る。
フェリーがその状況に気付いた時には、既に遅かった。
「えっ? まっ、また!?」
先に足を取られたのは、体格の大きい『暴食』だった。
支えを失い、踏み外す形となった巨体は灼神をその身へ食い込ませていく。
胸から首元までが一直線に灼き斬られる邪神の分体は、バランスを崩した事も相まって漸くその口をフェリーから離した。
「今のうちに、逃げなきゃ……!」
一緒に落ちてしまえば本末転倒だと、フェリーは倒れ行く『暴食』の腹を足蹴にした。
だらんと垂れた左手から霰神を放ち、足場を造ろうとしたその時。
『暴食』はまたしても、諦めの悪さを見せつける。
「わっ!? ちょ、ちょっと! やめてよ!」
圧倒的に不利な状況であるにも関わらず、『暴食』の執念は留まる事を知らない。
尚もフェリーの足首へと食らいつき、彼女の体勢を崩す。
胸から首元まで裂かれた影響か、咬合する力は殆ど残っていない。
だが、それでいい。『暴食』の狙いはあくまでフェリーの妨害。
彼女を崩れゆく洞窟の中へと道連れにするには十分だった。
「――っ!」
足元を引き寄せられ、背中から崩れ落ちるフェリー。
後頭部を強く打ち付け、一瞬ではあるが意識を飛ばしてしまう。
我に返った時にはもう遅い。
甘噛みのように自分へ喰らい付く『暴食』と共に、フェリーは洞窟の底へと落ちていった。
……*
「いったたた……」
終わりの見えない降下を終えたフェリーは、身体の節々を抑えながら声を漏らした。
落下の最中に何度も身体を岩盤へと激突させた影響か、動かす度に鈍痛が走る。
なんせ、遠慮なしに岩の塊にその身を弾かれていくのだ。この程度で済んでいるだけマシかもしれない。
尤も、条件は『暴食』も同じだった。邪神の分体もまた、巨体が岩へと打ち付けられている。
もしかすると、既に上半身の殆どが欠けていた向こうの方が影響は大きかったのかもしれない。
声すら満足に発する事の出来ない身体が、その重傷さを物語っている。
「ここで、倒さなきゃ……」
痛みこそまだ残っているが、不老不死となった影響で動ける程度には回復している。
改めて灼神を手に取り、死に体の『暴食』へと近付いていく。
この場で邪神の分体を仕留める事が出来れば、これからの戦いは有利に運べる。
その後は、シンの元へ急ごう。戻る方法を見つけよう。
行動の指針を立てながら、フェリーが真紅の刃を振り被った瞬間。
「あら。こんなところにまで、来てしまったのね」
「だれっ!?」
不意に聴こえた女性の声に、フェリーは警戒心を強める。
灼神の放つ灯りを通して映し出された先には、一人の女性が立っていた。
フェリーの意識が逸れた瞬間。『暴食』は、肉体を闇へと眩ませる。
限界を超えた邪神の分体が、命を失う前に主の元へと還っていく。
「あっ! 邪神が!」
千載一遇の好機を逃したと、フェリーは下唇を噛む。
思惑通りに事が進んだからか。フェリーの仕草が面白かったからか。
突如姿を現した女性は、くすくすと笑みを浮かべていた。
「あなたも、世界再生の民のヒトなの?」
「ええ、そうよ。世界再生の民は私と息子で創り上げた、大切なものだもの」
「創り上げた……? 息子……??」
彼女の言っている意味がまるで理解できず、フェリーは小首を傾げる。
世界再生の民はビルフレストがアルマを唆した結果、生まれた組織だと聞いている。
つまり、彼女はアルマの母という事だろうか。
確かアルマの母は亡くなったはず。加えて、自分が言えた義理ではないが彼女の見た目はまだ十分に若く見える。
自分やイリシャに近い存在が、そう何人も居ると言うのだろうか。
(んん……? ワケ、わかんないよ……)
フェリーは考えを考える度、ドツボに嵌っていく。
世界再生の民創始者を自称する女性は、その様子をただただ楽しんでいた。
「そう難しい話でもないわ。私はビルフレストの母よ」
「あいつの……!」
「ファニルよ。よろしくね、不老不死の魔女サン」
ファニルと名乗った女性は、スカートの裾を摘まみ上げて余裕の表れを示す。
壮年にも関わらず瑞々しさを保った肌は、自分達に近しい存在なのではないか。
そんな疑問が吹き飛ばされる程の衝撃が、フェリーへと襲い掛かった。
「じゃあ、五大貴族の……!」
「いいえ。私は五大貴族なんかではなくて、あの子の本当の母親よ。
今はそうね。魔王の子孫にして、この世界を統べる王の母になる予定……かしら?」
「魔王の……!? それに、本当の母親って……」
新たに情報が増えた事により、フェリーの混乱はますます加速する。
無理もない。ファニルの正体を知る者は、世界再生の民ですらビルフレストのみなのだから。
「そうね。ここまで来たご褒美として、順を追って話してあげる」
身振り手振りで語り始める彼女の迫力に、フェリーは呑み込まれる。
真紅の刃をファニルへ向けたまま、彼女の話へ耳を傾けていく。
ファニルが語り始めたのは、ビルフレストがシンへ話したものとほぼ同一の流れだった。
待望の息子が誕生した日、死産だったエステレラ家に愛する我が子を奪われた。
それを皮切に彼女はエステレラ家を、ミスリアを。挙句には人間を深く憎むようになったのだと。
ビルフレストが15歳になった日。彼女は全てを打ち明けた。
