400.悪意に目覚めた日
法導暦0489年。
今から28年前のある日。
その日は、嵐に見舞われた一日だった。
天候だけではなく、ある親子にとっても。
「~~っ。まだか、まだなのか!?」
エステレラ家の当主。サルフェリオ・エステレラは何度もその言葉を繰り返しては、絨毯に足跡を刻み込んでいく。
妻が産気づいて早三時間。待望の嫡子とはいつ対面できるのかと、心待ちにする一方で不安に駆られてた。
ミスリア五大貴族の一家。エステレラ家を継いでからというものの、サルフェリオの心が休まる日は無かった。
周囲の優雅で優秀な人間に囲まれる毎日。自分も育ちは似たようなものだとしても、持っている器が違う。
永遠に埋まらないであろう差を、無意識に感じ取っていた。
心が折れてしまいそうだった。
けれど、自分は決して一人ではない。妻が居る。子が生まれようとしている。
サルフェリオを支えていたのは、家族に対する確かな愛情だった。
赤子だけではない。身体の弱い妻は、耐えられているのだろうか。
母子共々、無事に顔を見せて欲しい。他には何も要らない。
サルフェリオは、ただそれだけを求めた。
「旦那様。落ち着いてください」
「あ、ああ。そうだな……」
侍女に諭され、サルフェリオは椅子へ腰を下ろす。
深呼吸もしてみるが、やはり落ち着かない。手足は勿論、歯の根すらカタカタと震えていた。
「頼む。頼む……」
祈るように組んだ手へ、自らの頭を預ける。
圧し掛かる重さは与えられた責任よりもずっと軽いのに、力を込めなくては支えられない。
これが自分の限界なのだと、思い知らされているようだった。
(駄目だ。私がこんなに弱気では、合わせる顔がない)
サルフェリオは身体が弱いにも関わらず、差し迫る大仕事に強い気持ちで臨んだ妻の姿を思い出す。
漠然としているから、不安になるのだ。
妻も言っていたではないか。子が産まれた後、どうしたいか考えて置いて欲しいと。
(私の子だから、あまり気が強いタイプではないかもしれないな。
だが、それでも構わない。健やかに育ってさえくれれば……)
サルフェリオは生まれてくる子に多くを望むつもりはない。
ただ、良いものだったと思えるような人生を歩んでほしい。
遠慮なく、そう口に出来る人生で居て欲しい。
そんな人生が歩めたなら、自分も妻も間違いなく幸福だろうと自信を持って言い切れる。
(……いや、私が絶対に幸せにしてみせる。
幸いにも、もう友人が出来ようとしているではないか)
徐に顔を持ち上げては、サルフェリオは強く頷く。
今宵、エステレラ家で新たに生まれようとする命はひとつではなかった。
仕えている侍女の娘が、新たな命を授かっていた。
遠く離れた地から単身ミスリアを訪れた彼女には、頼れる身寄りが近くに存在していない。
妻も話し相手が欲しいという事で、侍女としては暇を貰いながらも屋敷の中で共に過ごしている。
そして彼女の子もまた、今日という日に産声を上げようとしている。
これはもう、偶然ではない。神が齎した奇跡ではないかとさえ思う。
(身分なんて関係ない。同じ日に同じ場所で生まれてる、双子のようなものだ)
願わくば、二人が無二の親友となれるように。
どんよりとした雨雲を突き抜け、神にまで届くように。サルフェリオは強い祈りを捧げた。
サルフェリオの願いとは裏腹に、その日産声を上げたのはひとつだけだった。
それがエステレラ家を、魔術大国ミスリアの歯車を狂わせ始めるとは誰も知る由は無かった。
一人の侍女を除いて。
……*
その女は、侍女として半人前だった。
けれど、誰もが彼女を支えた。努力家であり、愛嬌もあった彼女を周囲は支えた。
仕えた先がエステレラ家だったのも幸いしたかもしれない。
フォスター家同様、特に待遇が良い貴族の家として評判だったのだから。
尤も、ミスリア五大貴族の中では発言権はそう高くない。
当時はミスリアが管理する三本の神器を、両家共に有していなかったからだ。
故に当主達は苦労していたのかもしれないが、それは彼女の知るところではない。
彼女自身は良い所に仕える事が出来たと、常々思っている。
