408.邪神再臨
上げられた頭は心地よい温もりに覆われている。
瞼の奥へうっすらと差し込む光に、眩しさを覚えた。
鼓膜に響く騒音は、決して耳障りなどではない。
自分を心配してくれている様子が、直に伝わってくるから。
「みんな……。おはよう……」
瞼を持ち上げた向こう側には、瞳に大粒の涙を浮かべるアメリアの姿があった。
心地よい温もりの正体はどうやら彼女の膝のようで、心配するように自分を覗き込んでいたのだと窺えた。
「フローラ様……っ!」
「ふふ。騎士なのに泣き過ぎよ、アメリア」
ぽたぽたと零れた涙が、頬を伝う。
熱の籠った雫は心地よくて、とても避ける気にはなれなかった。
「私を救ってくれたのね、ありがとう」
フローラの記憶に残っているのは、蒼龍王の神剣が自分を貫いた所まで。
心の内側で叫び続けていたもう一人の自分は、気配すら感じない。
正真正銘。『傲慢』から救ってくれたのだと感じ取る。
「いえ……。私だけではありません。
皆さんが居たからこそ、こうしてフローラ様は……」
「そう。ありがとう、みんな」
視線を動かすと、そこには二人の魔術師が地面へとへたり込んでいた。
安堵により大きく息を吐くトリス。そして、アメリア以上に大粒の涙を溢し続けるオリヴィア。
「フローラさまぁ……。よがっだでずぅ……」
「オリヴィア……。可愛い顔が台無しですよ」
「ありがどうございます。でもぉ……」
拭けども拭けども、オリヴィアの眼からは涙が零れ落ちる。
彼女はこう見えて、仕事熱心だ。護衛としての責任も感じているのかもしれない。
東へ行けと言ったのは自分なのだから、後でフォローを入れておかなければと、フローラは苦笑した。
「フローラ様……。よくぞご無事で……」
「トリスも、ありがとう」
「一度裏切った私に……。勿体なきお言葉です……」
畏まるトリスの姿を見て、フローラはまたも苦笑をした。
匣に閉じ込められている時の会話から、大方の状況は把握している。
死んだと思われていたトリスが生きていた事も、アルマがビルフレストに見棄てられた事も。
事実、二人はこの島へ現れた。自分を奪還するべく尽力してくれた。
不思議な感覚だが、嬉しかった。
「アルマも。来てくれて、ありがとう」
「姉上……。そんな、元はと言えば僕が……」
もっと早く、ビルフレストの真意に気付けていれば。
三日月島での戦いで、彼女に邪神の『核』を植え付けなければ。
深い後悔に苛まれているアルマは、姉の顔を直視できない。
「それでも、貴方は気付いたのでしょう? 間違っていると。
なら、一緒に償いましょう。いくらでも協力をするわ。
姉らしいこと、何もしていなかったもの。これぐらいは、させて?」
「……っ。あね、うえ……!」
「すぐ泣かないの。男の子でしょう?」
「……はい」
アメリアやオリヴィアと違い、フローラはアルマの涙を嗜める。
正直に言うと、気恥ずかしいのだ。姉弟としての関係は、まだ十分に構築されていない。
だから、思い出を増やすにあたってスタート地点が涙というのは歓迎しかねる。
それこそ、姉のように眩しい笑顔で始めたいと思っていた。
「フローラ様。それと、実は――」
「ええ。解かっているわ」
アメリアの言葉を、フローラはそっと遮る。
言わんとしている事は解っている。まだ感じるのだ。
自分の内で消えた『傲慢』とは違い、外に存在する『傲慢』を。
「……あなたも、私を救ってくれたのですね」
フローラはゆっくりと身体を起こし、『傲慢』と顔を合わせる。
あちこちが崩れ落ちた純白の身体は、例えるなら彫刻のようだった。
儚さと美しさが同居しているその姿は邪神の分体などではなく、天使のように思えた。
「ありがとう、『傲慢』」
「……」
『傲慢』は沈黙を貫く。ただ、慈しむような眼差しをフローラへ向けるだけ。
言葉は必要なかった。適合者を救いたいという願いを、この手で叶える事が出来たのだ。
羨ましいではないか。人間は悪意だけではなく、誰かを救いたいという純粋な願いで力を発揮できるのだから。
自分だって、そうしたい。護りたいものの為に、戦ってもいいはずだ。
無論、悪意に染まる事を受け入れた自分が居るのも事実だ。
偽物が前面に出ている時は、その感情が顕著だった。
けれど、どちらが心地よいかは考えるまでもなかった。『傲慢』は一片の悔いも残してはいない。
