390.『傲慢』なる存在
地理も不明瞭な中、フェリーを抱えたシンは空白の島を走り続けたシン。
辿り着いたのは薄暗い洞窟。人の気配を確かめた後、シンはでフェリーを下ろした。
「フェリー。大丈夫そうか?」
「うん、たぶん……」
物理的な距離か、時間の経過か。フェリーの中で躍動を続けていた胸のざわつきは収まりを見せている。
自らの胸に手を当てると少しだけ鼓動が早いが、それはきっと魔女の仕業ではない。
「ならいいんだ」
歯切れが悪いながらも、期待していた返答を得られた事でシンは安堵する。
フェリーがフローラを殺めるという最悪の事態は回避出来た。今はただ、それだけで十分だった。
「ごめんね、シン。えと、その……」
大きく息を吐くシンを前にして、フェリーは口元をもごもごとさせている。
しっかりと伝えたいのだが、乙女としての沽券に関わる。そう思うと、中々言い出せなかった。
「大丈夫だ。殿下の火傷はきっと治せる」
己を責めているのだろうと察したシンが、先手を打つ形でフォローを入れる。
「それもだいじなんだけど、そうじゃなくて……」
真面目というべきか、唐変木というべきか。それとも、一切気にしていなかったのか。
フェリーは問い質す事を諦めた。真相は闇の中へ葬られたが、それでいい。
現状ではもっと大切なものがあるという、裏返しなのだから。
「いやいや、イチャイチャしてる場合じゃないですってば」
水を差すかのようにフェリーの肩から顔を覗かせた存在。
それは流水の幻影の詠唱を破棄した結果、掌に収まる大きさとなったオリヴィアの分身だった。
「お、オリヴィアちゃん!? いつの間に……」
「ちょっと様子が怪しかったですからね、走り抜ける前にちょっとおジャマさせてもらいましたよ」
フェリーの掌にちょこんと乗りながら、オリヴィアは二本指を突き立てる。
なんとも微笑ましい光景に、自然とフェリーの口元が緩んでいた。
「フェリーさん、シンさん。フローラさまの火傷なら大丈夫です。
あれぐらいなら治癒魔術でどうにか出来ますから」
オリヴィアが流水の幻影を使ってまでシンとフェリーへ付いて回った理由はふたつ。
ひとつはフェリーの状況と、ついて回る事で空白の島の地形を把握する事だった。
そしてもうひとつが今語った通り、フローラの火傷が軽傷である事を伝える為。
「ホント? よかったぁ……」
オリヴィアからの連絡を受けて、フェリーはほっと胸を撫でおろす。
今は『傲慢』が身体を操っているとはいえ、フローラを取り戻す為に戦っている。
取り返しのつかない事態に陥る状況だけは、なんとか避ける事が出来た。
「シンさんが咄嗟に連れ去ってくれたからですね。ありがとうございます」
「ホントだよぉ。シン、ありがと」
「気にしなくてもいい」
礼を言うフェリーとオリヴィアを他所に、シンは『傲慢』へ報復を行った魔女を気にかけていた。
テランに始まり、『色欲』や『嫉妬』。そして今回の『傲慢』。魔女はどうにも、自分に触れられる者を嫌がっている。
ギランドレの遺跡でもそうだった。結果として表に出る事は無かったが、フェリーの胸中に違和感を残していた。
余程、自分に干渉されるのが嫌らしい。
(……違うか)
干渉をされたくないというよりは、興味がないというべきか。
魔女が求める人物は、ただ一人。イリシャ・リントリィだけなのだろう。
フェリーの内に潜む魔女の正体。荒唐無稽な話だが、シンは確信を持っている。
自分にとっては面識のない人物だが、他に考えられない。
ただ、腑に落ちない問題も残っている。どうして魔女はカランコエを燃やしたのか。
その答えだけは、本人の口から語ってもらう必要があるだろう。
答える日が来るかどうかは、別として。
「……シン?」
黙り込むシンを心配して、フェリーが顔を覗き込む。
もしかして、自分は重かったのだろうか。それが今になって、シンに影響を及ぼしているのではないだろうか。
的外れな心配をするフェリーを他所に、シンは彼女の言葉で我に返った。
「大丈夫だ。それよりもオリヴィア。そっちの様子は――」
イリシャの返答もまた得ていない。今、考えるべき事ではない。
頭を切り替えたシンは、オリヴィアに現状を確認する。
フローラは無事であっても、アメリアや他の仲間が危険だとすれば意味がない。
場合によっては、自分だけ引き返す可能性も視野に入れなくてはならない。
「フローラさまは、アメリアお姉さまと交戦中です。
わたしも援護したいんですけど、『傲慢』のせいでどうにも身体も魔術も重くて……」
小さな顔の皺を全て寄せ集めたような顔で、オリヴィアが悶える。
『傲慢』の能力。抑圧がまだ健在である事に、怒りを覚えていた。
「その状況で分身の制御は出来るのか?」
「あの隙に何とか魔術は発動させましたから。そちらはフローラさまから離れていますし、維持する分には問題ないかと」
意図せず分散した形になるが、オリヴィアのお陰で状況の把握だけは出来る。
王宮でビルフレストが攻めて来た時もそうだ。彼女の魔術には、本当に助けられている。
「そうか。なら、出来る限り情報の共有に務めてもらえないか?
