405.『傲慢』の暴走
(矛先が、こちらへ……!)
(『強欲』……!)
『強欲』が模倣によって大量の矢を精製した瞬間。
彼女は殺意の断片を受け止めた。
自分へ向けられたものではないと知りつつも、身を護ろうとするのは本能として当然の流れだった。
抑圧を操り、放たれようとする魔力の塊を撃ち落とそうと画策する。
今まで反目しあっていた二人のフローラの意思が、初めて一致した瞬間。
「――っ! 姉上……!?」
魔力の矢はおろか、周囲に存在するあらゆる魔力が抑制される。
突如、鉛のように重くなった自らの肉体にアルマは思わず声を上げた。
「この、重圧は――」
それはオリヴィアやトリス、『強欲』すらも例外ではない。
抑圧による重圧の前にあらゆる存在が跪く。
「『傲慢』が……。いえ、フローラさま……?」
フローラか、偽物か。一体どちらが手動でこの重圧は放たれているのか。
答えを求めるべく顔を上げたオリヴィアは、目の前に広がっている光景に息を呑んだ。
「く、あ……」
「フローラさま……!」
そこに在るのは胸を強く抑えつけ、息も絶え絶えに苦しむ主君の姿。
浅い呼吸と同じ速度で流れていく汗。尋常ではない量というのは誰の目から見ても明らかだった。
「一体、どうして――」
ぽつりと呟くトリスの問いに答えられる者は、誰もいない。
苦しみ、のたうち回るフローラ。抑圧によって動きを封じられたオリヴィア達は、彼女の元へ駆け寄る事すら叶わない。
(想像以上に抑圧の効力が発揮されている。
それに、この肉体が邪神の力に耐えきれていない……!)
肉体に起きた異変。その仔細をいち早く察したのは『傲慢』から生まれた人格である偽物。
自分であるからこそ解る。このか細い身体は、反目しあっていたからこそ秩序を保っていたのだと。
心臓を起点に、身体中に『傲慢』を浸透させていったフローラはこれまでの適合者とは違う。
より強く邪神と結びつく一方で、内側から悪意を張り巡らせている。
主人格であるフローラが閉じ込められた匣は、言わば最後の砦。
彼女が抗い続けていたからこそ、邪神の力自体に抑圧の影響が発揮されていた。
フローラの意志が強かった事もあり、時には力関係が逆転する瞬間もあった。
けれど、その場合は偽物がフローラの放つ抑圧を抑え込んでいる。
結果として、肉体を蝕む速度が抑えつけられる。
二人のフローラは、コインの表と裏のような関係性にあった。
その二人が今、自分へ襲い掛かろうとする脅威に反応を示した。
フローラは単純に、牙を剥く悪意に対抗するべく。
偽物は暴れる『強欲』に冷静な判断が下せるはずもないという合理的思考から。
魔力の矢は、止めなくてはならない。
意見の一致が引き起した抑圧は、これまでとは比にならない威力で放たれる。
枷を失い、周囲を巻き込んでも止められない程に。
「オ、ア……。アアアアァァァ!」
地面に身体を埋めながら、『強欲』は咆哮を上げる。
この状況を打破するべく模倣で様々な者を創り出すが、瞬く間に抑圧によって崩壊させられる。
追撃と言わんばかりに、抑圧は『強欲』の四肢に亀裂が生み出していく。
アルジェントが意識を失った事により魔力の供給が断たれた『強欲』は、自らの崩壊を速めるだけの結果に終わってしまう。
「邪神が倒せるなら……って思いましたけど……。
これ、完全に暴走してますよね……」
儲けものと思いたい所だが、現実はそう甘くない。
重い頭を抱えながら、オリヴィアは眉間に縦皺を刻んでいく。
自らの体内に蓄積されている魔力がこぞって仕事を放棄をする中、彼女は全開した抑圧の能力を目の当たりにする。
体内を駆け巡る魔力や、魔術だけの話ではない。大気中に漂う魔力でさえ、『傲慢』は抑制している。
重力弾が放つ重力とは比にならない圧力が、周囲に存在する全ての活動を否定しようとしていた。
「その、ようだが……。判った所で、どうすればいいんだ……?」
息苦しさに耐えながら、トリスが声を絞り出す。
神器である賢人王の神杖なら或いはとも思ったが、上手く魔力を練り上げる事すら叶わない。
「そのうち収まるなら、いいんですけど……」
自分達が抑圧に耐えきれるなら問題はない。
『強欲』さえ消えてくれればと考えたオリヴィアだったが、直ぐにその考えが甘かった事を思い知らされる。
他でもない。抑圧を放っている張本人の姿によって。
「ぅ、あ……。――――ッ!!」
声にならない悲鳴を張り上げるフローラ。
透き通ったような白い皮膚に浮き上がるのは、血管ともうひとつ。浅黒い紋様。
紋様こそが彼女を邪神の『核』が蝕んでいる証なのだと、オリヴィアは直感した。
「フローラさま……!」
悶えるフローラの姿に居てもたっても居られず、オリヴィアは身を這いずりながらも彼女へと近付く。
だが、一向に距離が縮まらない。近付くにつれ抑圧による息苦しさが増していくだけだった。
(魔力の矢は防いだわ! もういいでしょう!)
