394.拡大する『傲慢』
『傲慢』としての人格を発現させたフローラ・メルクーリオ・ミスリア。
身体の主導権を奪われていた彼女は、偽物の行動に指を咥えて見ている事しか出来なかった。
それは単にフローラ自身が頑なに否定しようとしていたという点に由来する。
フローラ自身がどれだけ頭で否定しようとも、やはり彼女は『傲慢』の適合者。
ただ、決して悪意に染まっている訳ではない。彼女はただ、我儘なのだ。
自分と大切な人達は存分に幸福を享受するべきだと、本気で思っている。
(私、これでも忙しい身ですの。今もやらないといけないことばかり増えています。
だから、『傲慢』はもうお下がりなさい。私の大切な人を、これ以上傷付けないで頂戴)
心の内に存在する、自らを外界と遮断する壁。フローラはその存在をもう否定はしない。
自分の内に出来た存在であるならば、『傲慢』だって閉じ込められるはず。
出来るかどうかではなくて、そうしたいと考えた。出来るはずだと考えた。
願いを現実のものとするべく、フローラは透明な壁に手を触れる。
(何を、今更! 貴女の役目はもう終わり。これから私が、全てを変えて見せる。
邪神と、ビルフレストと共に! 世界再生の民が、世界を造り替えるのよ!)
偽物にもまた、譲れないという思いがある。
悪意を煮詰められ、フローラの体内へと注がれ。自分とは似つかわしくない世界で決して短くない時間を過ごした。
このまま永遠に、自分が出る幕は訪れないかもしれないという不安すらもあった。
けれど、自分は出て来られた。必要とされた。
そう易々と身体を明け渡す気など、持ち合わせていない。
(嫌よ、私! ビルフレストなんて、好みじゃないもの!
長身ぐらいしか許容できるポイントがないわ!)
フローラは声の中で必死に自分の好みを主張する。
陰気臭いのは嫌だ。もっと爽やかな殿方がいいだとか。
真面目で面倒見がよくて、包容力がある。ふと目を合わせると互いにはにかむ。
そんな恋愛がしたいというのが、フローラの願いだった。
(貴女の好みを叶えるつもりなんて、私にはありません!
大体、それは殆どアメリアのことではないですか!)
(だってアメリアが基準だもの!)
いつしかオリヴィアとも話していた。彼女が男であるならば、間違いなく恋に落ちていたと。
若干、オリヴィアは姉への敬意が含まれているような雰囲気があったが、フローラは本気だった。
フローラが男性に求める基準は、アメリア・フォスターとなってしまったのだ。
(だったら、アメリアと恋に落ちればいいじゃない!)
(アメリアにはアメリアの恋がありましたの! 私はうまく行って欲しかったのに!)
尤も、それはあくまで好みの人物像という話。
アメリアはとある青年に惚れた。その件について、フローラは嬉しかった。
オリヴィアと違い、あまり恋愛話しなかった彼女の好みが判らなかったからだ。
一人旅が趣味だった事も相まって、ずっと独り身でいるつもりではないかとさえ思っていた。
心から応援していた。男と常に一緒にいる少女がいようとも、きっとその恋は実るものだと信じていた。
アメリアの告白を断ったと聞いた時は、耳を疑ったと同時にあらゆる策を講じようともした。
ミスリアの貴族ならば一夫多妻が認められる。いざとなればという考えは、彼女の『傲慢』さが垣間見えるもの。
けれど、今なら理解できる。
アメリアは本当に、シン・キーランドの事が好きだったのだと。
だからこそ、思いの丈を口にした。断られると、頭で理解しつつも。
自分もシンとフェリーに逢ったからこそ判る。
彼は表情に出さないだけで、どれだけフェリーを大切に思っていたのか。
フェリーに至っては、本人は抑え込んでいたつもりでも駄々洩れだ。
付け入る隙がない中、アメリアはよく頑張ったとさえ思う。
この一件があるからこそ、オリヴィアの恋はどうしても成就させたくなってしまう。
自分の大切な人は幸せになるべきだ。今まで、自分は沢山の幸福に恵まれて来たのだから。
アメリアも、オリヴィアも。自分が幸せにしてみせる。
フローラの気持ちが一層強くなる。透明な壁に囲まれた匣は、その蓋が開かれようとしていた。
……*
フローラの内側で起きるせめぎ合い。
主導権の奪い合いによる違和感を真っ先に肌で感じたのは、抑圧の影響を強く受けていたオリヴィアだった。
「フローラさま……?」
自分で襲い掛かっていた息苦しさや重苦しさが緩和されている。
試しに魔力を指先へ集めてみると、重力が掛かったかのように地面へ引き寄せられる。
完全に邪神の能力が抜けた訳ではない。けれど、間違いなく異変は起きている。
「……っ。お姉さまっ!」
オリヴィアは抑圧による不快感に適応しつつあった。
その中で、理由は解らないが能力が緩和された。好機と捉えるのは必然だった。
「凍撃の槍っ」
抑圧による魔力への干渉に対して、オリヴィアは脳内で魔術のイメージを構築していく。
複雑な魔術は使用できない。構築も結果も容易なものを選択した結果、彼女は氷の矢を彼女を縛り上げる魔術金属の鞭へ向けて放っていた。
「この状況で、魔術を!?」
完全に抑圧に抑えつけられていたオリヴィアが、魔術を放った。
それは偽物にとっては想定外の出来事。あくまで敵は、蒼龍王の神剣を持つアメリアだけだと認識していた。
(当たり前じゃない! オリヴィアは天才なのよ!)