他の名家ならば、素性を根掘り葉掘り探られる事もあると侍女仲間から教えられた。
誰しも知られたくない秘密がひとつやふたつある。女の場合は、それが人一倍大きかった。
素性の知れない女を雇ってくれただけでなく、更には出産まで世話をしてくれている。
感謝してもしきれない。だからこそ、女は身を粉にしてもエステレラ家へ尽くすつもりだった。
この日が訪れるまでは。
……*
「~~っ!」
声にならない声を上げているのは、サルフェリオの妻。
子宝に中々恵まれず、漸く授かった子と対面すべく、未体験の痛みに耐えている。
「奥様、頑張ってください……!」
「え、ええ。あなたも……っ!」
同じくベッドに横たわる侍女と顔を見合わせながら、うっすらと笑みを浮かべる。
見たような立場であるからこそ、互いを鼓舞しあう事で絆を深めていた。
助産師の声を頼りに、サルフェリオの妻は我が子をこの世界へ迎え入れようとしている。
皆がずっと祝福してくれている。待ち望んでくれている。
絶対に失敗は許されないという重圧と緊張感が、彼女を襲う。
責任感は疲労という形で彼女を蝕む。思いとは裏腹に、彼女の精神と肉体はとうに限界を超えていた。
「……奥様!?」
助産師が声を上げる。限界を超えたサルフェリオの妻は、意識を失っていた。
緊張感が部屋中に轟く中、助産師だけは冷静に事を進めていく。
こんな経験は初めてではない。何も心配をする事はないと、侍女へ不安が伝播するのを防ぐ。
けれど、襲い掛かる不幸はそれだけではなかった。産まれて来ようとする子は、逆子だった。
「……そんな!」
冷静さを保とうとしていた助産師から、声が漏れる。
よりにもよって。どうしてなのか。いくら毒づいても、状況は変わらない。
サルフェリオの妻は意識を取り戻さない。絶体絶命の状況の中、助産師は持てる力を全て出し尽くした。
だが、誰もにとって幸せな結果を手にする事は出来なかった。
産まれて来た子は、この世界の空気を知る事が無かったのだから。
まだ意識を取り持出さない彼女がこの事実を知ったら、きっと落胆してしまうだろう。
それだけならまだいい。自分を責めるかもしれない。どうして意識を失ってしまったのかと。
サルフェリオにだってそうだ。どう伝えればいいか解らない。
彼の性格上、妻を責めるような真似はしないだろう。
だからこそ余計に、彼女が傷付く。そこまで、考えが至らないとしても。
「つ、ぅ――ッ!」
頭を抱える助産師だったが、考える時間は与えられない。
もう一人の妊婦である侍女の子が、間も無く生まれようとしている。
せめて彼女の子だけでも。この瞬間は、確かにそう考えていた。
間も無く、元気な男の子が屋敷に産声を轟かせる。
安堵の表情を浮かべる侍女を尻目に、サルフェリオの妻が意識を取り戻そうとしていた。
「……赤ちゃん! 私たちの子は!?」
我に返ったサルフェリオの妻は、部屋中を見渡した。
視界に捉えたのは、助産師が抱く一人の赤子。
まだこの世界を何も知らない、穢れなき存在が産声を上げている。
「……っ」
助産師は言葉を詰まらせる。
彼女の眼差しは、間違いなく自分の子供であると信じ切っている。
「産まれたのか!?」
真実をどう伝えるべきか考えが纏まらない中。更に助産師の精神は追い込まれてしまう。
扉の向こうから聴こえるのは、勢いのついた足音。
産声を耳にしたサルフェリオが、使用人を引き連れて押し寄せようとしている。
「……あ、あの」
侍女が声を漏らすと、助産師は身体を強張らせた。
彼女が何を伝えようとしているのかは解っている。けれど、幾重にも重なった期待を裏切る事実を皆に伝える勇気がない。
――許してくれ。
助産師の口がそう動いたのを、侍女は見逃さなかった。
どうして言葉にして発さないのか。その意味を理解した時には、既に一線は越えられていた。
「ええ。元気な男の子ですよ、奥様」
助産師は侍女の子を、エステレラ家の夫妻へと差し出す。
同時に伝えられたのは、侍女の子が死産だったという残酷な言葉。
「――っ!!」
自らがお腹を痛めて産んだ子が、祝福を受けている中。
侍女は全身の毛が逆立つのを感じていた。
憎悪が、怒りが抑えられない。
