36.五者面談
太陽の光と、高い魔力で成長を遂げたアルフヘイムの森。
その中にある泉で、彼女は祈りを捧げていた。
木漏れ日を浴びながら、感謝と願いを己の神へと捧げる。
妖精族の里で造った果実酒に、小鳥の囀りと小動物の鳴き声を共に供えながら。
当然のように受け継がれ、先代も先々代も疑う事なく続けてきた日課。
自分が継承する事も当然だと理解はしている。その事自体に疑問はない。
しかし、最近こう思う事もある。
――私たちの神様は、本当に願いを聞き入れてくださっているのかな?
信仰する神に、毎日欠かす事なく献選している。ただ、一緒に捧げている願いは一向に叶わない。
先代と先々代は疑問に思わなかったのだろうか? そんな事ばかり考えてしまう。
……もしかすると、純粋に里の繁栄だけを願ったのかもしれないが。
そうだとすれば過去のみんなは純粋で、自分が不純だという気もしてくる。
でも。
彼女は、それが悪い事だとは思えなかった。
仲良くなった人間の女性だって、肯定してくれた。
逢った事がない神より、一緒に談笑してくれる友の話を信じたかった。
勿論、だからと言って信仰する神を裏切る気は毛頭ない。
これまで妖精族の繁栄があったのはレフライア神の導きがあったからだと信じている自分も、確かに存在するのだ。
いつものように祈りを捧げ、果実酒を地面へと吸わせる。
こうする事で妖精族の里で造られた果実酒を、大地を通して神へ届けていると言い伝えられているからだ。
芳醇な酒なので、自分も飲みたいぐらいなのだがあくまでこれは神餞。神様に飲んでもらうために大地へ浸み込ませる。
祈りを終えると、うっすらと汗が滲んでいる事に気が付いた。
体感ではそれほど暑いと思わないのだが、朝陽が強い日はこういう事もある。
このまま里に戻っても構わないのだが、目の前にあるのは美しい泉。
「……入っちゃお」
何も初めてではない。絶好の沐浴日和なのが悪い。
この景色が美しいので、祈りを捧げているが泉に神は宿っている訳ではない。
誰に言う訳でも無く、ひとしきりの言い訳を考えた彼女は身に纏う衣を脱ぎ始めた。
……*
「ねぇ、イリシャさーん。まだなのぉ?」
大樹の森を歩いているせいか、遠近感が狂ってしまう。
どれほど歩いたのか判らくなってしまったフェリーは、ついつい愚痴を漏らしてしまう。
まるで小人になった気分だった。
「慌てないの。もう少しよ」
そう、彼女がいる清めの泉まではもう少しだ。
フェリーはきっと相性がいい。彼女とも仲良くなれると思う。
シンは自分の時のように最初は警戒するかもしれない。
彼らにとって、こっち側は未知の世界なのだから当然だと思う。
警戒も度を過ぎると、相手への理解を拒絶しているだけだと気付いてくれればそれでいい。
こっち側も、悪いものではないのだから。
森の声を聴くように、耳を澄ませていると水の弾ける音する事に気付いた。
歩いている最中で初めて耳にする音。フェリーの胸は高鳴った。
「何か聞こえる!」
泉の場所を記憶しているイリシャも、当然気付いている。
「ええ、この先に彼女が居るはずよ」
「ほんと!?」
待ちきれないとフェリーの足取りが軽くなり、ついには走り出してしまった。
「ちょっと! フェリーちゃんってば!」
流石に見知らぬ人間が突然現れては彼女も警戒してしまう。
駆け足のフェリーを、イリシャは慌てて追いかけた。
「コケるなよ」
シンはため息を吐きながらも、見失わない程度に二人を追い掛けた。
「はあはあ……。もう、フェリーちゃん。いきなり走ると困るって……」
「えっへへー。ゴメンなさい」
イリシャが息を切らせながらも、フェリーに追い付く。
謝ってはいるが、反省はしていない。それはイリシャにも判った。
「もう、妖精族は排他的って言ったでしょ。
わたしがちゃんと紹介するから。
久しぶりね、リタ。わたしよ、イリシャ――」
「え?」
樹の幹から泉に姿を見せたイリシャの動きが止まる。
それが何故なのか、フェリーの位置からは判らない。
「イリシャさーん?」
イリシャが見ている景色を確かめるべく、フェリーは樹の陰から首を覗かせた。
「え? ええ?」
フェリーの瞳に映るのは泉に浸かる少女。
それも一糸纏わぬ、しなやかな肌を露わにした姿だった。
イリシャよりはやや色が濃いだろうか。それでも、美しい白銀の髪。
白く美しい肌は見ただけで滑らかで艶やかなのが判り、触れてみたくなる。
そんな肌を惜しげもなく、外の空気に晒している。
身体中に纏わりついた水滴が、木漏れ日に反射して綺麗な光を発する。
髪からちらりとはみ出す長く尖った耳が、彼女が妖精族だという事の証明。
例えるなら、風景画の一部と言っても差支えが無いほどに神秘的な光景だった。
