385.姉妹の決意
「お姉さま……」
ネクトリア号の船室。その一室で、机の上に突っ伏している少女。
オリヴィアは、困惑混じりのようすで姉に助けを求めた。
「どうしましたか、オリヴィア」
蒼龍王の神剣の手入れを行っていたアメリアが、その手を止める。
顔を上げたオリヴィアは大層、困った表情をしている。
理由は解る。そんな顔になる気持ちも理解できる。
アメリア自身だって半信半疑なのだ。マギアでシン達が体験した話の内容。
そして、アルマが語ったフローラの中で渦巻いている『傲慢』については。
……*
マギアで起きた『憤怒』の最期を、シンは語った。
龍族のような外殻の向こう側から現れた、純白の子供。
その姿はとても悪意に染まっているようには思えず、最後にシンとフェリーを護ってくれた。
「それは、本当なのかい……?」
シンの話に最も驚いたのは、世界再生の民の頭目を務めていたアルマだった。
眼を見開く彼に対して、シンとフェリーは頷いて肯定をする。
「ああ」
「えと、シンの言う通りだよ。邪神の中に子供が居て、シンが救けようとしてたの。
……最後は、消えちゃったケド」
アルマの表情は変わらない。俄かには信じがたい話だった。
悪意と呪詛が煮詰められた存在。生まれた時からどす黒いものを纏っているはずの存在が、よもや真っ白な子供だとは。
だが、シンは続ける。自分が見たとても穢れているとは思えない子供の話を。
「俺の記憶違いでなければ、三日月島で邪神が顕現を果たそうとする時もそうだった。
あの時は過去へ移動したショックで見た夢かもしれないと思ったが。
邪神が手を伸ばしていたのかもしれない」
シンにとってあの白い子供は、夢だとしても突拍子もないものだった。
見た直後はうっすらと頭に残ってはいたが、深く気に留めるほどでもなかった。
状況が変わったのは、マギアで『憤怒』に手を差し伸べた時。
あの子供は消える間際、確かに笑みを浮かべた。悪意など、持っていなかったかのように。
後にマレットが、外殻を纏うからこそ染まらなかったのではないかと推測をした。
そこから導き出される答えは、アメリアとオリヴィアにとって希望となる。
「フローラもまだ、邪神の力に染まり切っていない可能性はある。
切り離すことは決して不可能じゃないはずだ」
「本当ですか!?」
降って沸いた希望を前に、アメリアは身を乗り出した。
シンは決して適当な事を言わないという信用が、彼女の瞳に光を灯す。
「確実にとは言い難い。だから、アルマの意見も聞きたい。
世界再生の民で何か、そういう話をしてはいなかったのか?」
「僕の知っている範囲では、顕現した邪神や分体がそんな形で表れているとは思ってもみなかった。
期待に応えることができず、すまない……」
「……そうか」
自らの前髪を無造作に掴みながら、アルマは下唇を噛みしめた。
何ひとつとして、知らされていない。情けない。
自分は本当に、扱いやすい御輿だったのだと思い知らされる。
「でしたら、せめて『核』の位置とかは……。
埋め込んだの、アルマ様なんですから。それぐらいは解りますよね?」
その位置さえ判れば色々と手段が見えてくるかもしれないと、オリヴィアが尋ねる。
すっかりと自信を無くしてしまいながらも、アルマは自分の知っている情報を彼女達へと伝えた。
「ビルフレストやマーカスの話に間違いが無ければ、植え付けた『核』は心臓で滞留をしている」
「マジですか……」
「心臓……ですか」
アメリアとオリヴィアは、同時に眉間に皺を寄せた。
これまでの前提として、邪神の適合者は身体の一部に『核』を移植している。
フローラの日常生活はおろか、これから先の人生に影響が出るかもしれないという重要な部分。
それでも『核』を破壊しなくてはならない。最悪は、『核』を切り離す事を優先しようとしていた。
けれど、結果は心臓ときた。いくらなんでも、切り離すには無理がある。
「だが、姉上はこれまでの適合者とは違う手段を用いている。
血液を介して、心臓へ辿り着いたはずだ。だから、姉上自身の心臓を『核』で置き換えたわけでは……」
「希望があるとすれば、そこ一点ですか……」
頭を悩ませるアメリアとオリヴィア。
正直に言うと、希望が全くないよりはマシといった様子だろうか。
シンの話もそうだ。あくまで彼らは邪神の分体の話をしている。
