396.兄を救うべく
アルジェントが襲来した直後。彼の存在は、もうひとつの戦いにも影響を与えていた。
彼の姿を視界の端で捉えたアルマは、奥歯を噛みしめる。
「アルジェント……!」
『強欲』の肩で不遜な態度を取る彼は、オリヴィアに夢中だ。
人造鬼族と成り果てたスリットと交戦する自分とトリスには、目もくれない。
ビルフレストと違い、年齢が近い。
サーニャと違い、男同士でしか出来ない話もある。
両方の条件を満たすスリットと違い、自分に対して妙な遠慮が無かった。
良い友人関係を築けていると思っていた。だが、それはアルマの一方通行だった。
彼はあくまで、他人の上澄みを掠めとる男。
ビルフレストに見放された瞬間から、アルジェントの中でアルマの価値は失われつつある。
今となっては、何も与えてくれないただの子供という括り。
アルマとて、彼の心情が理解できない訳ではない。
世界再生の民に加わった者は皆が皆、己の欲しいものを求めていた。
人一倍、欲望の強いアルジェントが自分の元を離れたは当然だった。
勿論、全く傷付いていないという訳ではない。
衝撃を受けた。悔しかった。辛かった。自分の存在価値を思い知らされた。
世界再生の民の頭目でもなく、ミスリア第一王子でもない。
他者から見たアルマ・マルテ・ミスリアの評価を代弁されたような気持ちだった。
尤も、アルマはそれを怒りに変えるような素振りは見せていない。
サーニャが一命を取り留めたのは、大きな理由もひとつだった。
アルマ・マルテ・ミスリア自身の価値を肯定してくれる女性が居る。それだけで、彼は救われた。
サーニャもまた、穢れ切った自分を真に愛してくれる男性が居る。
その真摯な気持ちが、今の彼女にとって生きる糧となる。
アルマにとって多くのものを失った戦いは、決して無駄ではなかった。
けれど、これ以上何かを失っても良いかといえば別問題である。
アメリアの元に『傲慢』の適合者となったフローラと、邪神の分体である『傲慢』。
そしてオリヴィアの前にアルジェントと『強欲』が立ちはだかる。
邪神の適合者と分体。どちらか片方だけでも手に負えないというのに、双方が揃っている。
加えて、相対する者は各々一人ずつ。戦力差は歴然。スリットを二人掛かりで相手にしている状況ではなくなっていた。
「アルマ様。スリットは私が――」
トリスもまた、アルマと同じ分析をしていた。
自分がスリットと戦うので、アルマは援護へ向かって欲しいと目配せを行う。
事実、トリスの判断は間違っていない。
オリヴィアの反応を見る限り、『傲慢』は魔力そのものに干渉している。
魔術師であるトリスもオリヴィア同様に力を大きく削がれる可能性は否めない。
何より、そのフローラへ辿り着くにはアルジェントを突破しなくてはならない。
彼の能力は今更分析するまでもない。魔術師にとっては、天敵に近い相手。
客観的に見てもトリスではなく、アルマが援護へ向かうべき状況が組み上がっていた。
「いや、駄目だ」
しかし、アルマは首を横に振る。
彼自身が一番理解をしている。この場に於いて最も足手まといなのは、自分であると。
アメリアやトリスのように神器に選ばれた存在ではない。
オリヴィアのような機転が利く魔術を咄嗟に放つ事も出来ない。
邪神の適合者にとっては取るに足らない存在なのが、アルマにとっての現実。
せめて世界を統べる魔剣があればと思わなくもない。
けれど、あれは自分の剣では無かった。何より、あの漆黒の刃はサーニャの血を吸った。
手に取ってしまえば、思わず叩き追ってしまいそうだ。
「ですが、このままだとアメリア様とオリヴィアが……」
「分かってる。けれど、僕一人では足を引っ張るだけだ。
アメリアやオリヴィアの弾避けに成れるならいいけれど、それすらも怪しい。
だから、二人で行こう。力を貸してくれ、トリス」
正直な気持ちと、弱音が零れ落ちる。今までならば、きっと口に出来なかっただろう。
情けないと自分自身でも思うが、それが最善であるならば迷う理由はない。
どうしたいかなんて、決まっている。
フローラとスリットを救う。その為ならば、自分がどれだけ情けない男でも何ら問題はない。
「アルマ様……」
トリスはというと、驚く一方で嬉しくもあった。
世界再生の民に居た時も「期待している」「任せた」とアルマは言葉を掛けてくれた。
