35.アルフヘイムの森へ
イリシャの案内もあり、二人は遭難の心配が無くなった。
途中でドナ山脈特有の植物を採取している事もあり、ペース自体はゆっくりとしたものだが遭難するよりは遥かに良い。
それに彼女が採った野草を煎じたお茶や、食べられる木の実で作った料理は美味しい。
シンに至っては、イリシャが料理をする様子を熱心に勉強しているほどだった。
「イリシャさん、コレおいしい!」
「そうでしょ。疲労回復にもいいのよ」
「甘いしあったまるし、もうサイコー!」
フェリーが今、口にしているのは野草茶だ。
それにこの周辺で採取した樹液を溶かしており、彼女の舌を大層満足させている。
「イリシャさんって、なんでも知ってるよね」
「ポーションで生計を立ててるからね。この辺の植物は調べつくしているだけよ」
「それでもすごいよ。あたしなんか、全然見分けつかないモン」
そう言ってフェリーは採取した葉をつまみ上げる。
ひとつはロエの葉。火傷などの治療に使うと良いらしい。
もうひとつはイヨウの葉。煎じて飲むと胃薬になるらしい。
フェリーからすると、どっちも同じ葉っぱにしか見えない。
何なら、緑色で薄くて葉脈が通っていれば全部同じ葉っぱに見える。
シンも薬草や香草の知識は一通り持っているが、イリシャの話に関心をしていた。
きっと、彼も知らない事が沢山あるのだろう。
そう思うと、やっぱりすごい事なのだと思う。
「……そういえば、シンはドコまで行ったんだろ?」
ほんのり甘くなったお茶を啜りながら、フェリーは呟いた。
……*
エメラルドグリーンの水が流れる沢を見つけたので、シンはもしやと思い手を浸ける。
思った通りそれは温かく、冷え込んだ手の血流を加速させる。
先日入った温泉と、同様の物だろう。
有難いと思い、顔についた泥も洗い流す。
ふき取り損ねた雫が、顎を伝って地面へと落ちた。
この数日間、イリシャの案内に沿って山を下っていた。
本人が「庭みたいなものだから」と言うだけあって、迷いなく進んでいく様は頼りになった。
正直に言うと、変な行動を起こさないか注視もしていた。
しかし、彼女は不審な行動どころか色々な知識を授けてくれたのだ。
特に食べる事の出来る野草や、樹液。薬草の知識は今後の旅にも活かせるだろう。
自分も覚えがあったつもりだが、彼女の足元にも及ばなかった。
最初からずっと好意的に接してくれている彼女をしつこく疑っていた事を反省する。
「さと、と。そろそろ戻るか」
樹液を採取するために置いておいた小瓶を回収し、シンは二人の下へと戻る。
イリシャが夕飯の準備をしていたので、その匂いを辿るだけで簡単に帰る事が出来た。
……*
「ぬけ……たあーっ!!」
テンションの上がったフェリーが軽快な動きで山を駆け降りる。
イリシャの家を発ってから五日間、ついに反対側の麓へと到達したのだから無理もない。
「フェリー、気をつけろよ」
「わかってるってば!」
口ではそう言っているが、彼女のスピードは上がるばかりだ。
適当な返事にため息を吐き、シンは後を追った。
「あらあら、二人とも元気ねえ」
流石10年も旅をしていただけの事はある。
二人の動きについていこうとするには、イリシャには体力が足りない。
この五日間の旅をイリシャは思い返す。
最初のぎこちなさは自分のせいだろうから、反省はしている。
それでも、段々と自然体になっていく二人を見るのは楽しい。
フェリーに関しては寝る前にいつも「シンはね――」と彼の話をしてくれる。
よっぽど好きなのだろうな。と、微笑ましくもなる。
もしかすると、過去の自分も夫の事を嬉しそうに他人に話していたかもしれない。
道中のシンはというと、彼女の歩幅に合わせたり安全なルートを先行していたりしていた。
時には、さりげなく足場を固めたりすることもあった。
案外、紳士なのだな。と、ついつい感心をしてしまう。多少過保護なきらいもあるけれど。
しかし、ここからが本番だ。
魔術大国ミスリアのある、ラーシア大陸。
その北側はドナ山脈に阻まれて、人間の代わりに異種族の棲み処となっている。
人間の国家も存在こそしてはいるが、その規模は小さい。
ドナ山脈の異常気象が示すように、人間が暮らしていくには厳しい環境なのが大きな要因だ。
尤も、異種族が人間の国に馴染む事も大層なストレスらしいのでお互い様なのだが。
アルフヘイムの森へは、ここから一日程歩く必要がある。
イリシャの計画ではそこで二人と彼女を逢わせる事。
そして、それよりも先に言わなければならない事がある。
「二人とも、わたしを置いて行かないで~」
転がり落ちない程度の速さで、イリシャは二人を追いかけた。
……*
「前に見える森が、アルフヘイムの森よ。ちょっと距離があるから、ゆっくり歩きましょう。
このまま山沿いを西に向かって歩けば、ギランドレっていう国があるわよ。そこは人間の国ね。
あ、あとここから先は魔物も出てくるから、注意してね」
その言葉の通り、アルフヘイムの森への道中で魔物と二度遭遇した。
一度目は木の魔物。トレントだ。
これはシンが剣を構えている間にフェリーが魔導刃で斬り裂いてしまった。
二度目は兎の魔物、一角ウサギだった。
こっちはフェリーが「かわいい~♡」と言っている間に飛びかかってきたので、シンが慌てて斬り伏せた。
