397.相容れぬ者
「いったたた……」
あちこちに痣と擦り傷を作りながら、フェリーは傷口を掌で摩っていく。
この程度なら間も無く治るだろうが、痛い事には変わりない。
「まさか落ちるなんて、思ってもみなかったよ……」
『暴食』に押し込まれるよう突き抜けた壁。
その向こう側に足場は存在していなかった。邪神の分体と共に、フェリーは急な斜面を転げ落ちていく。
空中にも関わらず、そのまま構わず襲い掛かる『暴食』に対して、フェリーは咄嗟に魔導接筒を接続した。
連結した魔導刃・改から放たれる、氷の柱が物理的に『暴食』を押しのける。
尤も、フェリーとて身体が固定されている訳ではない。反動として、魔力を通す度に自らの形は後方へと飛ばされていく。
斜面が分岐した結果、フェリーと『暴食』は互いの姿を一度見失う。
すぐ傍にいる。必ず再び相まみえるという緊張感だけを残して。
「そうだ! オリヴィアちゃん、だいじょぶ?」
思い出したように、フェリーが自らの手をポンと叩く。
あまりに必死だったが、オリヴィアとだけははぐれてはならない。
そう考えた彼女は、咄嗟に掌サイズのオリヴィアを服へと潜り込ませていた。
ただ、彼女自身が急な斜面を転がり落ちている。
無事でいるだろうか。それ以前に、はぐれたりしていないだろうか。
一抹の不安が、フェリーの脳裏を過った。
「あ、はい。おかげさまで」
フェリーの心配をよそに、胸元から声を出す少女。
流水の幻影により造られたオリヴィアの分身が、声を上げた。
「よかった……」
「ええ、そうですね」
安堵のため息を吐くフェリー。
その一方で、オリヴィアは複雑な表情をしていた。
……*
灼神を松明代わりに、フェリーとオリヴィアは洞窟の中を歩み進めていく。
シンの元へ戻りたいと思ったが、転げ落ちた斜面は想像以上に角度が付いている。
距離も相当だ。容易に登る事は不可能だと、壁のように聳え立つ斜面が語っているようだった。
「ごめんね、オリヴィアちゃん。あたしのせいで、フローラさんが……」
「さっきも言ったじゃないですか。あれぐらいの火傷なら、治癒魔術で治せますから」
「うん……」
フォローの言葉を送るオリヴィアだったが、フェリーの顔は浮かない。
きっと彼女の精神的外傷に触れてしまったからだ。
自分の意思とは関係なく、ただ魔女の思うがままに敵を焼き尽くす。
それがたとえ、宿主であるフェリーにとって何より大切なものだったとしても。
「だったら、全部終わったらフローラさまに訊いてくださいよ。きっと、怒ってませんから」
太鼓判を押すようにして、フェリーの肩でオリヴィアが何度も頷く。
常に一緒に居る自分が言うのだから、間違いない。だから、心配しなくてもいい。
なんなら、感謝をしているかもしれない。自分の身体を操る不届き者に、一杯食わせたのだから。
「……うん」
彼女なりの気遣いを感じたフェリーは、ゆっくりと首を縦に振った。
オリヴィア自身が分身で小さいからか。怒りを感じさせないその姿に、フェリーは安堵した。
一方で、今までとは違う現象に胸騒ぎがしているのも事実だった。
カランコエの時は、はっきりと自分の意識は存在していなかった。
当時はまだ内に潜む魔女を把握しておらず、この10年で顔を出す事も無かった。
だからこそ、シンと共に当てのない旅を続けていた。
けれど、今は違う。心なしか、魔女が活発に動いているような気がする。
一度認識をしたからなのか。他に理由があるからなのか。
『嫉妬』が見せたイリシャの姿は、何か関係があるのか。
フェリーには解らない。ただ、その話をした時にシンとイリシャは異なる反応を見せた。
表情を変えずに「そうか」とだけ呟くシンに対して、イリシャは目を見開いていた。
本当はもっとゆっくり話すべきだったのかもしれないが、時間が許してはくれなかった。
空白の島から帰った時に、その真意は訊けるのだろうか。訊いていいのだろうか。
「……リーさん。フェリーさん!」
「え? あ! ご、ごめん! ボーっとしちゃってた……」
自分を呼ぶオリヴィアの声で、フェリーは我に返る。
肩で首を傾げる彼女に対して、愛想笑いを浮かべた。
「気を付けてくださいね。邪神の分体は、きっと近くにいるんですから」
「うん、そうだよね。……そっちに、集中しなきゃだよね」
オリヴィアの言う通りだった。
自分の事ばかりにかまけている余裕はない。フローラを連れて帰る事が目的なのだから。
その為にも脅威となるビルフレストと『暴食』を抑えなくてはならない。
少なくとも、空白の島の離脱を邪魔されない状況が求められていた。
「オリヴィアちゃん。そっちの戦いは、どうなってるの?」
「それは――」
せめて状況を把握しておきたい。
