403.王子と友人
身体が寒い。視界が霞む。頭が重い。
近くで響き渡る轟音ですら、素通りしていく。
それでも、やるべき事だけははっきりと視えている。
満身創痍の身体に鞭を打ちながら、アメリア・フォスターは神剣を構える。
眼前に立つ邪神の分体。『傲慢』と、それを操る『傲慢』の適合者を見据えて。
魔術は使えない。使用した途端に、拡張によって暴発させられる。
仮に拡張を逃れたとしても、抑圧の前に封じ込められてしまう。
邪神の力を断つ、救済の神剣。蒼龍王の神剣。
神剣の加護を受けているという事が、アメリアにとっての生命線であった。
同時に、これは自分が成さねばならない使命。
『傲慢』は、『傲慢』は、自分が断たなければならない。
傷口が開こうが、命が風前の灯だろうが、関係ない。アメリアが剣を下げる理由にはならない。
「貴方は、どうしても戦わなくてはならないのですか?」
刃の切っ先を向けながら問いかける先には、『傲慢』が居た。
純白の身体を持つ邪神の分体は、初めこそ穢れを知らない存在にも思えた。
背景にシンとフェリーがマギアで体験した話を聞かされた影響があった事は否めない。
『憤怒』の中から救い出そうとした純白の子供は、どうしても眼前の『傲慢』と重なって見える。
悪意によって生まれた存在であり、決して悪意そのものではない。
性善説を信じているアメリアは、どうしてもその可能性を否定したくはなかった。
何より、彼女は『傲慢』に適合したフローラから顕現した存在。尚更、善意を信じたくなっていた。
けれど、悪意は容易く彼女の期待を裏切る。
純白の身体は彼女の返り血で、赤く染まっていく。
禍々しく裂けた口元は、悪魔のようにしか見えない。
「――イヒィ」
現に『傲慢』は、今も歪んだ笑みを浮かべている。
殴りつけた肉の感触が病みつきになってしまっている。
とても説得に応じる存在には、見えなかった。
「っ……」
それが答えなのだと、アメリアは思い知らされた。
シンのように上手くは行かない。戦うしかないのだと、蒼龍王の神剣を構える。
アメリアと『傲慢』の双方が行動に移したのは、ほぼ同時だった。
「――っ!」
霞んだ眼に純白の身体は毒だと思い知らされる。
身体がぼやけて、『傲慢』の動きが捉えきれない。
元より痛みで鈍りつつある身体の反応が、更に遅れる。
容赦なく繰り出される『傲慢』の拳は、アメリアの脇腹を捉える。
激しい痛みと不快感が、彼女の身体中を駆け巡る。肋骨が折れたのは明らかだと、感触だけで察した。
それでも、『傲慢』が自分の身体に触れているという事実はアメリアにとって大きかった。
今の自分では動きを捉えきれない。狙うは必然的に、相打ち覚悟の交差法となる。
「そこ、ですね……」
息も絶え絶えの中、アメリアは『傲慢』の腕を脇に抱えた。
それが何を意味するのかを理解した『傲慢』は、腕を抜こうと躍起になる。
力の入らないアメリアでは、『傲慢』を抑えきれはしない。
だが、邪神の分体が逃げるよりも速く。蒼龍王の神剣は、邪神の身を斬り裂いた。
「――アアアァァァァァ!」
純白の身体に一筋の線が走る。『傲慢』の悲鳴が、周囲に響き渡った。
開いた傷口からは何も漏れ出しはしないが、確実に傷を与えているという証明としては十分だった。
肩口に刻まれた傷を抑えつけながら、『傲慢』は怨嗟の表情をアメリアへと向ける。
尤も、彼女自身は邪神の放つ怒りに気付く余裕すらも無かった。
(浅い。これでは先に限界を迎えるのは、私の方ですね……)
激痛の走る脇腹に手を添える。痛覚以外はもう、何も判らない。
無茶な攻防を繰り広げた先に待つのは、『死』だと思い知らされた。
(アメリア! 無茶はよして!)