(ええい、鬱陶しい!)
奥歯を噛みしめ、火傷で痛む左手が固く握りしめられる。
心の内で騒ぎ立てるフローラに対して、偽物が見せた証。
自らの痛みで心の内で暴れるフローラを抑えつけようとしたが、期待した効果は得られそうになかった。
「オリヴィア……ッ」
凍撃の槍が魔術金属の鞭に触れた瞬間。
僅かにだが、アメリアの拘束が弱まる。
「ありがとう、ございます」
絞るように礼の言葉を告げると、アメリアは緩んだ鞭の隙間に蒼龍王の神剣の刃を滑り込ませる。
自分の首筋だというのに、アメリアは躊躇しない。今はただ、この状況の打破を優先した。
「アメリア! 逃しは――」
(行きなさい、アメリア!)
そうはさせまいと腕輪に魔力を込めようとする偽物だったが、内なるフローラの介入がそれを阻む。
鞭が形を変えるよりも先に、蒼龍王の神剣は魔術金属を断ち切っていた。
自由落下に身を任せながらも、アメリアは今までとは違う不可解さに眉を顰めた。
まるで手心を加えられたかのような感覚。まるで、フローラが護ってくれたかのようにさえ思う。
「フローラ様? まさか……」
落下に身を任せながら、アメリアはフローラへ視線を送る。
火傷を負った左手の位置が、胸元へと移動している。苦しみを和らげるかの如く、握り締めている。
自分もオリヴィアも、彼女へ危害は加えていない。フローラ自身に異変が起きたのは明らかだった。
「オリヴィア! フローラ様を!」
「ですよねっ!」
やはり姉は自分と同じ答えへ行きついたと、オリヴィアは笑みを浮かべる。
アメリアは神剣を構え、『傲慢』との戦闘に備え始めた。
つまり、フローラは自分に任せるという合図に他ならない。
口に出さずとも判る。倒すのではなく拘束しろという意味合いが含まれていると。
ならば、蒼龍王の神剣を持つアメリアよりも自分の方が適任なのは明らかだった。
宣告の凍撃の槍で感覚は掴んだ。
オリヴィアは水の城壁を地面から噴出させ、フローラと自分の姿を水で遮断した。
「あら、私を除け者にするつもり?」
「いえいえ、下準備をしているだけですよ。お茶会と同じですって」
水の壁を挟んで、互いは笑みを浮かべ合う。
透明な水は、姿を隠す訳ではない。絶妙な分断だった。
二人から見える位置で、アメリアと『傲慢』が交戦する。
援護をするにも、互いが互いを牽制している。オリヴィアによって膠着状態が、作られる。
純白の。中性的な身体を持つ怪物が繰り出す拳を、アメリアは蒼龍王の神剣の腹で受け流す。
『傲慢』が抱いている感情は一切読み取れない。
けれど、アメリアは語り掛けずには居られなかった。
「その姿。まだ悪意に、染まっていないということですか!?