絵本やお話で聴いただけの存在が、目の前にいる。
それだけでも感動ものなのだが、実物は想像よりも遥かに美しい。
フェリーはその姿に思わず見惚れてしまう。
「……ええ?」
しかし、見られているリタの方はそういう訳には行かなかった。
沐浴中で裸になっている姿を、嫁入り前の肌を、他人に晒してしまっているのだ。
一人は知り合い、もう一人は知らない少女。もう、驚きのあまり語彙が「え?」しか無くなってしまっている。
不幸中の幸いは、両方が女性である事だろうか。
「あ、えーっと……。ごめんね」
イリシャのその言葉で、リタは我に返る。
兎にも角にも、この状況はよろしくない。
「どうしたんだ?」
「あ゛っ!!」
間の悪い事に、シンが二人に追い付いた。
二人揃って動きが固まっていたせいで、彼は状況が判っていない。
「だめっ! シンはゼッタイだめっ!!」
慌てたフェリーがシンの元へ駆け寄り、手をバタバタをさせる。
彼女としては通行止めのつもりだったのだが、それが伝わる事は無かった。
「……何してるんだ?」
「えっと、それは……」
しどろもどろになるフェリー。
状況を伝えればシンは止まってくれるのだろうが、彼女の為に言うべきではないと思い口にするのは憚れた。
「と、とにかくシンはだめなのっ!」
「……?」
フェリーの思いとは裏腹に、シンは首を傾げる。
何か不測の事態が起きているのであれば、自分も確かめる必要がある。
そう判断し、彼女の横を通り過ぎていった。
「だめだってばーっ!!」
まさか止まってくれないと思い、フェリーはシンを羽交い絞めにする。
そのまま脇下から手を伸ばし、彼の顔を覆った。
「フェリー!? 何するんだ!?」
「だから! さっきからだめだって言ってるじゃん!」
「せめて説明しろ!」
「できないのっ!」
精一杯背伸びをしているせいでフラフラになりながらも、決して手を放しはしない。
最早あの少女の名誉を守る事よりも、他人の裸をシンに見せたくないというフェリーの意地の方が大きくなっていた。
「放せ……っ!」
「もう! シンの分からず屋!」
「だから……、それなら説明しろ!」
「ムーーリーー!!」
その光景をイリシャは「楽しそうねぇ」と微笑んで眺めている。
「たぶんもうちょっとだから、ガマンし――」
シンに体重を預けたり、地面に足を着けたりと繰り返しているうちにフェリーはあるモノに気が付いた。
視線の先にいる、もうひとつの人影。
目を凝らしてその姿をみると、それは『人』とは言い難かった。
パッと見の印象で言えば犬か狼が適切な表現なのだろうが、二足歩行で立っている。
体躯はこの大樹のせいでよく判らないが、シンより遥かに大きい事だけは判る。
3メートルは超えているだろうか。
下半身こそズボンを履いているが上半身は剥き出しだ。
それも真っ黒で筋肉質な身体。
幹に身体を預けているせいで、よく判らないが鼠色の毛が顔から背中。更には足にまで生えている。
もっと言うなれば、ズボンこそ履いているが素足だった。
その手には巨体に似合わない小さな花束を持っている。
大きく深呼吸をして、泉の方角へ頭を向けようと様子を伺っているのがフェリーにも判った。
「へ……ヘンタイーっ!」
覗きだ。そう判断した時には、フェリーは声を上げていた。
「へ、変態だと!? どこだ!? 許さんぞ!!」
狼男が大樹に隠していたその身を晒す。
フェリーが指している変態が自分だとは思っていない様子だった。
「アンタだーーーっ!!」
「余か!? 余は違うぞ! 決して変態などではない!」
フェリーと狼男のやり取りで、イリシャも彼の存在に気が付いたようだ。
「あら、レイバーン。久しぶりね」
さも当然のように、イリシャは眼前の狼男に手を振る。
妖精族のリタだけでなく、知り合いの獣人にも会う事が出来た。
これは話がスムーズに行きそうだ。
「む、イリシャか。久しぶりだな」
再会を懐かしむ時間も無く、泉から悲鳴が飛んで来る。
「レイバーン!? ちょっと! 見ないで、見ないでねっ!!」
「す、すまん! リタ!」
レイバーンと呼ばれた狼男は慌ててその背中を大樹の幹へとぴったりくっつける。
心なしか、その顔に紅葉を散らしているようにも見えた。
「え? イリシャさんも知り合いなの?」
「ええ。この子もわたしの知り合いよ」
まさかの知り合いに、フェリーが目を丸くする。
「だから、何が起きているんだ!?」
一人状況の判らないシンだけが、状況の説明を訴えていた。
……*
「じゃあ、紹介するわね」
リタが無事に服を着たので、一同が泉の前で囲むように座りあう。