それはエステレラの子だと偽った助産師に対してでもあり、その場で声を張り上げられない自分に対しても。
この瞬間から、侍女の女の心を闇が覆い尽くす。
或いは、必然だったのかもしれない。彼女が誕生した背景を考えると。
……*
産まれた子はビルフレストと名を与えられ、健やかに育っていった。
世話を申し出たのは、本来の母である侍女の女。
十分に経験を積んだ者に任せたかったサルフェリオだが、妻の願いもあり彼女を願いを聞き入れる。
同じ日に生まれるはずだった子が死産に終わったという気持ちを汲んでの事だった。
侍女の女は、ビルフレストにこれ以上ないまでの愛情を注いだ。
ビルフレストは聡明な子であり、それが主人と使用人を超えた感情である事は勘付いていた。
けれども、その理由は最後まで判らなかった。
結果としてビルフレストは、二人の母に見守られながらその才覚を存分に発揮していく。
剣も魔術も。学問さえも容易く学んでいく彼の姿は、日に日にミスリアで注目を集めるものだった。
まさか自分の子がこれほどまでとはと、サルフェリオは目を丸くする。
産まれる前は重荷を背負わせてはいけないと考えていたというのに、そんな事も忘れて大きな期待を寄せていた。
水面下で運命が変わったのは、ビルフレストが15歳になった日。
ミスリアでは、15歳から成人として扱われるようになる。
侍女の女はこの日、彼の人生を大きく変えた。
……*
「どうかしたのですか? 話があるだなんて」
盛大な誕生日パーティを終え、ビルフレストは侍女の女と二人きりとなる。
この頃のビルフレストは、周囲の熱意とは対照的に非常に冷め切った少年だった。
面白くもなんともないパーティを終え、一刻も早く休みたい。
けれども、不思議とこの侍女だけは邪険に扱えない。幼いころより愛情を注いでくれていたと、知っているからだろうか。
だが、その答えも適当ではない気もしている。
両親とて愛情を注いでくれているが、むしろ煩わしいとさえ思ってしまっているのに。
どうして彼女だけがと思案を深めている中、侍女の女は口を開いた。
「ビルフレスト様。いいえ、私の可愛い息子」
侍女の言葉に、ビルフレストは眉を顰めた。
彼女は確かに、自分の事を「息子」と言った。決して比喩表現ではないと、真剣な瞳が物語っている。
「私が、貴女の……? では、私と同じ日に生まれるはずだった子は――」
「話が早くて、助かるわ」
形式として訊き返してはいるが、ビルフレストは既に粗方の事情を汲み取っていた。
愛する我が子の察しの良さに笑みを浮かべつつも、侍女の女は続けていく。
「そう。あの日、貴方を産んだのは私。旦那様と奥様の子ではないの」
「……私に、この地位を棄てて貴女の下へ来いと?」
もうずっと共に過ごしているのに。
このタイミングで母親と名乗り出る理由をビルフレストは尋ねる。
自分が優秀だったから、ミスリアでの地位が約束されているから。
だからせめて、その幸福を少しでも享受しようという浅ましい考えなのだと、初めは思っていた。
「いいえ、違うわ。貴方はビルフレスト・エステレラでいた方が幸せでしょうから。
私はお母さんよ。愛する我が子の幸せを、邪魔しようなんて思わないわ」
しかし、侍女の女はそんなものに興味が無かった。
ただ伝えたかったのだ。自分が母親だという事を。そして、彼が何者であるかを。
「ならば、このような告白をしない方が良かったのではないですか?」
口ではそう言いながらも、ビルフレストは「幸せ」という言葉に苛立ちを覚えていた。
何を以て「幸せ」と定義するのか、彼は15年経っても答えを出せていない。
自分に期待をするのは良い。けれど、周囲の人間が喜ぶ事に言いようのない不快感が纏わりつく。
どうしてこうも虫唾が走るのかという疑問を抱きながらも、ビルフレストは周囲の期待に応え続けていた。
きっと自分は神経を擦り減らしながら生きて行く。彼が自らの人生に折り合いをつけようとしていた頃だった。
「けど、気持ち悪いでしょう? 人間がこうも、幸せな日々を送っているのが」
「……っ」
心の内を見透かされたような発言を前に、ビルフレストは言葉を失った。