適合者であるフローラに、どこまで影響があるかは計り知れない。
「だが、このまま放っておいても悪化するばかりだ。
特に殿下が自らの意思で世界再生の民の元へ行ったとは思えない。
『傲慢』の影響を受けているのは間違いない」
「勿論ですよ。フローラさまが、ビルフレストなんかに自分の意思でついていくはずがないじゃないですか」
そう。だからこそ、不可解だった。
今までの適合者は、その人間性までもが大幅に変わることはなかった。
密偵として正体を隠していたサーニャは兎も角、ラヴィーヌに左程変化は見られない。
「ジーネスも、対して変わらなかったな……」
『怠惰』の適合者であるジーネスに関しても、トリスが太鼓判を押した。
苦笑する傍らで、時折辟易したような顔に代わるのは不思議で仕方なかったが、オリヴィアは敢えて深追いをしなかった。
「それを言うなら、ビルフレストもだ。少なくとも、僕の前では」
自身がなさそうにアルマも同意をする。
あまりにも仮面をかぶり過ぎて、ビルフレストに関しては本当の顔が見えてこない。
ただ、ずっとその振舞いを取り繕植えているのだ。精神性に影響が出ているとは思えなかった。
『強欲』の適合者であるアルジェントに関しては、前の姿が解らない。
『憤怒』の適合者であるコナーは多少なりとも変化を見せていたが、その濁った眼は変わらなかった。
彼は元より、そういう人間だった。積もりに積った憎しみの末、ああなってしまったと考えるべきだ。
「だとすれば、『傲慢』は他の適合者と勝手が違うのかもしれませんね」
三日月島で植え付けられた『核』は血液の中を巡り、心臓へと辿り着いた。
その悪意の欠片が、血と共に身体中を巡っていたとすれば。
フローラ自身の精神に悪影響を与えている、世界再生の民の元へ向かう原因に成り得るのではないか。
「それって、どうすればいいの……?」
今までとは明らかに勝手が違うと、フェリーは眉を下げた。
具体的に救い出す手段が全く見えてこない。状況がどれほど芳しくないかを、再認識させられる。
「分かりませんよ。わたしたちこそ、教えて欲しいぐらいですよ……」
「オリヴィア……」
ぽつりと弱音を吐いた直後。アメリアが彼女の袖を摘まみ、視線を促す。
その先には、表情に影を落とすアルマ。今回の責任を強く感じている証拠でもあった。
「……ですが」
アルマに気を使うように促されているのは解るが、オリヴィアは納得がいかない。
他者を気遣う姉の姿勢は素晴らしいと思っている。けれど、事の発端はアルマだ。
そのせいで、自分達が慕っているフローラに危機が訪れている。気を遣う必要があるとは思えなかった。
「アルマ様は後悔されているからこそ、共に空白の島へ向かっているのですよ」
「いや、いいんだ。オリヴィアの反応が正しい。僕は非難されて然るべき人間なのだから」
それでもと妹を諫めようとするアメリアを止めたのもまた、アルマだった。
今回の件でよく解った。ずっと傍にいた者の考えている事すら、自分は何ひとつ理解していなかったのだと。
彼からすれば、オリヴィアのような反応をしてもらえた方がありがたい。人の心の機微を、きちんと学び直す為にも。
「改めてアメリア、オリヴィア。本当にすまなかった。
姉上を救いだした上で、改めて正式に謝罪をさせてもらう。
だから、今はただ共に戦うことを許して欲しい」
自分の立場などどうでもいいと言わんばかりに。
深々と頭を下げるアルマを前にして、オリヴィアはそれ以上何も言えなかった。
……*
「……で、結局。具体的な計画を練る余裕はなかったんですよ」
邪神が純粋な、真っ白な子供だというのもあくまで分体の話。
適合者であるフローラがどうかは、未知数だ。
シンは「性格まで変わっているのであれば、分体と同じように精神は幼いかもしれない」と言っていたが、気休めだ。
第一、血液として身体中を巡っているというのなら『核』をどう取り除けばいいかも解らない。
「ベリアさんたちがどれだけ凌げるかも解らないのに、フローラさまを見つけて即回収! とはいきませんよね……」
元に戻す手段が分からない以上、迂闊にネクトリア号へは乗せられない。
船の上で暴れられてしまっては、回避しようがないのだから。
勢い任せに飛び出したはいいが、状況は最悪だと言わざるを得ない。