(ええい、もう! 大人しくしておいてください!)
アメリアの戦いを肉体の内側から覗いているフローラは、またも感情が強く揺さぶられる。
その度に偽物が心の匣を閉ざそうと必死になるが、知った事ではない。
むしろフローラは、強い怒りを覚えている。大切な存在を傷付けられた事実は、彼女に強い精神的負荷を与えていく。
湧き上がる感情を内部で爆発させようとするフローラ。
自らが持つ肉体の主導権を護る為に、その感情を締め付けようとする偽物。
ひとつの身体にふたつの精神が入り混じり、互いが反目し合う状態。
ましてや、元を辿れば同一の精神から生まれている。
拮抗する力はぶつかり合い、反動がフローラの肉体に影響を及ぼそうとしている事に気付いている者は、まだ存在していなかった。
……*
「アルジェント! もう下がるんだ!」
二人のフローラが主導権を奪い合う中、抑圧は自ずとその効力を弱めていく。
魔力による身体能力の強化を取り戻しつつあったアルマは、次第にアルジェントを圧していく。
「下がれだァ? おいおいおいおい、寝ぼけんなよォ!
オレっちはもう、アルマっちと敵同士だっての理解しろよォ!」
アルマの物言いが癪に障ったのか、アルジェントは顔を引き攣らせる。
撤退はあり得ない。状況的に見ても、まだ自分達は不利ではない。
この状況を下がってしまえば、ビルフレストの怒りを買うのは明白だ。
「そうだとしてもだ! 僕は君と友で居た!
無闇に命を奪うような真似はしたくない!」
その一言は、更にアルジェントの怒りを加速させる。
上澄みを奪い、他者を見下して生きていた男は、他者に見下される事を極端に嫌っていた。
炸裂の魔剣を一層強く握りしめながら、刃をアルマへと向ける。
「よくもまァ、そんな口が叩けるもんだなァ!
自分の父親すら、殺したクセによォ!」
アルマの心の傷に塩を塗り込む一言。
彼は世界再生の民に在籍していた頃から、父を手に掛けた事を悔いている。
知っていながら、彼は投げかける。互いの関係はとうに破綻しているのだと言わんばかりに。
「っ……! 判ってる、僕は間違っていた。
だけど、もう間違いたくないからこそ言っているんだ!」
沈痛な面立ちで、アルマはアルジェントの言葉を受け止めた。
今更、どう足掻いても変わらない過去。向き合わないといけない『罪』。
どんな罰が待ち受けていたとしても、逃げるつもりはない。
だからこそ、斬るべき相手は正しく見極めようと誓った。
友としての情があるからこそ、まだ斬りたくはなかった。
魔術金属の剣が、アルジェントの持つ炸裂の魔剣を弾き飛ばす。
自らの頭上で握っていた魔剣が手から離れた瞬間。アルジェントは魔剣を即座に諦める。
代わりと言わんばかりに、瑪瑙の握手に札が握られる。
危険を察知したアルマが札を弾こうと試みるが、発現の方が僅かに速い。
「――ぐうっ!?」
中から現れたのは、先刻オリヴィアの放った凍撃の槍。
抑圧の影響下でありながら押し固められた氷の矢が、アルマへと襲い掛かる。
「形勢逆転だなァ、アルマっち!」
身体の表面が氷で覆われるアルマを尻目に、アルジェントは再び札を取り出した。
出現したのは新たな魔導具。風の魔術を取り込んだ短剣が、瑪瑙の右手に握られる。
突き出された短剣を、剣の腹で受け止めようとするアルマ。
しかし、魔術付与された風が幾度となく消耗した魔術金属を削り取っていく。
僅かに付けられただけの孔は次第に広がっていき、ついには剣そのものを根本からへし折っていた。
「ぐ、ぅ……!」
魔術金属を砕いた勢いそのままに、風の魔術はアルマの身体目掛けて襲い掛かる。
胸当ても剣同様に削り取られてしまうだろう。そうなる前に、アルマはこの状況を打破しなくてはならない。