心の内側で偽物が声を張り上げる。
このままでは肉体が崩壊してしまう。抑圧を解除するべきだと訴える。
身を護る為に行うべき行動であるにも関わらず、フローラは偽物の申し出を拒絶する。
(でも、そうすれば貴女が皆さんに危害を加えるでしょう?)
(そんなことしません!)
(だったら、貴女が解けば良いではありませんか)
偽物はそれ以上何も言い返さず、黙りこける。
フローラの一言はこの状況の厄介性を的確に示している。
抑圧を解除すればいいだけの話であるならば、偽物だって可能だ。
そうしないのは、肉体の主導権が入れ替わる可能性を危惧しての事。
結局のところ、偽物は自分の為にフローラへ身体を大切にするよう申し出ているに過ぎない。
それを理解しているからこそ、フローラも意地を張り続ける。
例え自分の身体が崩壊をしても、大切な人達をこれ以上の危険には晒せない。
血液のように全身を駆け巡る悪意は、今更反目を許さない。
意思の統率が崩れつつある状況下でも、ただその能力を発揮し続けている。
「つぅ……」
フローラの白い肌に、青痣が作られていく。
負荷に耐え切れなくなった血管が裂けているのは明白で、見ているだけでも痛々しかった。
「フローラさま! それ以上は……!」
「いいえ、私にも……できることがあるなら……。
私だけが、『傲慢』を……」
懇願の表情を見せるオリヴィア。彼女の願いを、フローラはそっと首を横に振り拒絶する。
いつも喰えない様子を見せつけていた彼女が、こんなに懇願するなんて珍しい。
どうせなら、もっとじっくり観ていたいとすら思えてくる。
「姉上……! よしてください……!」
「アルマ……。だいじょうぶ、よ……」
『傲慢』を植え付けたという激しい後悔から悲痛な面立ちをするアルマ。彼に対しては、優しい言葉を掛ける。
今の彼を見れば解る。彼は性根から腐り切っていた訳ではないのだと。
だから、今ならばきっと正しい道を歩む事が出来る。
あまり話した記憶すらもないというのに。フローラは自然と弟を慈しむ姉の姿となっていた。
「フローラ様!」
「トリス。戻って来てくれて、ありがとう……」
リシュアンからも話を聞いた。分家の者が、どれだけの劣等感を抱えていたかも。
一度は見限られたにも関わらず、戻ってきてくれた。トリスには、感謝の言葉しかない。
(不思議ですね。皆さんはもっと過酷な戦いをしていたというのに。
たったこれだけのことでも、辛いと思ってしまうなんて……)
気付けばフローラの目元には、大粒の涙が浮かんでいた。
痛いからはない。苦しいからではない。
自分の犠牲を以て邪神の一柱を斃せる。役に立てると喜ぶ傍ら、もう二度と皆とは笑い合えない。
その事実が辛くて、寂しくて堪らなかった。
けれど、これでいい。せめて『傲慢』だけでも、自分の手で討ち滅ぼす。
ミスリアを、世界を救う礎となる事が出来る。
(皆さん、後のことは頼みましたよ――)
後ろ髪が引かれる思いだが、託せる仲間がいる。
こんなに幸せなことはないと、フローラが自分の運命を受け入れようとした時。
彼女はその結末を否定するべく、声を上げた。
「させません、フローラ様。貴女をお守りするのが、私たちの役目ですから」
「アメ……リア……」
体中に傷を作りながら。息も絶え絶えの、半死人でありながら。
彼女は、アメリア・フォスターはフローラへと歩み寄る。
邪神を断つ剣。救済の神剣を携え、一歩ずつ。
今にも倒れそうな彼女の身体を支えているのは、純白の身体を持つ邪神の分体。『傲慢』だった。
……*
『傲慢』の暴走による影響は、当然ながらアメリアと『傲慢』の元へも訪れている。
神剣の加護を受けているアメリア、『傲慢』そのものである『傲慢』共に能力の影響は受けていない。