そんな素振りを見せた覚えはないのに、彼女は自分を知っている。そう思わせるには、十分すぎる言葉だった。
「私もなの。貴方ほど優れている訳でもないし、こうやって侍女として生きて行くしか出来ないのだけれど。
やっぱり、気持ち悪いと思ってしまうの。血の影響って、恐ろしいわね」
「……どういう意味なのですか?」
ビルフレストは最早、彼女を母だと疑うような真似はしなかった。
誰よりも自分の心情を理解してくれている彼女が、何を語ろうとしているのか。それだけを、待ち望んでいた。
「そうね。私もはっきりと見たことはないわ。だって、500年以上も前に死んでいるのだから」
500年前。何が起きたかなど、思い返すまでもない。
ドナ山脈の向こうから攻めて来た魔族が、人間と争っていた。
彼女が敢えて、そんな昔の話を持ち出す理由。
否が応でも、彼の脳裏にある可能性が浮上する。
「私は人間を支配しようとした魔族の王。その魔王と人間との間に産ませた子の血を引いているわ。
勿論、私の子である貴方も」
「……なんですって?」
目を見開くビルフレストを前にしながら、女は次々と言葉を紡いでいく。
まるで息子へ絵本を読み聞かせるかのように。人間達が隠し通してきた話を。
それはビルフレストの学んだ歴史とは全く異なるものだった。
敵対する全ての魔族が滅んだ訳ではない。中には、倒しきれず封印された者もいる。
吸血鬼族などは、今もきっと王の復活を目論んでいるのではないかと彼女は語った。
彼女の言葉を一字一句聞き漏らさぬようにと、いつしかビルフレストは真剣に耳を傾けていた。
「ありがとう。私の話を、黙って聞いてくれて」
ひとしきり話し終えた後、侍女の女は満足そうに微笑んだ。
ビルフレストの反応を待たずして、彼女は徐に背を向ける。
「屋敷から、去るおつもりですか?」
「ええ。今まで我慢してきたけれど、もう母だと伝えてしまったからね。
もう、貴方をエステレラ家の子として接するなんて出来ないもの。
……私ね、初めはそんなに人間のことが嫌いじゃなかったのよ。
ご先祖様に比べれば人間の血の割合は増えていくし、当然だと思ってたのだけど。
駄目ね。貴方を奪われた瞬間、人間がどれほど醜いものかって思い知っちゃった。
数や、ただ継いだだけの家督で他者の尊厳を塗り潰していく。気持ち悪い存在だって、思っちゃったのよ。
それでも、貴方の成長だけは見届けたかったから我慢したけれど。
最後に全てを話したのは、私の自己満足よ。でも、見ていて分かったもの。私と同じだって。
この話をしたことは、一切後悔していないわ。たとえ、貴方に恨まれたとしても」
最後の一言はとても身勝手なもの。けれど、だからこそ本心が詰まっているのだと思わされた。
気付けばビルフレストは、去り行こうとする彼女の手を取っていた。
母と子が、再び顔を見合わせる。
「お待ちください。私も、そうでした。弱者を平然と虐げる強者が気に入らない。
そして、それを受け入れることが当然だと思っている負け犬根性の染みついた弱者も。
とどのつまり、私は人間そのものが気に入らないのです」
ビルフレストは知っている。五大貴族といえど、分家の扱いは悪い。
汚れ仕事をさせられている場面を、何度も目撃してきた。それを知らない上澄みの人間にも、反吐が出る。
自分がまだ精神的に未熟だから、折り合いがつかないのだと思っていた。
けれど、違う。抱いているこの感情は嫌悪だ。人間そのものが嫌いなのだと、改めて認識をした。
それを教えてくれた母を、彼女をこのまま手放してはならない。
直感だが間違っていないと、ビルフレストは確信している。
「共に叶えましょう。我らが先祖の悲願を。
一度壊してしまいましょう。人間の造り上げた、この薄汚い世界を」
ビルフレストの眼差しは真剣そのものだった。
自分の話を受け入れてくれた事以上に、自分を必要としてくれた事実が、女にとっては何よりの褒美だった。
「いいわね。息子と共に何かを成し遂げるのも、憧れていたのよ」
法導暦0504年。男は自らの底に眠る悪意を自覚した。
世界を震撼させる事件が起きるのは、それから13年後となる。