392.歩み続けて、得ていたもの
身体が重い。
爪先が地面へと沈んでいく。腕を上げようとする事さえも億劫になる。
重力弾の影響下に置かれたビルフレストの動きが、鈍くなる。
「……やってくれる」
漆黒の刃を地面に突き立て、身体を支えるビルフレスト。
余裕を含んだ言葉とは裏腹に、また一杯喰われたという事実が付き纏う。
フラストレーションを心の内に溜め込みながら、怒気を含んだ眼光はシンを捉える。
「っ……」
ビルフレストの表情を前にして、フェリーとオリヴィアは若干たじろぐ。
氷のように冷たく。それでいて、煮え滾るような視線。
重力越しに放たれる威圧感も今までの比ではない。同じ人間だとは、思えなかった。
だが、シンはビルフレストの殺気など全く意に介さない。
どれだけ彼が怒ろうと、今が好機である事実には変わりない。
怯んで勝機を逃すような真似を、シンがするはずもなかった。
魔導砲の弾倉を回転させ、魔力を吸着させる。
洗濯した弾丸は金色の稲妻。重力弾による起動の変化を計算し、狙いをやや上に定める。
三発の金色の稲妻は、落下するような形でビルフレストへと襲い掛かる。
「チッ」
突き立てた世界を統べる魔剣へ魔力を注ぎこむ。
魔剣から発せられる禍々しい魔力は、シンの放った稲妻をひとつ残らず霧散させる。
結果的にシンが期待した効果は得られなかっただろう。
だが、ビルフレストは苛立っていた。この攻防を元に、シンは必ず戦い方を組み立て直す。
重力に蝕まれたままの状態では聊か分が悪い事を認めた。
ビルフレストから発せられる空気が、より張り詰めたものへと変わる。
その矛先として過敏な重圧を受けたシンの唇が、渇きを訴えていた。
「フェリーさん! 今のうちに魔導接筒を!」
「う、うん。そうだよね」
けれど、この場でビルフレストと相対しているのはシンだけではない。
重力弾を起動させた張本人。小さなオリヴィアはフェリーに援護するよう促す。
強力な重力下であろうと、魔導接筒によって結合した魔導刃・改ならば。
きっとあの外道を一突きに出来るという、オリヴィアの考えだった。
言われるがままに魔導刃・改を結合させるフェリー。
選択した刃は灼神ではなく、霰神だった。
外へ繋がる道をビルフレストが確保している以上、悪戯に酸素を燃焼し続ける訳にはいかないという判断。
太く逞しい、透明の柱は真っ直ぐにビルフレストへ向かって高速で伸びていく。
質量で攻める、フェリー渾身の一撃。
その氷柱がビルフレストへ届く事は無かった。
「喰らい尽くせ。『暴食』」
適合者の命を受け、現世に姿を現すのは邪神の分体。『暴食』。
ビルフレストの正面へと現れた悪意の化身は、漆黒の左腕を霰神の前へと突き出していた。
「邪神っ!? 負けないよ……っ」
魔力を込め、『暴食』諸共氷柱で呑み込もうとするフェリー。
対する『暴食』は、左腕に宿った消失で霰神の先端を削り続けていく。
迸る魔力が、邪神の能力に抗う。
氷が砕かれ続け、反発する魔力が高まっていく。
拮抗しているかのように見えたせめぎ合いは、思わぬ形で均衡が崩れていく。
「アアアァァァァァァァァ!!!」
雄叫びを上げながら、霰神の先端を喰らい続ける『暴食』。
いくら喰おうとも消える事のない氷の塊。
はじめは無邪気さが勝っていたのか、喜んでいた『暴食』も、次第に思い通りにいかない苛立ちへと変わっていく。
もう要らないと言わんばかりに、『暴食』は残った右手を氷の柱へと伸ばしていた。
「えっ? うそっ!?」
信じられないと言った様子で、フェリーは思わず声を漏らした。
霰神を通して、自分の足が地面から剥がれていっている。
身体の半身を氷漬けにされながらも、『暴食』が氷柱を持ち上げた事が原因だった。
「オオオオォォォォォォ!!」
「――っ!」
氷を纏いながらも持ち上げた『暴食』は、そのままフェリーの身体を洞窟の壁へと叩きつける。
声が出せない。自らの肺に蓄えていたはずの空気が失われた証だった。
振り子のように後ろへ下がった頭は強く打ち付けられ、ぬめりとした液体が周囲に散る。
「フェリーさん!」
「だい……じょぶ……っ!」
フェリーは何度も瞬きをしながら、声を絞り出す。
一瞬だが意識を失っていた。辛うじて気を取り戻したが、集中力が切れた事により氷の柱は霰神から消え去っていた。