イリシャ曰く「ツノは色々便利だから採っておいてね」との事なので、角を斬り落とす。
「うーん」
フェリーが首を捻る。一角ウサギを斬った事を怒っている訳ではなさそうだった。
「なんかさ、魔物ちょっと強くない?」
彼女の言う通りだった。
どちらも苦戦こそはしなかったが、過去に戦った時より強く感じた。
「それはこっちの魔力濃度が高いからかしらね。
植物もだけど、魔力を宿した物はこっちだと成長しやすいのよ」
「なるほど」
うんうんと頷くフェリーだが、恐らく適当に相槌を打っている。
一方でシンは、その話から過去の出来事を回想していた。
ウェルカ領で戦った時の事だ。
下級悪魔や上級悪魔に比べて、明らかに双頭を持つ魔犬だけが強大な力を持っていた。
ヒエラルキーで見ても魔王の眷属である魔犬の方が上だと言われればそれまでだが、それでも力量の差が大きいように思えた。
ある仮設を立ててみる。
下級悪魔、上級悪魔は村人が変貌したから、あの強さ。
逆に双頭を持つ魔犬はこっちから召喚されたのではないだろうか。
確かめる術は、こっちで下級悪魔や上級悪魔と遭遇しないと判らない。
そんな状況は勘弁願いたいが、心の片隅に留めて置こうとシンは思う。
同時に脳裏を過ったのは、あの漆黒の球体。
フェリーの話では突然現れたと言っていた。
あれは一体なんだったのか。
そして、どこから来たのか。
答えは判らない。ただ、シンは球体も召喚術の類だと考えている。
こっちから召喚されたのではあれば、まだいい。
そうでないとすれば。そして、こっちでも同様の物が存在するとすれば――。
状況が状況だったとはいえ、跡形もなく消し飛ばしたのは失敗したかもしれない。
調査のしようが無くなってしまった。
シンは機会があればこっちでも漆黒の球体について情報を集める事にした。
「ところでイリシャさん。あれがアルフヘイムの森なんだよね?」
フェリーが指したのは、目の前にある森。
イリシャが紛れなくアルフヘイムの森と言った、その森。
「ええ。そうよ」
「なーんだ。一日も掛からなさそうだね」
この様子だと、一日なんて時間は必要ないと思った。
シンも、あの距離に一日は言い過ぎだろうと思っていた……のだが。
二人は気付かなかった。イリシャの含み笑いに。
「……あれ?」
歩けど歩けど、森の入り口は近付かない。
「ぜんっぜん着かないんだけど!?」
「だから言ったでしょ。一日は掛かるって」
「でも! あんなに目の前にあるのにぃ!」
フェリーは森に向かってぶんぶんと指を振る。
そこには変わらずそこに在り続けるアルフヘイムの森の姿があった。
「人避けの魔術でも使っているのか?」
「ふふ、まさか。すぐにそういう考え方になるのはシンの悪いクセね」
口元に手を当てて、イリシャは微笑む。
十分楽しませてもらったので、種明かしをする頃合いだった。
「さっき言ったでしょ、魔力濃度が高いって。
植物も成長しやすいとも言ったわ」
「まさか――」
「??」
シンは勘付いたようだが、フェリーは頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
「そう。アルフヘイムの森は、長い年月で大量に魔力を吸って巨大化しているのよ。
それこそ、遠近感が狂うぐらいにね」
「えっ!?」
イリシャが言うには、元々はこっち特有の樹でできた森らしい。
枝は魔術師の杖として世界中に出荷される程、魔力を通しやすい。
魔力を通しやすい性質を利用して、時には魔力を通して全力で防衛する砦となる。
人より多くの魔力を持つ妖精族が住み着くには、恰好の場所だったという訳だ。
「というわけで、まだまだ歩くからね。がんばろー!」
種明かしをしてすっきりしたイリシャが、右腕を天へ掲げた。
……*
それから野宿を一泊行い、アルフヘイムの森へたどり着いたのは翌朝の事だった。
眼前にある樹の幹に、言葉を失う。
間近で見れば巨大な壁だと思えるような太さだった。
「すっ……ごい」
フェリーに至っては、目の前に広がる景色に感動していた。
10年も旅をしているのに、まだ知らない世界が沢山ある。
絵本で読んだ空想より、もっと素敵な世界が存在しているのだと知って嬉しくなった。
「じゃあ、ここから入ったら妖精族に会えるの!?」
「うーん。確かにこの先に妖精族の集落はあるけど――」
イリシャはおもむろに進行方向を右へ変える。
「わたしたちが行くのはこっちよ」
「?」
どっちも同じ森で、二人には違いが判らない。
「なんで道を変えるんだろ? どっちも同じ森だよね??」
「いきなり、人間が三人も入ると面倒だったりするんじゃないのか?」
「あー、そっか。妖精族は人間がキライって言ってたっけ」
こっそりと入るつもりなのだろうか。
それはそれで、後で面倒な事になる気がする。
「違うってば。わたしの知り合いはこの時間だとこっちにいるの。
二人にも紹介するわ。とってもかわいい娘なのよ」
「なーんだ、そうなんだ。
イリシャさんの知り合いの妖精族、楽しみだなぁ」
妖精族に会うのは、これが正真正銘初めての出来事。
一体どんな娘なのだろう。自然と頬が緩んでしまう。
フェリーは期待で胸を躍らせていた。