悪意に振り回される『生』では無かった。『傲慢』に相応しく、思うがままに生き抜いて見せた。
純白の身体を持つ邪神の分体は、自らを誇りながら現世から消え去った。
ほんの僅か、笑顔のようなものを浮かべて。
「消えちゃいましたね」
「ええ……」
ぽつりと呟くオリヴィアに、フローラは頷く。
物悲しさを残しながら、『傲慢』はその身を散らせた。
心臓に手を当てても変化はない。抑圧が使用できる様子もない。
『傲慢』は完全に、自分の身体から消えたのだとフローラは実感した。
(結局、シンさんが言っていた通りでしたね)
その様子を眺めながら、アメリアは物思いに耽る。
邪神は悪意によって破壊を齎すという役割を与えられた存在。
それどころか、正しき願いに手を差し伸べてくれた。
(ビルフレストさん。貴方は――)
理解したからこそ、アメリアは余計に恐ろしく感じる。
悪意の根源たるビルフレスト・エステレラは、本気で世界を滅ぼすつもりなのか。
底知れぬ悪意を持つ彼を止めなくてはならない。改めて、そう思えた。
「ところで、フローラさまは無事に取り戻せたわけですけど。
これからどうすれば――」
オリヴィアの言葉に含まれている意味を、全員が同時に察する。
元々はフローラを回収し、即座に離脱をする電撃作戦だった。
だが、状況は変わっている。
この場から離れたシンとフェリーが、ビルフレストと接触を果たしている。
二人を差し置いて空白の島から離脱する事に納得をする者など、一人もいなかった。
「……行きましょう。シンさんと、フェリーさんのところへ」
アメリアの瞳に、迷いはなかった。
ビルフレストがこの場に現れないのが理由の全てを現わしている。
シンとフェリーが、まだ戦いを続けているのだと。
彼を斃す事さえ出来れば、全てが終わる。
気迫のみで立ち上がろうとするアメリアだったが、彼女を制止したのはトリスだった。
「私も同意します。が、アメリア様はフローラ様と共にネクトリア号へ戻ってください。
……出来れば、スリットも」
「トリスさん!?」
「本来の目的は達成しました。これ以上無茶をして、フローラ様を危険に晒すわけにはいきません」
思わず声を張り上げるアメリアだったが、トリスは何も間違った事は言っていない。
空白の島へ訪れた目的はフローラの奪還。ならば、まずフローラの安全を確保するべきだと彼女は主張している。
尤も、あくまでそれは建前。
ミスリアからずっと、傷が完治しないまま戦い続けているアメリアをこれ以上戦場へ立たせない為の方便でもある。
「オリヴィアも、出来ればベリアたちを補助してやって欲しい。船を護り続けるのも、限界だろうからな」
「……まあ、意図は理解できますけども」
トリスの言い分は正しくて、オリヴィアも同意せざるを得ない。
彼女もアメリアとフローラの安全を第一に行動したいとは思っていたのだ。
ビルフレストの元へ向かえば、その前提が崩れる可能性は大いにある。
「けど、わたしが行かなくてもいいんですか?」
ただ、一点だけ腑に落ちない。どうして自分ではないのか。
流水の幻影により、正確な位置を把握しているにも関わらず。
「問題ない。空白の島には潜伏していた時期がある、地理は把握している。
私とアルマ様でシン・キーランドとフェリー・ハートニアを回収する」
「いや、それだと探し回るってことじゃないですか。
トリスさん、他に考えてることがあるでしょう?」
「……本当に、よく頭が働くな」
じっと怪訝な視線を向けるオリヴィア。いつもそうだ、自分如きでは彼女を喰う事は出来ない。
これは言わなければ、きっと納得をしてもらえない。トリスは自らの思いを吐き出し始める。
「アルマ様が世界再生の民から居なくなって、多少なりとも悩む者はいると思う。
時間が許す限りで構わないんだ。そういった者たちは、どうにか連れ帰ってやれないだろうか。
きっとここが、やり直す最後のチャンスなんだ」
仲間の多くが倒れ、更には首魁を務めていたアルマさえもビルフレストは切り離した。
いくら現状に不満を持ち、新たな世界で優遇される事を望んだとしても。
疑問を想う者は少なからず存在しているに違いない。トリスはそういった者達に、手を差し伸べたかった。
自分がネクトリア号に拾われて、救われたように。
