388.妹の決意
アメリアの宣言と共に蒼く輝く、蒼龍王の神剣。
この瞬間。二人のフローラ・メルクーリオ・ミスリアは全く別の感情を胸に抱いていた。
内なる存在。透明な匣に閉じ込められた本物のフローラは、歓喜に打ちひしがれる。
自分と同じ姿、同じ声を持つ偽物を瞬く間に見抜いてくれた。
それは自分達の積み重ねて来た時間が真実だという、またとない証。
(アメリア、オリヴィア。私はここです。この者の中に閉じ込められているのです!)
フローラは透明な壁に何度も拳を打ち付ける。
だが、決してその声が皆に伝わる事はない。『傲慢』の、自分の偽物に全て吞み込まれてしまっていた。
『傲慢』が覚醒を果たした時から、もうずっとこの調子だ。
自分が他者を傷付ける様を、特等席で見せつけられている。
眼を逸らす事すら出来ないまま、自分の意にそぐわない話ばかりが進んでいく。
そんな最中に、自分を救出するべく皆が来てくれたのは本当に嬉しかった。
その一方で、大きな不安が脳裏を過る。
リタやレイバーンのように。王宮に居た大臣や使用人達のように。
姉妹同然の存在であるアメリアとオリヴィアが傷付けられてしまったら。
地獄のような光景をむざむざと見せつけられてしまうかもしれない。
(二人とも。無茶だけは、しないでください……)
その不安が、フローラを弱気にさせた。
どうか自らの身を案じて欲しいと、祈りを捧げる。
二人が決して自分を諦めるような性格ではないと知りながらも、そんな事しか出来ない自分がもどかしかった。
内に閉じ込められたフローラとは反対に、外側で相まみえる存在。
偽物は、アメリアとオリヴィアに苛立ちを覚えた。
理由は明白で、自分が本物のフローラではないと看過された件以外にはあり得ない。
尤も、正確に言えばそう断定された事が気に喰わない。
(人を偽物扱いして。私はフローラ。フローラ・メルクーリオ・ミスリア。
正真正銘、ミスリアの第三王女だというのに)
フローラに適合した『傲慢』が生み出した人格。
それはフローラであって、フローラではない。
彼女の記憶、知識、経験を有していながら、彼女が眼を背けて来た傲慢さが具現化したとも言える存在。
偽物にとっては、紛れもなく自分もフローラだった。
むしろ、美徳とされない感情。本心を身にまとっているのは自分だという自負さえもある。
(違うわ、フローラは私よ! 貴女は決して、私なんかじゃない!)
(そうやって認めないから――)
醜い感情が露呈した途端、それは抱いていはいけない。思ってはいけない。
そうやって蓋をしてきたからこそ、『傲慢』として覚醒を果たした時に人格が分離した。
偽物からすれば、自分の存在を認めようとしないフローラが許せない。
だからこそ、塗り潰す。
この身で自分の大切な者を破壊し、現実を突きつける。
「お前の持つ感情が引き起した悲劇だ」と。その時、二人のフローラはひとつになるだろう。
どちらが主人格となるかは、敢えて語る迄もないが。
「返すもなにも。私がフローラだと、何度説明をすれば判るのかしら?」
「一生判りませんよ。偽物なんですから!」
乾いた音が、静まり返った空間で鳴り響く。
オリヴィアが自らの指を鳴らしたものは、そのまま戦闘開始の合図となる。
「お姉さまっ」
「ええ、分かっています」
水の牢獄を用いて、まずは偽物から身体の自由を奪おうと試みるオリヴィア。
その間。アメリアは大地を蹴り、距離を詰めていく。
……*
フローラとの戦闘が始まると同時に、肉体を鬼族と結びつけられたスリットも行動を起こしていた。
だらんと開けられた口から涎を垂らしながら、トリスへと襲い掛かる。
「スリット! 眼を覚ませ……っ!」
賢人王の神杖を構えながらも、トリスは魔術の使用を躊躇する。
生半可な魔術ではスリットを止められない。けれど、全力で撃ってしまえば殺めてしまうかもしれない。
殺したくない。救いたい。
切なる願いは、トリスの身体を強張らせる。
その間も、人造鬼族と化したスリットが歩みを止める道理はない。
眼前へと迫る熱を帯びた赤い身体は、蒸気を発しながらトリスの頭上へと掲げられる。
「っ! スリット……!」
反射的に賢人王の神杖の先端がスリットへと向けられる。
神杖の先端で魔力が圧縮されているが、魔術としての体を成さない。
術者であるトリス自身の迷いが、発動に必要なイメージを阻害している。
「トリス!」
トリスの想いを知ってか知らぬか。スリットの腕は容赦なく振り下ろされる。
熱を帯びた腕が彼女へ襲い掛かるよりも僅かに早く、アルマはその間に身体を強引に潜り込む。
「ぐ、う……!」
「アルマ様!」
アルマに弾かれる形で尻餅をついたトリスは、見上げた先で広がる光景に顔を歪ませる。
スリットの腕を抑えつけてはいるが、肥大化により増幅した膂力はアルマの爪先を地面へと埋め込ませていた。
「大丈夫……だ!」
咄嗟にそう答えたアルマだが、状況は芳しくない。
赤腕から発せられる熱が、チリチリと皮膚を焦がそうとしている。
スリットから放たれる熱は、確実にアルマの力を削ぎつつあった。
(なんだ、この力は……)
発せられる熱だけではない。膂力も間違いなく、人間のそれではない。