フェリーがオリヴィアに現況を教えてもらおうとした、その時だった。
「っ!」
「オリヴィアちゃん?」
流水の幻影により造られたオリヴィアの身体に、ブレが生じる。
一瞬ではあるが、水に戻ろうとする様をフェリーの眼は捕らえている。
「すみません。ちょっと、余裕なさそうです。『強欲』が――」
「オリヴィアちゃん!」
丁度この時。オリヴィアの下に『強欲』の適合者であるアルジェントが姿を現した。
度重なる負荷が祟り、ついにオリヴィアは流水の幻影の解除を余儀なくされる。
間も無く流水の幻影が解除され、フェリーの肩を濡らした。
『強欲』という言葉だけを残して。
「『強欲』って……」
フェリーは『強欲』の存在を思い出す。クスタリム渓谷で戦った、人を嘲るような笑みばかり浮かべていた男だ。
先日のミスリアでも存在は確認できた。尤も、フェリーが駆け付けた時には一度戦闘不能になっていたが。
訊けばオリヴィアが魔術を駆使して一蹴したというのだから、驚いた。
彼の持つ瑪瑙の右腕は、魔力を扱う者。とりわけ魔術師には、天敵と言うに値する存在。
魔術師の身で彼を全く寄せ付けなかったという事実は、シンすらも唸っていた。
オリヴィアならば『強欲』は恐れるに足りない。そう思っていたのだが、現状を鑑みるに状況は芳しくない。
流水の幻影を維持する余裕がない。もしくは、強制的に解除させられた。
洞窟の地下でのんびりと探検している余裕などまるでないのだと、フェリーは思い知らされる。
「どうしよう。出口を探すべきかな? それとも、やっぱりシンを……」
顔を見上げると、壁のように聳え立つ斜面。その終点が微かに震えている。
間違いない。シンとビルフレストが戦闘を続けている。
早く彼の下へ戻らなくてはならないのではないかという不安が、胸を締め付ける。
フェリーは知っている。ビルフレストの恐ろしさを。
勿論、シンが強い事も知っている。けれど、彼はたくさんの無茶をする。
今だってマギアの傷は完治していないはずなのに、無茶をしている。
「シン……」
不安で胸を詰まらせながら、洞窟の天井を見上げるフェリー。
直後、自分の転げ落ちた斜面が抉り取られる。忽然と消えた岩盤の奥で光る眼は、悪意に満ちた色をしていた。
咀嚼をするかのように漆黒の左手を何度も握る巨躯。
邪神の分体である『暴食』が、フェリーの姿を視界に捉えていた。
「やっぱり、あたしを探してたよね」
灼神を手に取り、フェリーは『暴食』と向き合った。
焔に照らされた『暴食』の顔面。裂けた口は今まで見たどんな生物よりも、悍ましいとすら思った。
『暴食』の持つ消失は、あらゆる者を喰らい尽くす。
危険極まりない存在を、放っておけるはずがない。
「あたしが、やらなきゃだもんね」
アメリア達の下にも、シンの下にも行かせる訳にはいかない。
きっとこの邪神は、自分が相手をするべき怪物。
決意を新たにしたフェリーと『暴食』が、刃を交える。
……*
「フェリー・ハートニアが気になるか」
「お前に答える義理はない」
「フッ、それが既に答えだろうに」
世界を統べる魔剣と魔導砲による魔力の塊が激突する。
ミスリアの時同様に、漆黒の魔剣を受け止める度にシンの刃は削られていく。
そう何度も受け止められない。そして、刃を形成するだけの魔力を充填する余裕があるだろうか。
シンはジリ貧の状況に立たされていた。
「そもそも、貴様はどうしてこの場に居る?
フローラ・メルクーリオ・ミスリアはミスリアの王女だ。
本来ならば、近寄ることすら出来ない存在だっただろうに」
魔剣から迸る魔力が、シンの皮膚を裂いていく。
衝撃で思わず身体が仰け反る。追い撃ちを掛けようとするビルフレストを拒絶するように、シンは引鉄を引いた。
放たれた刃を、ビルフレストは難なくはじき返していた。
互いの身体が離れた一瞬で、シンは弾倉を回転させる。
出来る限り魔力を充填し、次の刃を形成する。
「何度も言っている、お前に答える義理はない」
ビルフレストが言葉を投げかけようと、シンの答えは変わらない。
何も今回に限った話ではない。悪意に染まった男は、何度もフェリーを悲しませた。
その原因となるこの男を、世界再生の民を。許せるはずなど無かった。
「そう、興が削がれるようなことを言うな。
持たざる者である貴様が、どうしてこうも邪魔を出来るのか。
何が原動力なのか。純粋に気になっているだけだ」
シンが答えるまでもなく、ビルフレストも当然ながら予想はつく。
フェリー・ハートニア。不老不死の魔女が、彼にとって力の源泉。
自分達の計画を狂わせ始めたのも、発端は彼女なのだから。
「貴様はフェリー・ハートニアを護っているつもりだが、その必要はあるのか?