「……成程。それは確かに、わたしやアメリアお姉さまでは逆効果ですね」
納得。というよりは、彼女の心情を理解したとオリヴィアは後頭部を掻く。
アメリアとフローラへ視線を向けると、二人は頷いている。きっと、ベリア達も断らないと踏んでいるのだろう。
お人好しに舵を切り過ぎている気もするが、元々そういう集まりだと再認識させられた。
けれど、決してオリヴィアも悪い気がしている訳ではない。
それは世界再生の民の戦力を削る事にも、直結をするのだから。
「解りました。では、わたしたちはネクトリア号へ――」
とはいえ、やはり状況の把握はしておきたい。
残る魔力を振り絞り、流水の幻影を使用するべきかオリヴィアが考えている最中。
「させるか、よォ……!」
『強欲』の男が、意識を取り戻す。
アルマによって焼き塞がれた傷口を屈辱の証と捉えながら、彼は立ち上がった。
「アルジェント……!」
「呆れた。まだ戦うつもりですか? こちらはとうに決着がついたつもりなんですけど」
剣を構えるアルマと、魔術の準備を始めるオリヴィア。
アメリアは咄嗟にフローラを自分の手元へと引き寄せ、彼女を護るべく蒼龍王の神剣を抜いた。
「オレっちだってよォ、アンタらと戦うつもりはねェよ……。
ここで多少抵抗をしたところで、ボコボコにされるがのオチだからなァ」
我ながら情けない発言をしていると自嘲するアルジェントだが、状況を正しく認識している。
『傲慢』は消え去り、王女は奪還された。自分もアルマに敗れ、傷は浅くない。
頼みの綱の『強欲』も、顕現していられる時間は僅かときている。
アルジェントには潔く捕まえるという選択肢はない。
他人の上澄みばかり奪ってきた男が、今更底辺を這いつくばる未来を受け入れられるはずもない。
自分以外の存在を見下した上で生きているからこそ、この男は『生』を実感する。
元来の性格に相まって、『強欲』の右腕を通して悪意に染まっている証拠でもあった。
だから、アルジェントはこの場からの離脱を選択する。
屈辱だが、犬死よりははるかにマシだという判断。
尤も、ただでは終わらせない。トリスが求めたものは、決して与えない。
世界再生の民から離れようとした者は、一人残らずマーカスにでも差し出すつもりでいた。
「だがよォ! 思い通りにはさせねェぜ!
トリスっちが救おうとしたヤツら、オレっちが頂いてやる!」
「なっ!? アルジェント、やめろ!」
咄嗟に賢人王の神杖を構えるトリスだが、差し出された右手を前に魔術の放出を躊躇う。
剣を抜いたアルマが彼を止めるべく走る。その進路上に立ちふさがるのは、顕現の限界が近い『強欲』だった。
「やっちまいなァ。『強欲』」
模倣によって生成されるのは、巨大な竜巻。
颶風砕衝が、アルマ達を包み込む。
「やめろ、アルジェント!」
賢人王の神杖を飾すトリスだったが、模倣で造られたものは厳密には魔術ではない。
調和により掻き消す事を諦めた上で、彼女は全力を以て颶風砕衝を破壊した。
「逃がしませんよ!」
拓けた視界。アルジェントは背中を向けている。
今ならば、右手に邪魔をされる事はないと、オリヴィアが凍撃の槍を放とうとした瞬間だった。
自分達の周囲だけではない。
空白の島全体が、異様なまでの圧迫感に覆われる。
「――これは!?」
蒼龍王の神剣を地面に突き立て、アメリアは自らの身体を支える。
抑圧を使用する『傲慢』はもう存在しない。ならば、この重圧の正体は何なのか。
その答えは、その場にいた全員が同時に知る事となる。
「邪神……」
山のように高く聳え立つ巨人を視界に捉えたアメリアは、自然とその名を口にしていた。
悪意を煮詰めたような紋様を身体中に纏い、表面で蠢いている。
三日月島の時とはまるで違う姿であるにも関わらず、邪神なのだと確信をしてしまう。
「オイオイ、空白の島でまた顕現させちまうのかよ」
想定外の状況に、アルジェントすらもたじろいでいる。
全員が邪神の圧迫感に呑まれる中。邪神は、黒い閃光を太い指先から放出する。
一筋の闇は瞬く間に地表を走り、空白の島を分断する。
通り過ぎた先から、魔力による爆発が引き起される。
山が、森が。まるで砂の城を破壊するかのように、爆散していく。
悪意に染まり切ったこの存在は、『憤怒』や『傲慢』とはまるで違う。
解り合えるとは、到底思えないと。皆が絶句する。