383.王女と『傲慢』
鳥籠というにはあまりにも窮屈すぎる。
指の一本さえも外へ出せそうにない圧迫感は、匣の中と表現した方が正しいだろうか。
ミスリア第三王女。フローラ・メルクーリオ・ミスリアの体験している世界は、閉鎖的な空間。
手を伸ばして見せても、透明な壁が彼女を阻む。
これでは硝子張りの檻ではないかと、彼女は嘆いた。
(どうして……)
自分の意思とは関係なく、自分の身体は歩んでいく。
もう、ずっとそうだ。突然この窮屈な世界に閉じ込められては、自分の身体が行う蛮行を見せつけられていた。
崩れゆく王宮。恐れ慄く姉や使用人達の姿。
懸命に止めようとするリタやレイバーンを傷付ける自分。
その一部始終を、フローラは自分の内側から見ていた。
どれだけ「やめて」と叫んでも、口から言葉が出ない。
ただただ、己が持ち得た事など無い破壊衝動に身を任せる姿は異常だった。
そして今。フローラは黄龍の背に乗っている。
雲の上を駆け抜け辿り着いた先は、人々にとっては未開の地であるはずの場所だった。
彼女は今、足を踏み入れる。
空白の島。世界再生の民の、本拠地へと。
……*
小太りの中年が、嘗め回すような視線を向ける。
眼を背けたくても、抗えない。
彼の指が頬を撫でる。悍ましかった。
手を払いのけたくても、抗えない。
「適合の様子はどうだ、マーカス?」
頭上から聴こえてくるのは、低く冷たい男の声。
ビルフレスト・エステレラの口から発せられたものだと、すぐに解かった。
「適合は間違いなくしていますね。ただ、フローラ殿下とは佇まいが違うような……。
『核』が心臓で癒着をした証でしょうか」
「『傲慢』は今までと違う方法で適合させたからな。多少は影響があるかもしれない。
尤も、その方がこちらとしても都合は良いが」
(心臓!?)
ビルフレストとマーカスの会話を前に、フローラは硝子のように透明な壁を思わず叩く。
どれだけ全力で叩いても、壁はびくともしない。彼女はただただ、悪意が織りなす会話を無抵抗で聞かされる。
「本人を前にそのような発言は慎んだようが良いのではないですか?」
「これは失礼しました。王女殿下」
フンと鼻で嗤うのは、ストロベリーブロンドの髪を持つ美しい女性。
フローラ自身の口から発せられた言葉を前に、ビルフレストは口角を上げながら頭を下げた。
(違う! 喋っているのは、決して私ではないもの!)
何度も、何度も。フローラは透明な壁を叩き続ける。
その懸命な様子が外部へ伝わる事はない。無駄な努力だと思い知らされるだけだった。
ビルフレストとマーカス。そして、偽物の会話から判った事がある。
三日月島でアルマに刃を向けられた際。切っ先には邪神の『核』が塗り込まれていた。
傷口から侵入をした『核』は、微量なものだった。
血を巡り、辿り着いた先はフローラの心臓。そこを対の棲み処だとした『核』は、ゆっくりと成長をしていく。
やがて心臓と癒着した『核』は、同じ邪神の適合者であるビルフレスト。王宮へ侵入を果たした『暴食』の放つ悪意に共鳴をした。
発せられる膨大な悪意は、邪神にとっての栄養。瞬く間に、フローラは『傲慢』の適合者として覚醒を果たしたのだと。
けれど、ビルフレストの目論見からは多少なりとも外れている。
彼にとって最高の形は、妖精族の里で覚醒を果たす事だった。
覚醒の兆しすら見せなかったのは、あの集落がどれだけ平穏であるかを証明している。
「シン・キーランド……・フェリー・ハートニア……」
ビルフレストはその名を、ぽつりと呟いた。
事あるごとに彼らの存在が脳裏にちらつく。不愉快極まりない存在。
タガを外し過ぎたとはいえ、全ての発端となったピアリー。
邪神の顕現と創造。重大な部分を担っていたマーカスを一時的に失ったのは、世界再生の民を足止めするには効果的だった。
ギランドレを唆し、脅威と成り得る魔獣族の王を葬り、妖精族を手中に収めた時もそうだ。
彼らの介入により、目論見は失敗に終わる。
それどころか、本格的に妖精族と魔獣族が手を結ぶ。最終的には、小人族までも仲間へ加えている。
その集落は、余程平和なのだろう。
結果的に、フローラの中に潜む『傲慢』が成長を遂げなかった遠因となるぐらいなのだから。
苛立ちはまだ収まらない。