けれど、自分の成否は影響がないと言わんばかりの言葉だという事も理解していた。
今回は違う。彼は本当の意味で自分の力を求めている。
ずっと欲しかった言葉が世界再生の民を離脱からして聞かされるとは夢にも思ってみなかった。
「分かりました。では、スリットを急いで対処しましょう。
試したいことがあります。ただ、そのためにはスリットを抑える必要が――」
「僕がやる。やらせてくれ」
刻一刻と状況は変化している。迷っている暇はない。
トリスの案を聞くまでもなく、アルマは走り出した。
「スリット! 悪いが立て込んでいる。後で謝るから、多少荒っぽくなっても許してくれ!」
魔術金属の剣がスリットへ向かって振り下ろされる。
赤く、蒸気を発する左腕が難なくそれを受け止めた。
「オ……アァ?」
「相変わらず、硬い腕だ……!」
刃が立っているにも関わらず、皮膚は全く傷付いていない。
スリットが頑丈なのか。自分が未熟なのか。
どちらにしても稽古を欠かさず続けていた身としては複雑な気持ちだった。
「オ、マ……マ……!!」
相対する少年は、トリスではない。獲物ではない。
邪魔だと言わんばかりに、スリットは右拳を固く握る。
「アルマ様!」
トリスは思わず声を上げる。
体格差だけの問題ではない。熱を帯びた拳を思い切り受けてしまえば、きっと無事では済まない。
「心配するな、トリス! 自分の考えを優先してくれ!」
アルマは動じない。スリットの拳にも、トリスの叫びにも。
むしろ好都合なぐらいだ。こうして自分に気を取られてくれているのだから。
拳が迫りくるまでの短い時間。アルマは必死に魔術のイメージを練り込んだ。
生み出したのは氷。密度を最大にまで高めた氷が、アルマとスリットを阻むように出現する。
正面から受け止めては、自分の身体が壊れてしまう。
かといって半端な防御を採れば、たちまち彼の巨腕は突き破ってくるだろう。
スリットが放出している熱と肥大化した拳に対抗できるとすれば、これしか思いつかなかった。
「オアッ!?」
高密度の氷はスリットの拳が触れると同時に、表面から融解していく。
だが、決して氷の壁を全て破壊出来た訳ではない。
融けた氷によって生まれた道筋が、スリットの腕をエスコートするかの如く。
美しい弧を描いて、硬く握りしめられた赤い拳は空を切った。
「上手く行ったか……」
今の自分ではこの程度が限界だと息を吐くアルマだが、着想から実行へ移すまでの決断力は賞賛に値する。
魔術大国ミスリアの王子に恥じない素養の片鱗を、見せつけていた。
「アルマ様、離れてください!」
「あ、ああ!」
スリットは体勢を崩した。千載一遇の好機。
トリスは賢人王の神杖を地面へ軽く触れさせる。
魔力によって生み出された炎が、スリットへ向かって伸びていく。
「トリス? これは――」
トリスが何をしようとしているのか、アルマには解らない。
高熱を纏ってるスリットへ炎を放っても効果はあるのだろうかと、首を傾げる。
無論、トリスもスリットが熱を帯びている事は重々承知している。
だからこそ、違和感を抱いた。この炎は、自分の考えが正しいかどうかを確かめる為の診断。
もしも考えが当たっているのであれば、恐らくスリットは元に戻る。
「ア? アァァ?」
拳を振るった勢いそのままに倒れ込んだスリット。
顔を上げた彼は、パンパンに腫れあがった顔を左右に振りながら自分を取り囲む炎を眺めていた。
ゆらゆらと揺れる炎に誘われるかのように、スリットの身体も揺れている。
やがて炎は、スリットの身体へと燃え広がっていく。だが、スリット自身はそれを嫌がらない。
自分を包み込む炎を、受け入れつつあった。
「あれは、どうなんだ……?」
アルマはスリットの表情が読み取れず、眉間に皺を寄せる。
熱がっている。苦しがっているようには見えない。
「問題ありません、アルマ様」
トリスの反応を窺おうと、彼女に目線をやった時に驚いたぐらいだ。
彼女はいたって真剣で、賢人王の神杖を通して魔術を操っている。
スリットが苦しんでいないのは、彼女の目論見通りなのだと理解した。
放たれた炎を纏っても、傷付かないのは当然だった。
人造鬼族となったスリットが熱を帯びているからではない。
トリスの放った魔術が攻撃魔術ではない。
「あれは、治癒魔術ですから」
「な……」
彼女が賢人王の神杖を通して放った魔術は、治癒魔術。