「最悪は無力化をして、連れ帰るのが一番でしょうね。
マレット博士ならあるいは……。と、思わなくもないですし」
「本当なら、ベルさんについてきて欲しかったですね」
この島が世界再生の民の本拠地でなければ。滞在する余裕があれば。
マレットが同行して、即座に対処して貰えたかもしれないというのに。
つくづく、状況は最悪なのだと思い知らされる。
「けれど、私は少しだけ安心をしましたよ」
「何がですか?」
今の状況で安心するようなものがどこにあったというのだろうか。
訝しむオリヴィアに対して、アメリアは僅かに笑みを浮かべた。
「マギアでのお話です。邪神の分体すらも救おうとしたのは驚きましたけど。
以前、シンさんたちが土の精霊から聞いた話は真実なのだと改めて思いました」
それは、過去にシン達が小人族の里で土の精霊と対話した時の話だった。
本来、神に善悪はないと土の精霊が語っていたという。
純白な子供の存在は、それを証明しているではないか。邪神と定義づけられた存在が、まだ悪意に染まる前の形として。
「だから、フローラ様が完全に悪意に支配されていないのなら。
シンさんやフェリーさんがしたように、私たちも救えるのではないでしょうか」
「もう。お姉さまには敵いませんね」
くすりと、オリヴィアが笑みを溢した。
この姉は人の清らかさに期待している節がある。人間の持つ善性を以て、それを護る為に剣を振るっている。
ビルフレストやマーカスのように、時にはそんな話が通用しないような外道も居る。
彼らは人の善意を容易く踏みにじる。
だからと言って、常に疑い続けるのも疲れる。それもまた、ひとつの真実だった。
ならば、都合のいい解釈かもしれないが信じるべきなのかもしれない。
どうせ諦めるつもりは毛頭ないのだ。どんな与太話でも、希望を持つ材料は多いに越した事がない。
「ずっと静まり返っているよりは、よほどいいでしょう?」
「仰る通りです」
二人は顔を合わせ、互いに笑い合って見せた。
この微かな希望が現実になるようにと、大海と救済の神へ祈りを込めながら。
……*
変化が起きたのはその翌日。
三基の魔導石を搭載したネクトリア号は、ついに空白の島を肉眼で捉えられる距離にまでたどり着く。
アルマの案内により、ネクトリア号は岩礁が取り除かれた場所へと進路を変える。
「ここから船で通れるはずだ」
「あいよ」
ベリアが腕まくりをした矢先。
世界再生の民もまた、当然ながら迎撃の体勢を整えていた。
岩礁をものともせず、空白の島から襲い掛かってくるのは龍族の群れ。
ビルフレストの指示を受け、黄龍の大群がネクトリア号へと襲い掛かる。
「……向こう出方を考えると、当然だな」
「あまり魔力を消費したくないんですけどね」
甲板に立つのは、トリスとオリヴィア。
魔術師である自分達ならば、船へ襲い掛かる前に対処が出来る。
そう思ったが故の行動だった。
「オリヴィアの言う通りだ。敵の数が多すぎる。
あまりここで、無闇に魔力を消耗するべきじゃない」
その中に、一人加わる男が居る。
魔術は扱えないが、遠距離への攻撃手段を持つ男。シン・キーランドが。
「シンさん」
「どうするつもりだ?」
二人より前に立つシンは、魔導砲を構える。
既に無尽蔵の魔力を持つフェリーにより充填は完了している。
後は引鉄を引くだけだった。
「一度に片付ける――」
充填した魔力の使用先は、予め決めてある。
マレットから弾の説明を受けた時、シンはこの弾に関してはあまりいい顔をしなかった。
それは決して威力が弱いからではない。自分の戦闘方法と、あまりあっているとは思えないからだった。
だが、今この場面なら。最大限の効果が得られる。
その一心の元、放たれたのは銀色の驟雨。
雨のように細かく分断された魔力の塊が、前方へ弾幕を張り巡らされる。
それはネクトリア号に近付く黄龍へ次々と撃ち込まれていく。
フェリーの魔力をふんだんに吸着した銀色の驟雨は、その一発とて軽いものとは言い難かった。
「今だ、突っ切れ!」
「分かった!」
黄龍の隊列が崩れたその瞬間。シンは声を張り上げる。
海へと落下していく黄龍を避けながら、ネクトリア号は決して速度を落とそうとはしない。
その先にある島。空白の島を目指してシン達は前へと進み続ける。