「フェリー!」
シンは咄嗟に銃口を、『暴食』へと向ける。
いくらフェリーといえど、全てを喰らう『暴食』の腕に呑み込まれた先は保証できない。
悪意の左腕が彼女に触れる事だけは許されなかった。
「――隙を見せたな。シン・キーランド」
「ぐっ……!」
刹那、シンの身体を無数の刃が襲い掛かる。
ビルフレストは重力弾から抜け出していない。
だが、確かにシンの皮膚は鋭利な刃物で切り付けられたかのような傷が刻まれた。
「シン!」
フェリーもシンと同じだった。彼が傷付く様を見て、自分の痛みを忘れる程に動揺が走る。
本当ならば今すぐにでも彼の元へと走りたい。だが、白と黒のコントラストを持つ怪物がそれを許さない。
「っ……! ジャマしないでってば……!」
繰り出される消失の左手を再び形成した霰神で受け止める。
起動が間に合わなくなってはいけないと、魔導接筒から分離した状態での発現。
結果として防御は間に合ったが、洞窟の壁と『暴食』の左手に挟まれフェリーの身動きが取れない。
必死になって自分の左手を拒絶する少女の姿。
美しい金色の髪が、鮮血によって赤く染まっていく。
その様を特等席で見た『暴食』は、気味の悪い笑みを浮かべる。
思うように喰えない事は腹立たしくても、自分に対して必死になる人間の姿を見るのは愉しくて堪らない。
大地を踏みしめ、徐々に強くまる力はフェリーを洞窟の壁へと押し付ける。
魔力によって消失は防げても、膂力の差は歴然だった。
(魔術なのは間違いない。詠唱を破棄しているのも。
けれど、いつの間に仕込まれた? 俺は何を見落とした?)
ビルフレストが繰り出した不可解な攻撃を前に、シンは熟考を重ねる。
痛みの割に、傷はどれも深くない。表面を切り裂かれたと言ったところだろうか。
問題なのは、それが威嚇なのか全力なのか解らない事。
ビルフレストの実力を見誤れば、即座に命を落としかねない状況。
彼の存在を気に掛ける一方で、シンは『暴食』と交戦を続けるフェリーの援護を諦めていない。
どうにかして彼女の窮地も救わなければならない。好機から一転、状況は危機へと転げ落ちた。
そんな中。状況を打破するべく、懸命に手を振る存在が一人。
流水の幻影によって生み出された、掌に収まる大きさのオリヴィアが自分を使えと訴えている。
彼女のアピールに、シンも迷わず頼る事を決断した。
ビルフレストへ重力弾を放った時のように、魔導弾を地面へ転がそうとした瞬間。
「また奇策でも思いついたか?」
「――っ!」
シンの眼前に、黒衣を着た長身の男が立ちはだかる。
横薙ぎに払われる世界を統べる魔剣の剣閃を、魔導砲の銃身で受け止める。
強い衝撃と共に、シンはフェリーとは反対方向の壁へと身体が押し付けられる。
マギアで銃身が破損したのは、不幸中の幸いだったかもしれない。
魔術金属のままなら、きっと魔導砲諸共自分が両断されていただろう。
(早すぎる)
魔硬金属同士がぶつかり合い、何度も火花が飛び散る。
一瞬の判断ミスが死に直結する中でも、シンは思考を止めない。
重力弾の効力が失われるにしても、いくらなんでも早すぎる。
何か理由があるはずだと考えた結果、シンはビルフレストの左手に着目をした。
まるで咀嚼をするかのように動いている左手の指。
一件すれば遊ばせているようにも見えるが、違う。喰らったのだ。重力弾による重力を。
故にビルフレストは解き放たれた。自分を縛り付ける重力の檻から。
「いい反応だ。流石と言うべきか」
シンは魔導砲の短い銃身でビルフレストの刃を何度も受け止める。
ビルフレストからすれば驚嘆するべき反応だが、シンもまた必死だった。
証拠として、世界を統べる魔剣から迸る魔力を受け切れてはいない。
一度刃を交える度に皮膚が裂けていく。痛みで声を上げている暇など、与えられはしない。
「わたしが、余計なことをしたせいで……」
シンはビルフレストの一挙手一投足を見逃すつもりなんてなかったはずだ。
この結果を生み出したのは、自分が出張ったせいだとオリヴィアは自らを責める。
「ちがう、よ……! オリヴィアちゃんは、悪くない……!」
『暴食』の消失を受け止めながら、フェリーが彼女の苦悩を否定する。