ミスリアの王宮で起きたフェリーとの戦闘。不老不死の身体を調べる絶好の機会さえも、彼は割って入って見せた。
結果的に『暴食』を移植したとはいえ、左腕を失った事は屈辱でしかない。
三日月島で邪神を顕現させた際もそうだ。国王の命こそ奪えたが、ビルフレストにとっては歯痒い結果に終わる。
漸く現人神としてこの世に姿を現した邪神が、不老不死の魔女によって消耗させられたのだから。
浮遊島も。クスタリム渓谷も。マギアも。
どれも一定の成果は得た。けれど、ビルフレストが思い描いた結果からは道を外れている。
不老不死の魔女の存在自体は兎も角、彼女が脅威となるのはまだ理解が出来る。
問題は彼女に付き添う男。神器はおろか、魔力すらも持ち得ていない。何者でもない男。
シン・キーランドの存在が、ビルフレスト・エステレラにとっては何よりの異物だった。
「ビルフレスト様。どうかされたのですか?」
「少し考えごとをしていただけだ」
様子がおかしいと声を掛けるマーカスに、ビルフレストは淡々と答えた。
シンがどれだけ邪魔をしてこようとも。まだ自分達には邪神の本体が残されている。
全てを破壊する悪意の化身であれば、ちっぽけな存在すらも呑み込むだろう。
強いて言えば、シン・キーランドの断末魔は、この瞳に焼き付けたいところだった。
(尤も、私自身で先に片を付けても良いのだがな)
そう。ビルフレストは、願わくば自分の手で彼を殺したかった。
自分と同じ、何者でもない男を否定する為に。
ビルフレストは己が持つ漆黒の左腕を強く握りしめる。
まだ完全に快復したとは言い難いが、吸収は使用できる。
「それで、ビルフレストのダンナァ。こっから、どうするつもりなんだ?」
(そうです。ビルフレストは、一体これから何をするつもりなの!?)
アルジェントの問いに、心の中へと閉じ込められたフローラは同意をした。
世界再生の民は世界中へ悪意をばら撒こうとしている。
外へ伝える手段は持ち得ていないが、せめて頭の中へと書き留めておきたい。
万が一。伝えられる場面が訪れた時の為に。
「まずは迎撃の体勢を整える。第三王女、それも王妃の直系が攫われた形なのだ。
砂漠の国と戦闘中とはいえ、必ず取り返しに来るだろう」
(……アメリア。オリヴィア)
自然と浮かんだのは、やはり姉妹のように育った二人の顔だった。
けれど、救けに来てほしいかと言われると複雑である。
ビルフレストの話では、アメリアは大怪我を負っている。
自分はいいから無理はしないで欲しいと、匣の中から祈りを送る。
「王都から出せる港は事前に潰している。数日の猶予は生まれるはずだ。
マーカス、その間にお前は――」
「ええ、勿論です。スリット・ステラリードですね」
言わずとも判ると頷くマーカスに、フローラは若干の苛立ちを見せた。
彼らが何を企んでいるのか、まるで分からない。
「スリットっちも大変だねェ。トリスっちが生きてたばっかりに」
笑みを浮かべるアルジェントだが、その顔は悪意により歪んでいるように見えた。
味方さえも容赦なく道具として扱う世界再生の民の様子に、フローラは身を震わせた。
「ビルフレスト。私は、どうすればいいのかしら?」
「王女殿下は、お好きなようにしてください。
囚われの姫を演じてもよろしいですし。もしくは――」
「言わなくてもいいわ。私、そちらを選ぶもの」
ビルフレストが言い終えるよりも先に、偽物の人差し指が彼の口を塞ぐ。
彼の瞳を通して映る自分の姿は、同一人物のものとは思えない妖艶な雰囲気を醸し出していた。
(な、なにを……)
匣の中に囚われたままのフローラは、またも透明な壁を強く叩いた。
手応えが全く得られない中で、偽物は彼女の思いとは真逆の答えを口にする。
「折角、こんな素敵な能力に目覚めたのだから。存分に振舞いたいじゃない。
私も前線に出るわ。その方が、貴方にとっても都合が良いのでしょう?」
「期待していますよ。王女殿下」
不敵な笑みを浮かべる偽物に対して、ビルフレストは跪く。
決して心からのものではないと、誰が見ても判る。だが、偽物はその姿勢が気に入っていた。
自分の目的の為なら何年だろうが隠し通す。真の悪意を持つ者の、佇まいに。
「畏まっちゃって。そんなに、私が欲しいのかしら?」
(え……っ!?)