活力の炎をスリットへと放っている。
「ど、どういうことなんだ!?」
トリスの真意が理解できず、アルマは狼狽える。
確かに自分達はスリットを救うつもりで動いていた。
けれど、今の彼は決して傷付いていない。治癒魔術を放つ意味がまるでない。
少なくとも、アルマはそう考えていた。
アルマにとって不可解な行動でも、トリスにとっては違う。
起こり得る可能性を考慮した結果、治癒魔術が必要だという判断に至った。
「スリットを、治療するためです。
申し訳ありません。集中しなくてはならないので、これ以上は……」
「……分かった」
真剣な眼差しで賢人王の神杖を握るトリスに、アルマは気圧される。
スリットを誰よりも救いたいのは彼女のはず。ならば、邪魔をしてはならない。
自分に出来る事は再びスリットが暴れた際、盾になるぐらいだと、アルマは剣を構えた。
「スリット、治してやる。だから……。私を信じてくれ」
スリットへ触れた活力の炎を、賢人王の神杖を以て拡張させていく。
双子の魔力が融け合っていく中で、トリスは感じた。彼の中に潜む、異物の存在に。
思った通りだった。いくら人造鬼族にされたと言っても、基はスリット・ステラリードという一人の人間。
腫れ上がった顔も、肥大化した身体も。バランスを崩しながらも形を保っている。
熱を帯びた身体だってそうだ。人間の身では持たない高熱でも、難なく活動している。
それは決して、人造鬼族になって耐久性が大幅に上昇した訳ではない。
組織を破壊しては再生を繰り返した結果が、今の姿なのだとトリスは推測した。
初めは絶対にありえないと思った。
何故なら、治癒魔術は術者自身には効果が得られない。
異なる魔力を共振させる事で、生命力を活性化させるのだから。
けれど、そうでないのだとすれば。
スリットの身体へ注入された人造鬼族の素が、スリットとは異なる魔力で治癒を行っているのだとすれば。
生命力の活性化が常時行われ、治癒魔術と同様の効果が得られるだろう。
ひとつの身体に、二種類の魔力を混同させる。
荒唐無稽な話ではあるが、トリスは試す価値があると考えた。
心の内に魔女を潜ませているフェリー・ハートニア。
彼女は自分でも制御できない怪物を、抱えてしまっている。
そして、『傲慢』と適合を果たしたフローラ・メルクーリオ・ミスリア。
アメリアとオリヴィアが即座に偽物と見抜いた事から、新たな人格が形成されているのは明らかだった。
二人は魔力の質こそ、同一のものかもしれない。
けれど、魔力よりももっと不可思議な存在を抱えている。
ならばこの可能性に賭けるのは、決して分が悪い訳ではない。トリスは、そう考えた。
賢人王の神杖を通じて、活力の炎はスリットの体内へと浸透していく。
細胞のひとつひとつが、小刻みに揺れているような感覚をトリスは感じ取った。
人造鬼族にするべくスリットへ注入された薬が、彼の中で暴れている。
ここでもトリスは、ひとつの幸運に見舞われる。
双子であるスリットは自分とよく似ている。外見というよりも、魔力の質が。
本来なら治癒魔術が通りにくいという負の側面ではあるが、この場に於いては違う。
彼の中で暴れ回る病原菌。人造鬼族の素を、容易に判別できるものとなっていた。
「スリット。その邪魔な魔力、全て私が放ってやるからな」
ひとつひとつ。自分達とは異なる質の魔力を、活力の炎が包んでいく。
いくらスリットの中で異物が暴れ回っても、包み込んだトリスの炎が悪影響を抑え込む。
「ゴ、ボ……ァ、アア、ガッ……!」
泡を吐きながら、のたうち回るスリット。
尋常ではない苦しみようだったが、アルマは見守っていた。
赤みを帯びた肌は、段々と熱を失っている。
腫れ上がった顔や肥大化した身体が、収縮していく。
自分の知っているスリット・ステラリードへ、戻ろうとしているのだから。
やがてトリスは、肩で大きく息を吐いた。
賢人王の神杖を通じての感覚だから、間違いはないだろう。
彼の中で暴れ回る人造鬼族の素は、全て活力の炎によって動きを止めた。
「今は、これが限界だ。いつか、絶対元に戻してやるから。
それまで辛抱してくれ、スリット」
ぐったりと倒れ、意識を失ったスリット。
見慣れた赤い髪に自分よりも少しだけ浅黒い肌を眺めながら、トリスは呟く。
オリヴィアの放った清浄なる大波が、拡張を経て爆発を引き起こしたのは直後の事だった。