だが、異変は確かに存在していた。まだ悪意に染まり切っていない邪神の、精神の内側に。
「……?」
動きを止めた『傲慢』の姿に、アメリアは訝しむ。
満身創痍の自分を痛めつけていた存在と同一とは思えない。何か異変が起きたのだと直感する。
「ア、アァ……」
苦しむように胸を抑えつけ、目線を泳がせる『傲慢』。
その先には、抑圧によって苦しむフローラの姿があった。
彼女へ手を伸ばそうとするが、すぐに引っ込める。
まるで葛藤しているような仕草は、悪意を微塵も感じさせはしなかった。
「一体、どういう……」
これまで邪神の分体と意思の疎通が出来た試しがない。
アメリアは『傲慢』が何を訴えようとしているのか判らない。
けれど、もしも悪意に染まり切っていないのであれば。
一縷の望みを掛けて、アメリアは『傲慢』へと話し掛ける。
「もしかして、フローラ様が心配なのですか……?」
『傲慢』の手が止まる。
ぎこちない動きで、顔だけがアメリアへ向けられた。
駄目だったのだろうかと身構えるアメリアだったが、『傲慢』はゆっくりと頷いて肯定をした。
(邪神が、適合者を心配している……?)
論理的に考えれば、適合者の状態が自身の存在に直結するからかもしれない。
だが、それにしてはあまりにも敵意が、悪意が無さ過ぎる。
「――『傲慢』を……」
遠巻きにも、フローラが語り掛けている言葉の節々が耳に入り込む。
まるでこれから先の運命を受け入れたかのような、哀しい語り。
その言葉に呼応するかの如く、元気を失っていく『傲慢』の姿は不思議で仕方が無かった。
(もしかして、フローラ様が表に出ているから……)
この時、アメリアは可能性に賭けた。
シンとフェリーが、マギアでそうしたように。
後天的に悪意によって染められた存在だと信じたかった。
「あなたは……。フローラ様を、救いたいのですか……?」
邪神の分体が悪意に染まり切っているのなら、全く意味を成さない質問。
それでも、訊かずにはいられない。可能性がそこにあると思ってしまったから。
『傲慢』は逡巡した後に、首を縦に振る。
それが「どう答えるか」という迷いではないと知ったのは、直後の『傲慢』が手を広げて見せたからだった。
「これは――」
広げられた純白の掌には、亀裂が走っていた。
ぽろぽろと欠片が落ちていき、『傲慢』の肉体が崩壊しようとしているのだとアメリアは察する。
肉体のバランスが崩れ、その身を蝕んでいるフローラと同様だった。
心臓送り出される血液に混じり短期間で全身に浸透したからこそ強くなった接続は、『傲慢』の身には弊害となって現れる。
それでも『傲慢』は、フローラを救う為に動いている。
適合者である彼女がそうであるように、自分も誰かの力に成りたいという想いが伝わった結果。
アメリアは白く、しかし亀裂の入った掌をじっと見つめる。
冷静に考えれば、罠である可能性を考慮しなくてはならない。
けれど、どうしても罠だとは思えなかった。
大前提として、自分は死に体だ。
態々隙を見せなくとも、普通に戦って勝てる可能性の方が高い。
次に、『傲慢』が司るものは『傲慢』。
狡猾な罠に嵌めるタイプだとは思えなかった。
無論、これは全てアメリアの憶測に過ぎない。
アメリアだってフローラを救いたくて仕方がない。目の前の可能性に縋っているだけかもしれない。
ただ、希望が示されたのも事実だった。
このまま『傲慢』との戦闘を続行する理由が、アメリアの中では急速に失われていく。
「――分かりました。私も、フローラ様を救いたいのです。
力を……貸してもらえますか……?」
アメリアの問いに、『傲慢』は頷く。
純白の顔に浮かんだ表情は、心なしか微笑んでいるように見えた。