不完全とはいえ邪神と鎬を削る存在。その戦いに、貴様が入る余地はあるのか?」
「アンタに分かってもらおうなんて、思っていない」
魔導砲から刃として形成した金色の稲妻を、ビルフレストへと向ける。
魔剣との衝突により、はじけた魔力が周囲を照らした。
「解らないから、訊いている。貴様のことも、フェリー・ハートニアのことも。
あれだけの力に、朽ちぬ身体。彼女のようになりたいと思う者は後を絶たないだろう。
にも関わらず、フェリー・ハートニアは精神的に脆い。貴様が居なくてはならない程に」
シンは奥歯を噛みしめる。自分を煽っているのだと分かっている。
それでも連ねられる言葉は、フェリーを侮蔑するものだった。冷静であろうとしても、怒りは膨張を続けていく。
「『憤怒』にことのあらましも聞いた。小さな村をひとつ、滅ぼした程度だろう。
あの巨大な力が暴走して、その程度で済んでいる。むしろ、喜ぶべきことではないのか」
「――貴様ッ!」
その一言は、シンを逆上させるには十分だった。
彼女の気持ちを知っていれば「良かった」なんて言葉、冗談でも口に出来ない。
故郷を、大好きな人達を。自らの手で破壊したとフェリーは自分を責め続けていた。
どうすればいいか解らないから『死』に縋った彼女の悲痛な願い。
その奥に秘められた想いを、何ひとつ理解しようとしていない。
「フェリーがどれだけ悔いているかも知らずに!」
「他人とは違う存在だ。仕方がないと割り切るべきだろうに」
「そう思えないから、あれだけ苦しんでるんだ!」
「せめてもの贖罪で、私たちの邪魔をするということか? はた迷惑な話だ」
「どの口が……!」
今、シンは本当の意味で理解をしたのかもしれない。
この男は何かが切っ掛けで悪意に染まった訳ではない。
悪意そのものが、ビルフレスト・エステレラなのだと。
この男を放ってはおけない。野放しにすれば、きっと悪意を振りまき続ける。
誰かの幸せが、この男の指先ひとつで破壊される。
フローラの奪還だけではない。
今ここで、この男を仕留めなくてはならない。
シンの意識が、ビルフレストへ向けられていく。
「まぁ、いい。力を持つ者がどう扱おうと、本人の自由だ」
出来る事なら、世界再生の民で活用をしたかった。
その口惜しさを残しつつも、ビルフレストは鋭い眼光をシンへと向ける。
他人を射殺すようなその眼差しは、シンに緊張感を齎す。
張り詰めた空気が、一層強まった。
「だが、あくまでそれはフェリー・ハートニアの話だ。
貴様は違う。魔術も使えなければ、神器に認められたわけですらない。
何者でもない。持たざる者。言わば、異物だ。そんな男に悉く邪魔をされているのが、不快で堪らない」
「それがどうした」
似たような言葉は、テランからも投げられた記憶がある。
シンとしてはどう思われようが、一向に構わない。
自分が持たざる者だろうと、大切なものを諦める理由にはならない。
ただ、赦せない。自分の大切なものを平然と傷付けるこの男は。
だから、シンは否定しなくてはならないと感じた。悪意の根源、ビルフレスト・エステレラを。
「もっと判り易く言ってやろう。
シン・キーランド、貴様が邪魔だ。消えてもらう」
放たれた言葉、決して脅しの類などではない。
相手を否定したいと思っていたのはシンだけではない。ビルフレストもまた、この場で彼を殺そうと決めていた。
ただの村人で、血筋を調べようとも遡る価値すら見当たらない男。
魔力をほぼ持たず、神器に認められるほど信仰心が強い訳でもない。
それでも、皆の支柱となっている危険極まりない男。路傍の石は、いつしか無視できないものとなっていた。
「奇遇だな。俺もアンタに消えてもらうつもりだった」
悪意の矛先は、容赦なくシンへと向けられる。
それでもシンは怯まない。決して引き下がらない。
自分にはまだ、やらなくてはならない事が残っている。
だから決して、死ぬ訳にはいかなかった。