もしもの時は、俺もそっちの援護へ戻る」
「わかりま――」
シンの要望にオリヴィアが頷こうとした瞬間。
凍り付くような殺気が、シンとフェリーへ襲い掛かる。
「シン!」
咄嗟に灼神と霰神へ手を伸ばすフェリー。
魔力による刃を形成するよりも早く、洞窟の中が眩い閃光に包まれる。
陽光とは比べ物にならない光を前にして、視界が真っ白に染まる。
目眩ましとして絶大な効果を誇る魔術、閃光。
かつてラヴィーヌが得意として魔術の、ひとつでもあった。
「ッ!」
乾いた音がふたつ、洞窟の中で反響する。
シンが咄嗟に魔導砲から、銃弾を二発撃ち込んだ証だった。
視界が光に覆われる直前。彼は確かに見た。視界の端に、黒衣を身に纏った長身の男を。
そこから先は、思考を経由する暇は殆どなかった。
咄嗟に左手で左眼を閉じ、視界が全て奪われる事を防ぐ。
右手に握られた魔導砲の照準は、勘と経験に基づくもの。
僅かに擦れた砂利の音。閃光による光の、正確な発現点。
それらの要素を頼りに、シンは牽制の銃弾を放つ。
「ここまで正確に撃つとは。大した芸当だな」
「やはりお前か……」
閃光から逃れていた左眼を、ゆっくりと開ける。
シンの瞳が捉えたのは、やはり黒衣の男だった。
足元には鋭利な刃物で斬られたかの如く、真っ二つに分かれた銃弾が転がっている。
刀身まで黒く染まった禍々しい魔剣、世界を統べる魔剣を手に聳え立つ男。
純粋なる悪意の権化、ビルフレスト・エステレラが二人の前へと立ちはだかる。
……*
「っ……。アメリアお姉さま。
シンさんとフェリーさんが、ビルフレストと遭遇しました」
偽物が放つ抑圧の影響下にあるオリヴィアは、息苦しそうにしている。
苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべながら、オリヴィアは流水の幻影の向こうにある景色をアメリアへ伝えた。
「なんですって……」
依然として偽物と剣戟を繰り広げていたアメリアの顔色が変わる。
偽物が放った抑圧は結果的に、自分達を分散させた。
一刻も早く、二人の援護へ向かわなくてはという焦りの色がアメリアの表情へと浮かび上がる。
「オリヴィアは、そのまま流水の幻影を維持してください。
まずはフローラ様をお救けして、すぐにシンさんたちの援護に――」
「出来もしないことを、言わないでくれるかしら?」
火傷でヒリつく左腕をだらんと垂らす偽物。
彼女の右腕には、同様の腕輪が身に説けられていた。
手首から伸びる魔術金属は鞭へと変貌し、アメリアの接近を許さない。
「それをこれから成し遂げようという話を、しているのです!」
だが、アメリアもまた焦りから自分の身体を更に一歩踏み込ませる。
抑圧の影響下では魔術も役に立たない。蒼龍王の神剣の加護を受けている自分が、どうにかしなくてはならない。
その想いは時間の経過と共に高まっていき、彼女の視界を僅かに狭めた。
「言うだけなら、誰にでも出来るわ」
右手首から繰り出される魔術金属の鞭。
偽物の攻撃を、アメリアは強引に潜り抜ける。
掠った部分でさえ激痛を訴えるが、無視をする。
この程度の痛みに足を止めている場合ではないと、アメリアは偽物の懐へと潜り込んだ。
「フローラ様、今――」
「私を殺す。と言うことかしら?」
フローラと同じ姿、同じ声から発せられる一言。たったそれだけで、眼前で神剣を構えるアメリアの動きが止まった。
偽物が咄嗟に呟いた言葉だというのに、金縛りに遭ったかのように身体が言う事を利かない。
「違いますよ、フローラさまを救うんですよ!」