長身の男を見下ろす偽物。彼女が発した言葉の意味が解らず、フローラは瞬きを繰り返す。
狭い匣の中で、胸騒ぎがする。ここから先に、話を進めて欲しくない。乙女の予感が、脳裏を過った。
「それはもう。貴女と、その背後にある魔術大国ミスリアが欲しいのです」
「その言葉、どこまで本当なのかしらね?」
ビルフレストと偽物は互いに視線を交わすと、納得をしたかのように笑みを浮かべた。
だが、フローラ本人は違う。そんな話を、到底受け入れられるはずもない。
(ま、待って! 勝手に決めないで頂戴!
私だって、アメリアみたいに恋がしたいというのに!)
王女という立場から、それが叶わないだろうと言う覚悟はしている。けれど、やはり相手は自分で選ばせてほしい。
よりにもよって、こんな悪意の塊が伴侶になるなんて勘弁こうむりたい。
匣の中で懸命に行われるフローラの抗議が、彼らへ伝わる事は無かった。
……*
夜になり、フローラにはとある部屋が与えられた。
きちんと整理整頓された部屋でこそあるが、誰かの私物があちこちに置かれている。
残された物から察するに、これはサーニャの部屋だったのではいかと推測をする。
「まあ、どちらでも構いませんが」
偽物はベッドへ腰掛けると、締め上げられた胸元を緩めた。
ふう。と一度息を吐き、彼女は内なる自分へと語り掛ける。
「さて、と。いるのでしょう? もう一人の私」
(気付いていたのですか!?)
周囲に人の気配はない。明らかに自分へ向けられた言葉に、フローラは眼を丸くした。
透明な匣から顔を上げると、そこには胸元を覗き込むようにする自分の顔が映し出される。
「勿論。私は、貴女から生まれたのよ。先刻の慌てふためく様、滑稽だったわ。
いいじゃない、ビルフレストも顔立ちは整っているのだし。
手慣れているでしょうから、色々と教えてもらえそうだもの」
(そういう問題じゃ! というか、私の顔でそんなことをしないで頂戴!)
舌なめずりをする偽物へ、フローラは声を張り上げる。
どうやら偽物はビルフレストの企み自体よりも、男に興味があるようだ。
まるで無邪気な子供が知らない遊びを覚えるかのように笑みを浮かべていた。
「欲望の赴くままに動きたいと、貴女も思っていたのでしょう?
私は貴女の気持ちを代弁してあげているだけじゃない。何が不満なの?」
(それは……)
偽物の言葉に、フローラは何も言い返せなかった。
確かに自分は、王女という立場から不自由なく過ごしてきた。
けれどそれは、ある意味では鳥籠の中に囚われた生活をしていた。
どれだけ欲を抱いても、発散するは叶わない。
だから、妖精族の里での毎日は本当に幸せだった。
ずっと続けばいいと、思えるぐらいに。
「平民では味わえない生活を堪能して、更に平民の生活を羨ましがる。
上の立場だからこそ持てる、独りよがりな思考。
私が衝動のままに破壊をするのも、知りたいと男を知ろうとするのも。
本質的には何も変わりはしないじゃない」
(ち、違います! 断じて私は!)
声を荒げるフローラだが、具体的に何が違うのかは説明が出来なかった。
ただ、偽物は違う。彼女は間違いなく、フローラ・メルクーリオ・ミスリアではないと断言が出来た。
「まあ、いいわ。どうせここからの主人格は私だもの。
貴女に私を理解してもらう時間は沢山ある。
一緒に知りましょう? この世にある、愉しいものを」
(……待ちなさい! 待ってください!)
まるで子供のような顔で無邪気に笑う偽物。
フローラが諫めようと声を荒げても、彼女へ届く事は無かった。