私の声は、あなたに届きますか!?」
マギアでシン達が救い出そうとした『憤怒』同様、まだその身に穢れを知らないのであれば。
救い出せるのではないか。戦わずに済むのではないか。
そして、それはそのままフローラを救う事に繋がるのではないか。
様々な希望を胸に抱きながら、アメリアは訴える。邪神の分体ではなく、眼の前に居る純白の存在に対して。
「――……」
『傲慢』は何も答えない。
ただ、アメリアの血がこびり付いた拳を本能的に繰り出している。
邪神の分体である『傲慢』。正確に言えば、その本体である邪神は記憶している。
三日月島で邪神が顕現した際に、この女が居合わせていた事を。
圧倒的な力を持つ邪神を前にして、彼女は畏れた。取るに足らない脆弱な存在なのだと、邪神は知っている。
だから、『傲慢』はアメリアの声に耳を傾けようとはしない。
本体から流れ込む意識を頼りに、力を以て彼女を屈服させようと試みる。
それは純白の身体を濁し始める予兆でもあった。
「っ! 駄目なのですか……っ」
アメリアは『傲慢』から繰り出される拳を神剣で捌いていく。
倒すべきか、救う為に動くべきなのか。
迷いが生じたアメリアは、水の牢獄を以て『傲慢』の拘束を試みる。
『傲慢』の口角が醜く上がるのは、彼女が魔術を放つのと同時だった。
「――っ!?」
突如、アメリアから放たれた水の牢獄がその役目を全うするよりも消えていく。
偽物の放った抑圧ではない。水の輪は、大地へ沈むのではなく膨張したかのように見えた。
それこそが、『傲慢』の持つ邪神の能力。拡張。
抑圧とは違い、魔力を抑制するのではなく膨張させていく。
術者自身の制御を越えた魔術はやがて爆発を引き起こし、その魔力を以て自身を傷付けていく。
「お姉さま!?」
離れた位置に立つオリヴィアの瞳には、水の牢獄の爆発する様がしっかりと焼き付けられていた。
殺傷能力を持たない魔術が明らかに膨らんでいて、暴発を引き起こした。
口角を上げる『傲慢』の顔が憎たらしく見える。邪神の能力を使ったのは、明らかだった。
(アメリア!)
内なるフローラが声を張り上げる。
動揺が走った事により、偽物に余裕が生まれた。
「あら、アメリアは危機のようですね。オリヴィアはここで私と見つめ合っていて、大丈夫かしら?」
「よくもまあ、いけしゃあしゃあと……!」
一瞬の出来事で、アメリアはまだ拡張の全貌を掴めては居ない。
新たな危機を前にして、オリヴィアは下唇を強く噛みしめる。
頭に血が上りそうになるのを抑え、オリヴィアは冷静に状況の分析を試みる。
抑圧の前では、思う通りに魔力を操る事ができない。
反対に拡張は、魔力を暴発させる。
魔力に干渉するという本質的な部分は同じだというのが、オリヴィアにとって厄介だった。
抑圧同様に、体内に流れる魔力にも影響を与えるのであれば。
おめおめと自分が『傲慢』に近付く事自体が、危険極まりない。
蒼龍王の神剣を。神剣の加護を受けているアメリアだから、魔術の暴発で済んだ可能性が存在するのだ。
「オリヴィアは固まっているようですし。では。私が『傲慢』の援護に行こうかしら」
フローラが到底しないような薄ら笑いを浮かべながら、偽物は『傲慢』の元へと歩もうとする。
それだけは許されない。フローラを救う手立てもまだ見つかっていないのに、乱戦に持ち込まれる訳にはいかない。
「それはダメです。わたしとお話、しておいてください!」
心の内に封じ込められたフローラの動揺により、また抑圧の効力は高まっている。
だが、オリヴィアも同様に強まった邪神の能力に対抗している。
頭に重さを残してはいるが、魔術を操れない程度ではない。
自分とフローラを遮っていた水の城壁から水の塊を精製し、彼女へ向けて放つ。
殺傷能力は持っていない。彼女を水浸しにし、そのまま凍らせる事で動きを奪おうと目論んでいた。
「おっとォ。まーた、凍らせようとしてんのかァ?」
水の塊はフローラへと届く事は無かった。
オリヴィアとフローラの間に突如現れた存在が、行く手を阻む。
白い胸元から伸びる、金銀、瑪瑙と言った模様が入り混じった悪趣味な怪物。
『強欲』の邪神。『強欲』が、オリヴィアの完全に立ちはだかる。
「案外早い再会だったなァ。こないだのリベンジ、させてもらうぜェ」
「わたしはそれどころじゃ、ないんですけどね……!」
『強欲』の肩に乗るアルジェントが、見下すような視線をオリヴィアへ送る。
焦りと苛立ち。そして空気の読めなさに、オリヴィアは顔を引き攣らせていた。