オリヴィアは決して悪くない。悪いのは、誰かを傷付けてばかりいるこの悪意の塊達だ。
白と黒。陰と陽が融け合ったよう姿を見て、フェリーも思うところがある。
マギアで戦った『憤怒』とは違う。人が傷付き嗤う様は、救えないと思わせるには十分だった。
ならば、戦わなくてはならない。
下唇を噛みしめながら、フェリーはありったけの魔力を霰神へ注ぎ込む。
透明な刃はその出力を増し、『暴食』の左腕を氷で覆うとしていた。
「――ガアアァァァァァァ!!」
まだ抵抗を続ける少女。対する『暴食』も、多分に意地が降り込められていた。
ぶつかり合う互いの全力は、フェリーの背中を支えていた壁の崩落という形で終わりを告げる。
「えっ……」
「フェリーさん!」
不意に自らを支えていたものが失われ、フェリーの体勢が崩れる。
霰神で『暴食』の左手を凍り付かせていたのが幸いだった。
消失がフェリーを呑み込む事はなく、込められた力そのままに壁を突き破る。
壁の向こうへと姿を消すフェリーと『暴食』。そして、咄嗟に彼女の元へと駆け寄ったオリヴィア。
大きな土煙の後、ガラガラと崩れる岩盤。シンの視界に残ったのは、忽然と姿を消したフェリーの代わりに山となった岩の塊だった。
「フェリー……!」
彼女が姿を消した事により、シンに強い動揺が走る。
その隙を見逃す程、ビルフレストはお人好しではない。
「終わりだ。シン・キーランド」
世界を統べる魔剣から魔力が爆ぜ、シンの傷口を広げていく。
飛び散る赤い雫に比例して、激痛が身体中を走る。
それでもシンは自らの心配よりもフェリーを気にかけていた。
つまらない最期だと思いつつも、ビルフレストは漆黒の刃を振り被る。
あからさまな攻撃だが、横薙ぎに払われた一撃は囮。
余裕を失っているシンから防御の体勢を誘い、返す刃で彼の身体を両断しおうというもの。
シンを警戒しているからこそ、ビルフレストの頭の中に油断が生まれる余地を潰している。
皮肉にも、それが仇になるとはビルフレスト自身気付いていなかった。
まずは囮として繰り出される剣閃。
ビルフレストの脳内では、シンは攻撃に備えて防御体勢を取るはずだった。
だが、シンは動かない。
まるで攻撃の意思が宿っていないと、見抜いているかのように。
そして、刃を返そうとする瞬間。世界を統べる魔剣の腹にあるものが押し当てられる。
シンが持つ魔導砲の、銃口だった。
(なんだと……)
放たれた銃弾が、剣の軌道を変える。当然ながら、シン・キーランドは健在のまま。
これには流石のビルフレストも、驚愕せずには居られなかった。
殺気は十分に放っていた。太刀筋も、あらからさまものではない。
それでも彼に読まれていた。知られていた。理解に苦しむ話だが、シンはビルフレストの企みを退けて見せた。
事実、シンには見えている。自分が囮が織り交ぜるからこそ、理解している。
それは殺気だとか、目線だとかではなく。もっと深い所で、シンは本質を理解していた。
シンは皮肉にも自分の戦い方と、フェリーの命を幾度も奪おうとした事により人体の構造をある程度把握してしまっている。
故に、身体がどう動いているのか。動こうとしているのか。その重心が可動域で、瞬間的にシンは判断をしていた。
それは魔力を殆ど持たない。この世界に於いて脆弱な彼がここまで戦ってこられた礎となるもの。
彼の揺らがぬ意志と重ね続けた研鑽の賜物。シンは殺意の真贋を本質的に見抜いている。
同時に、シンは頭が冷えた。
眼の前を、ビルフレスト・エステレラを倒せば『暴食』も残滓だけの存在となるはず。
フェリーを危機から救う最短距離は、眼の前に存在していた。
「ビルフレスト・エステレラ。ここでお前を仕留める」
弾かれた世界を統べる魔剣はまだ完全にビルフレストの制御下に戻ってはいない。
その隙を狙って、シンは魔剣の腹に弾倉を潜り込ませる。
充填された魔導砲から形成されたのは、白色の流星による刃。
「出来るものなら、やってみるがいい!」
ビルフレストもまた、シンに強い苛立ちを覚えていた。
認めざるを得ない。何者でもない彼が、誰よりも脅威となっている事実に。
制御を取り戻した漆黒の刃が、白く輝く魔力の刃と交差する。
ぶつかり合うふたつの魔力が、二人の身体を反発するかの如く弾いていた。