押し負けまいと歯を食いしばるアルマだが、スリットにはまだ余裕がある。
「アルマくん!」
魔導接筒を接続し、フェリーは霰神による巨大な氷の刃を形成する。
トリスの兄だとはいえ、まずは動きを止めなくてはどうにもならない。
フェリーは巨大な氷壁と化した剣の腹を、スリットへと打ち付ける。
「止まって……よっ!」
殺さないように、動きを止める。フェリーの狙いは決して悪くはない。
ただ、彼女の想定以上にスリットの肉体は変貌を起こしていた。
「え、ええっ!?」
氷が触れた先から、水蒸気による煙が周囲を覆い尽くしていく。
多少動きを鈍らせる事には成功したが、スリットの動きを止めるには至らない。
「あ゛ぁ゛……?」
煙の向こう側で、スリットの眼光が怪しく光る。標的がフェリーへ移り変わろうとする瞬間に、シンは引鉄を引いていた。
動きを止める為に足を狙った弾丸は、シンの狙い通りの軌道を描く。
けれど、スリットの足を貫くには至らない。振れた瞬間から、彼の身体は弾丸を融かし尽くしていた。
「どういうことだ……」
流石のシンも驚きを隠せなかった。
霰神による氷も、銃弾さえも受け付けない灼熱の肉体。
どれだけの熱をスリットが帯びているのか、想像もつかない。
何より、そんな高熱を帯びた人間の傍にいるアルマとトリスが危険だった。
「アルマ、トリス。離れろ――」
シンが叫ぶよりも、スリットの方が一手早い。
抱え込んだ負荷を解き放つかのように、真っ赤に染まった身体は周囲一帯に熱を放つ。
瞬く間に、周囲一帯が真っ白な煙に覆われていく。
抱え込んでいたものを吐き出して、満面の笑みを浮かべるスリット。
辺り一帯は消え去り、何も残ってはいない。彼はそう、思い込んでいた。
周囲を覆う白い煙が、風に乗って流れていく。
その先に映る光景を目の当たりにしたスリットは、あからさまに不満を抱え込んだ表情へと変貌させていく。
「はぁ、はぁ……。あ、アブなかったぁ……」
肩で大きく息をするのは、霰神を地面に突き立てたフェリー。
『憤怒』との戦いを経て、似たような行動を目の当たりにした。防御をするべきだと本能が訴えていたのが功を奏する。
スリットがその身から熱を解放する直前。彼女は巨大な氷を生み出し、壁としてスリットの攻撃を阻んでいた。
周囲を舞う白い煙は、衝突により蒸発した氷から発せられたもの。
「すまない。フェリー・ハートニア」
「ううん、だいじょぶだよ。けど……。
すっごくオコってる……よね」
礼を言うトリスへの返事よりも、フェリーはスリットの様子が気になっていた。
明らかに、スリットは消化不良と言った顔をしている。収まる様子は決して見せない。
「スリット……」
トリスは兄の名を呟く。その表情は苦悩で歪められていた。
今の攻撃を見れば解る。スリットは本気で自分達を殺そうとしていた。
そして今も、それは変わらない。迷いがあるままで、どうにか出来る相手ではないと感じていた。
「すまない、スリット」
「トリス!?」
賢人王の神杖を構え直し、魔力を再び収束させるトリス。
彼女の様子に、アルマは驚きで眼を見開いた。
自分の所為で、兄妹が殺し合おうとしている。双方に恨みがないというのに。
その事実に、少年の心は耐えられそうになかった。
「駄目だ、トリス。スリットは君のことを思っていた。
決して殺し合うなんてことは、起きてはならない!」
どの口が言っているのか。そう思われても構わない。
アルマは兎に角、二人が殺し合う状況だけを避けたかった。
「ご安心ください、アルマ様。私も、スリットを諦めたつもりはありません。
ただ、このまま迷っていても向こうは止まってくれませんから。
まずは力づくでも、動きを止めます……」
その言葉に偽りがないと証明するかの如く。彼女の瞳は真っ直ぐにスリットの眼を見ていた。
変わり果てた姿の兄を救いだす。その手段を必死に考えながら、兄へと戦いを挑む。
「……分かった。僕も微力ながら、助太刀させてもらう」
「恩に切ります。アルマ様」
魔術金属の剣を構え、援護をするべくトリスの前に立つアルマ。
本来であれば、主君となるべき彼を矢面に立たせるなんて畏れ多い。けれど、トリスは素直に彼の厚意を受け入れた。
少しでも贖罪をする姿を受け入れて欲しい。彼の背中が、そう物語っていたから。
「シン・キーランド。フェリー・ハートニア。
スリットは私たちだけで十分だ。君たちはフローラ様を」
「分かった」
トリスの頼みを、シンは間髪入れずに受け入れる。
戸惑いを見せるフェリーだったが、シンの導かれるまま踵を返した。
「ねえ、シン。よかったの?」
「トリスの言う通り、俺たちはフローラ殿下の奪還に来た。
そっちを優先して欲しいのなら、そうしてやるべきだ」
「……うん」
数秒の沈黙の後、フェリーはシンの言葉に同意をした。
アメリアとオリヴィアが居るとはいえ、『傲慢』の分体もまだ姿を現していない。
人数を割くならばフローラの方だという考えは、至極真っ当なものだった。
加えて、二人には更に警戒するべき存在が残っている。
残る邪神の適合者であるビルフレスト・エステレラと、アルジェント・クリューソス。
更なる悪意との邂逅に備えて、シンは魔導弾を銃へと装填していた。
その弾頭は、透明な輝きを放っている。