「させないぞ、アルジェント……ッ」
身体の向きを逸らし、心臓への直撃を避けるアルマ。
自身の胸当てに、深く抉られた後が刻まれていく。
「しぶてェんだよォ!」
舌打ちをするアルジェント。
すぐにでも軌道を変更したいところだったが、彼の心臓を一突きにする思いで全体重を乗せている。
急な方向転換が利かない中、短剣はアルマの思う通りに動く外なかった。
「君こそ、退いてくれればよかったんだ!」
抉られた胸当てと、通り過ぎる際に自身の左肩を巻き込んでしまったアルマ。
それでもこの勝機を逃すつもりはない。肉が抉られる激痛に耐えながら、彼は天空へ手を伸ばす。
自らがアルジェントの手から弾き飛ばした炸裂の魔剣をその手に掴み、勢いのままに振り下ろした。
「ん、だとォ……」
肩口から腰に掛けて、アルジェントに線が刻み込まれる。
生身の左手で触れると、粘り気のある赤い液体が手を染めていく。
ぶちまけた絵の具のような自らの赤い血を前にして、アルジェントは自嘲するように笑みを浮かべた。
「アルマっちよォ。やって……くれんじゃねェか……」
因果応報とでもいうべきか。
他者の上澄みを奪って生きていたアルジェントからすれば、受け入れ難い現実。
接収五によって掠め取った魔剣。炸裂の魔剣によって、自らの身が裂かれるという事実は皮肉でしかなかった。
鮮血を地面というキャンパスに塗りたくりながら、アルジェントは前のめりに倒れる。
出来上がった作品は贋作ではない。けれども、これが他者に評価されるものではないというのは誰の眼から見ても明らかだった。
「アルジェント……。すまない……」
アルマはうつ伏せに倒れたアルジェントの身体を、そっと起こす。
べったりと赤く染まった身体に、確かな鼓動を感じる。
彼の心臓はまだ動いている。肺が空気を取り込んでいる。
失血により意識を失ってはいるが、アルジェントはまだ生きていた。
自分は父に続き友人を手に掛けていないと安堵する一方で、アルマはまたも決断を強いられる。
恐らく、アルジェントは世界再生の民を離れる事はないだろう。
きっとまた、敵として自分達の前に立ちはだかる。
ここで命を奪うべきなのではないかという考えが、脳裏を過った。
語った友情が真実だったと、行動で示すべきか。
ミスリアの、世界の為に邪神の適合者を殺すべきか。
助言をしてくれる者はいない。そして、仲間はまだ戦闘を繰り広げてる。
このまま放っておけば、アルジェントは死ぬかもしれない。
決断までの猶予は、残されていなかった。
「アルジェント。僕は――」
……*
短いながらも、アルマなりに十分悩んで出した答え。
それは、彼の命を奪わないという選択だった。
アルマは治癒魔術を使えない。オリヴィアやトリスに頼んでも、使ってもらえるとは思えない。
だから、応急処置と止血だけを施す。空白の島へ来るまでの間、シンに色々話を聴いていたのが功を奏した。
気にはなっていたのだ。シンがどのようにして、サーニャに応急処置を施すつもりだったのかと。
傷を焼いた結果、アルジェントの胸の傷痕は残るだろう。
彼からすれば、屈辱でしかないかもしれない。
それでもアルマは、可能性だけは残したかった。
また再び、友人として笑い合える可能性を。
「次に逢った時は、きちんと話せるといいんだが……」
半ば叶わないと思いつつも、アルマは自らの持つ願いをぽつりと呟く。
だが、次の瞬間には彼の顔立ちは戦士のものへと変わっていた。
感傷に浸っている暇はない。アルジェントが生きているからか、『強欲』はまだ暴れている。
オリヴィアとトリスの。そして、単独で『傲慢』と戦うアメリアの加勢をしなくてはならない。
アルマは魔石を失った炸裂の魔剣を硬く握り締めながら、力強く大地を踏みしめた。