フェリー、リタ、レイバーンの三名が気まずそうにしているが、状況が判っていないシンと、些末な事だと思っているイリシャだけが平常運転だった。
尤も、そのイリシャもフェリーとリタの様子を見て含み笑いをしていたのだが。
「こちら、妖精族のリタよ」
名前を呼ばれると、リタは恥ずかしさを振り払うように一度咳払いをした。
見た目はフェリーより若く見えるのだが、イリシャとは30歳程しか違わないと言っていた。
シンとフェリーからすれば大きな差なのだが、この場では少数派のようだ。
「リタ・レナータ・アルヴィオラです。いちおう、妖精族の女王をやっています」
「じょーおー? ……王様なの!?」
「そうは言っても、お飾りみたいなものですけどね」
彼女の話では妖精族は代々信仰しているレフライア神へ祈りを捧げる物が長となるそうだ。
全く政に関わらないわけではないが、特段大きな権限を持っているわけでもない。
どちらかと言えば、象徴としての意味合いが強いらしい。
「それで、その……」
リタはもじもじと両手を擦り合わせながら、シンとレイバーンを交互に見る。
「えっと、みて……ないですよね?」
「俺は見ていない」
シンが首を振る。リタはそれを聞いて安堵した。
流石に、この状況とリタの様子からシンにも何があったかもあらかたの予測はついていた。
「余も、余も見ておらんぞ!」
「……ほんと?」
過剰なまでに反応するレイバーンを、リタはじっと見つめる。
シンの時とは違い、リタ自身がその姿を確認したが故に疑っている様だった。
「本当だ! 誓って見ておらん!
変態を探していたのと、イリシャが居たのでそっちに気を取られていた!」
「むぅ……。わかった、信じる」
口ではそう言っているが、まだ疑っているのではないか。
そう思うと、レイバーンも気が気ではなかった。
「まあまあ、それは後で二人でやってね。
次はレイバーンの紹介をさせてもらうわ」
二人の間に座っているイリシャが手で制し、紹介を続ける。
「こっちはレイバーン。見ての通り、狼の獣人よ」
見た目がそのまま狼に酷似していたので口に出す事は無かったが、シンとフェリーは十分に驚いていた。
あっち側にも獣人は存在している。しかし、人間の血が濃いのか獣耳と尻尾が生えた程度なのだ。
眼の前にいる獣人レイバーンは、どちらかと魔物寄りにも見える。
「うむ。お初にお目にかかる。レイバーンだ。
魔獣族の王をしておるぞ!」
「……は?」
シンが思わず訊き返した。
「ん? もう一度自己紹介をすればいいのか?
余はレイバーン。魔獣族の王だ」
レイバーンはもう一度、はっきりと言った。魔獣族の王と。
それはつまり、彼が『魔王』であるという事。
「……イリシャさん、知ってたの?」
「そりゃ、挨拶するぐらいの仲だもの」
「えぇ……」
妖精族へ逢いに来たはずなのに、まさか魔王とも邂逅するとは思っても居なかった。
イリシャが平然とするぐらいなので、怖い存在ではないのだろうが……。
「魔王だからって、必要以上に警戒しなくてもいいのよ。
人間だって、良い王様と悪い王様がいるでしょう? それと同じよ」
「そうだ! 余は人間を襲った事など無いぞ! 今後もその予定は無い!」
腕を組み、胸を張ってレイバーンが答えた。
「……俺が、魔獣を殺していたとしてもか?」
レイバーンの眉が微かに動いた。
フェリーは「あっちゃー」と、頭を抱える。
同時に、少し腹も立った。
シンが『俺』と自分ひとりで抱えようとした事に対して。
「俺は、数か月前に双頭を持つ魔犬を殺している。
アンタに怨まれる理由は――」
「無いぞ」
シンに被せるように、レイバーンが言い切った。
「確かに余の配下にも双頭を持つ魔犬はいるが、ドナ山脈の向こうまでは関与しておらぬ。
それに、その魔犬はお前を襲ったのであろう?」
「ああ、そうだが……」
「ならば、余が怨むのも筋違いだ! そもそも、魔獣の王も余だけではないしな!
そりゃあ時にはお互い、割り切れぬ事もあるだろう。
しかし、襲われていたのでは迎撃するのが当然であろう。気にする事はない!
逆にお前と無関係な人間が、余を襲ったとしよう。それを返り討ちにすれば、お前は余を怨むのか?」
「いや、それは無いが……」
否定するシンを見て、レイバーンは大きな声で笑い飛ばした。
「そうだろうそうだろう!
だったら、この話はここまでだな!」
その様子を見ていたリタが、イリシャの膝をつつく。
「イリシャちゃん。あの人間、ちょっと変わってますね」
「ふふ、不器用なだけなのよ」
微笑むイリシャを見て、リタは「よく分からない」という顔をしていた。
毒気を抜かれポカンとするシンに向かって、フェリーは言った。
「シンのあんぽんたん」
シンには、フェリーの言わんとしている事が判らなかった。