抑圧に耐えながら、オリヴィアは声を張り上げる。
フローラの肉体を盾にとった行動は、とても許せるものではない。
「そうです、私は――」
「蒼龍王の神剣。邪神を滅する神剣で私を斬れば、都合よく邪神だけが消えると思っているのかしら?」
神剣を構えたまま、アメリアの動きが固まる。
淡い輝きを放つ蒼龍王の神剣の刃先へ、偽物はそっと指先を滑らせる。
裂けた指の腹から流れるのは、赤い血。人間と同じそれは、間違いなくミスリア第三王女のものだった。
「ほら、見えるでしょう? フローラ・メルクーリオ・ミスリアは傷付く。
けれど、『傲慢』は今もここにいる。その刃を振り下ろして、貴女の望む結果は訪れるのかしら?」
「っ……」
蒼龍王の神剣を握る力が弱まる。
自覚しているのに、アメリアは強く握り返す事が出来ない。
神剣はフローラの身体を傷付けた。その事実が、彼女の身体を硬直させる。
「お姉さま、ハッタリです! 『傲慢』は、自分が消えるのが嫌で言っているだけじゃないですか!」
「ええ、そうよ。私は消えるのが嫌。死ぬのも嫌。
けれど、それが結果的にフローラを護っているという結果に繋がっているじゃない。
オリヴィア、貴女も護衛なら優先するべき事項は何か分かっているでしょう?」
「っ! 卑怯ですよ!」
厭らしく口角を上げる偽物。
彼女の言う通り、フローラを蝕む『傲慢』が身を呈して護っているもの。
その中に、フローラの身体が含まれているのは否定しようがない。
(アメリア! フローラ! 私のことは構いません!
どうかこの邪神を討ってください! そのためなら――)
(つまらない虚勢は張らなくてもいいのですよ)
内側から叫ぶフローラへ対して、偽物が鼻で嗤う。
偽物は知っている。本当はそうならないと思っているからこそ、彼女が叫んでいる事を。
王女という立場で、前線で危険に身を晒す事もあった。
けれど、本質的にフローラは護られる立場にある。
いつもそうだ。自分だけは最悪の事態に陥らないという奢りが、無意識下で存在していた。
そのほんの些細な積み重ねが、『傲慢』が宿る隙を生み出した。
誰も気にしないようなものでさえ、悪意の詰められた『核』は貪りつくす。
妖精族の里で彼女が心から楽しんでいたのは想定外だったが、それでも悪意はここまで育つ事が出来た。
癒着した心臓から送り出される悪意は全身を駆け巡っている。
『傲慢』が顔を覗かせてからは、より顕著になる。
自分を出せという叫びそのものが、まだ自身を特別だと思い込んでいる証なのだから。
(貴女の本質は、庇護されると高を括っている。
そのために奮闘しているこの娘たちが、どうなるかという当たり前の想像から眼を逸らしながらね)
(待ちなさい! 何をするつもりなの!?)
意味深な言葉を並べる偽物は、宿主の声に応えない。
代わりに、眼前に広がる光景で更なる絶望を与えようとしていた。
「――ッ!?」
戸惑いを見せるアメリアに、強い衝撃が加わる。
思わず浮いた身体に、偽物の鞭が身体へ巻きつけられる。
「お姉さまっ!」
二人の外から事態を追っていたオリヴィアの眼は、一部始終を捉えていた。
突如現れた、真っ白な巨体。穢れを知らないその拳がアメリアへ打ち付けられ、拳が返り血で染められていた。
何が。とは今さら訊こうとは思わない。間違いなく、邪神の分体だった。
「ここれからが本番よ、アメリア」
偽物の右腕が天を衝くと同時に、魔術金属の鞭も天へと昇っていく。
身体の自由を奪われた状態でアメリアの眼が捉えたのは、共に厭らしく口角を上げる偽物と『傲慢』の姿だった。