本当の母親が誰なのか。そして、自分と彼の血には500年前に人間と争った魔族の血が流れているのだと。
薄く染まっていくはずだった悪意が、時と経て覚醒を果たす。
まるで血の運命からは、逃れられないと言わんばかりに。
「そ、んな……」
「驚いてくれると、私も話した甲斐があったわ。
何せ、この話を誰かにしたことなんてないもの。
親バカかもしれないけれど、自慢の息子だって一度も言えなかったのだから」
「自慢の息子って、そんな!」
その発言は見過ごす事が出来ないと、フェリーが声を荒げる。
これだけ色んな人を巻き込んで、傷付けて。
そんな息子を自慢だと言う母の気が知れなかった。
「自慢よ。だって、ご先祖様の夢を叶えようとしているのもだもの。
昔の反省をきちんと活かして、二人で一生懸命考えたの。
愉しかったわ――」
口元を緩めながら、ファニルの話は続けられていく。
世界再生の民誕生の切っ掛けは、母子で誓い合ったのあの日。
一度は神の齎す奇跡。神器を扱う者達に敗れたこの世界を手に入れるには何が必要かを模索した。
結果、辿り着いた答えは神を創造するという禁忌。
悪意と破壊の化身である邪神を創り出し、神器へと対抗するというものだった。
ビルフレストはその才覚を活かし、ミスリアの内部から邪神の創造を試みる。
一方でファニルは侍女を辞し、身を隠しながら世界を転々としていた。
世界中に散らばる悪意の受け皿を生み出し、またその想いが強い者は連れ帰った。
魔術を基に邪神を生み出す事と提案したビルフレストは、邪神の『核』へ悪意を煮詰める事を提案する。
乳母を務めていた自分の存在に気付かれてしまえば、真っ先にエステレラ家が疑われる。
正体を隠し、悪意と呪詛を祈り続ける歯車として日々を過ごすが、充実感に満たされていた。
目の前に息子が居るのに、告げる事が出来ない。
エステレラ家の15年に比べれば、彼と共に同じ頂きを目指せる事がどれだけ幸せか。
同時に、エステレラ家へどれだけの恨みを込めてもまだ足りない。
ファニルの人生は、他者を憎む事で息子への愛情を深める歪なものへと変わっていた。
彼女同様に、世界そのものへ忌避感を示す者は少なくない。
ある者は、祖国で起きた内乱への憤りを発端にこんな世界は滅ぶべきだと考える。
ある者は、一部の上流階級を除いて容赦なく穢されていく姿に辟易をした。
その地に合った形で効率良く悪意を集めていた彼女は、悪意を向けるべき矛先を提示する。
世界再生の民こそが、邪神こそが救世主なのだと皆に言い聞かせながら悪意を振りまいていた。
彼女が齎した結果は、もうすぐ芽吹こうとしている。災厄という形で。
「と、まあ。こんなところかしら?
真実を話した時の反応は、嬉しかったわ。
血の絆って、やっぱり深いのねって実感しちゃった。
家族ごっこよりは、断然……ね」
「そんなに、ゼッタイ違うよ!」
満足をしたと言わんばかりに、ファニルは口角を上げる。
向かい合うフェリーは顔をくしゃくしゃに歪めながら、反論をする。
「血の絆って……。家族ごっこって……!
エステレラ家のひとだって、ちゃんと愛していたんじゃないの!?
大切だったから、ちゃんと貴族として育てられて――」
フェリーは納得がいかなかった。
自分がそうだったから解る。
血が繋がっているかどうかなんて、関係がない。
アンダルだって、シンの家族だって。
自分を受け入れてくれた。大切に育ててくれた。
ましてや、エステレラ家はビルフレストを自分の息子だと信じていたのだ。
ごっこだなんて、軽はずみに言っていい言葉ではない。
家族はそんな決して血だけで繋がっているのではないと、フェリーは知っている。
「どうかしら? 単に才覚に溢れたあの子を、手放したくなかっただけかもしれないじゃない。
サルフェリオの器なんて、五大貴族には相応しくなかったもの」
「でも! そんなのがわかる前から、愛情を――」
「ええ。私が注ぐはずだったものを、私の眼の前で奪い取ったものね」
「っ……!」
フェリーの言葉へ被せるようにして、ファニルは冷たく言い放つ。
氷のように冷たく、明確な怒りを前にして、フェリーは気圧されてしまう。
「奴らは、私の大切なものをどれだけ奪ったと思うの?
触れ合う時間も、抱きかかえる権利も、名前を付ける機会すらも奪われたのよ?
生きる事が出来なかった、本当の子供のことすらも忘れて、他人の子供を占拠していたのよ?
血も繋がっていない癖に。私の息子を、産んだ張本人である私に自慢するのだから、滑稽としか言いようがないわ。
ああ、醜い。なんと悍ましい。傍若無人で、気味の悪い生き物なのかしら」
「だから、それはっ!」
本当の子供ではないと、知らなかったから。
家族として暮らす子供を、愛していたから。
確かに運命は狂ってしまったのかもしれない。
けれど、注がれた愛情までも否定する必要はないどこにもない。
「そうね。貴女はエステレラの肩を持つわよね。
幼い頃に、実の親と離れ離れになったのだから」
「っ……!」
フェリーの言葉は、ファニルには届かない。
それどころか、彼女は知っている。フェリー・ハートニアが親から棄てられた存在だという事を。
その上で、彼女は揺さぶる。フェリーの心の内を、無神経に掻き乱していく。