379.王子の懇願
空を漂う黄龍。蛇のように長い背中には、二人の男が跨っている。
『暴食』の適合者、ビルフレスト・エステレラ。
『強欲』の適合者、アルジェント・クリューソス。
枯れ木に覆われた森を通過した所で、アルジェントが問いかける。
「なァ、ビルフレストのダンナ。アルマっちとサーニャっちに止めを刺さなくてもよかったのか?」
決して彼らに同情をしているという訳ではない。
アルジェント自身、自分の望みが叶わないと感じ簡単に切り捨てたのだから。
ただ、彼らは世界再生の民の中枢に近い人間でもあった。
生かしておくには危険すぎるのではないかと考える。
「私もそうしたいところだったが、あの場にいる者たちがそれを許さないだろう」
「まァ、仰る通りで」
ビルフレストの言う通りだった。仮にアルマとサーニャの命を奪おうとするならば、隙が生じる。
少なくとも、シン・キーランドは絶対に動く。止めるかどうかは兎も角、自分達の命を狙う危険性は非常に高かった。
何より、彼らの負傷も決して浅くはない。
得意としている魔術師に完封されたアルジェント。
王都で戦った三人の奮闘により、予想外の手傷を負ったビルフレスト。
継戦をするには危険が大きすぎる。撤退は決して、間違った判断ではない。
「それに、サーニャはもう虫の息だ。これ以上の手を下す必要もない。
こちらも最低限の成果は得た。ここから先は、砂漠の国の好きにすればいい」
「砂漠の国ねェ……」
なんとも心許ないものだと、アルジェントはため息混じりに呟いた。
世界再生の民に唆され、ミスリアへ宣戦布告をしたまでは良い。
だが、現状はどうだ。
吸血鬼族と鬼族。更に人造鬼族まで用いて、未だカッソ砦を攻略できていない。
無論、イルシオンを筆頭とする騎士団が奮戦をしているのはあるが、とんだ期待外れだと言わざるを得ない。
「マギアの進軍も阻止された。私とて、砂漠の国単体でどうにか出来るとは思っていない。
奴らはただ、時間を稼いでくれればいい。フローラ・メルクーリオ・ミスリアが完全に染まる時まで」
王都の結界を破り、王宮へ侵入を果たした『暴食』。
邪神の分体との接続を通して、ビルフレストは確信した。
三日月島で身体へ刻み込んだ邪神の『核』は、フローラ自身が意図しないところで育まれている。
後は彼女を世界再生の民へ迎え入れるだけ。アルマに代わる、新たな王の器が誕生をする。
アルマとは違う、悪意に染まった女王が。
……*
ウェルカ東部の森は先刻までの騒々しさから一転、風で枯葉が擦れる音さえ聴こえる程に静まり返る。
皆が皆、満身創痍だった。特に世界を統べる魔剣に貫かれたアメリアとサーニャの傷は深い。
「お姉さまっ!」
息も絶え絶えな姉の下へ、オリヴィアが駆け寄る。
アメリアの身体を起こした瞬間に、ぬめりとした感触が掌を覆う。
赤一色となった掌から漂う鉄の臭いが、どれほど危険な状態であるかを報せてくれていた。
「オリ……ヴィア。フローラ……さまを……」
瀕死の状態でありながら、姉が心配をしているのは自らの主君。
姉妹のように育った、フローラの存在だった。ビルフレストの言葉通りであるなら、彼女は『傲慢』の適合者にさせられている。
悪意に翻弄されるよりも先に、なんとしても彼女を救いださなくてはならない。
アメリアの忠誠心と、慈愛の心。そして救済の神剣を持つという責任感から漏れた言葉は、本心からのものだった。
「分かってます、分かってますけど! まずはお姉さまを治療しないと!」
オリヴィアも当然、切迫している状況だというのは把握している。
そもそも、自分が三日月島でフローラに庇われたのが発端だ。護衛失格どころの騒ぎではない。
救いださなければ、一生後悔をしてしまう。
けれど、姉には自分自身の心配をして欲しかった。
オリヴィアにとっては、血の繋がった大切な存在。心から尊敬し、憧れた存在。
彼女を失うこともまた、受け入れられるはずがない。
自分に残っている魔力で、アメリアの傷を治療できる自身はない。
けれど、やらない選択肢は存在していない。例え魔力が枯渇をしても、傷だけは塞ぐ。
渾身の祈りと願いを込めながら治癒魔術を唱えようとした時だった。
倒れたアメリアを抱えようと身を屈めたオリヴィアよりも。
オリヴィアの膝に乗せられたアメリアの頭よりも。
更に低い位置に存在する頭がひとつ。ミスリア第一王子。アルマ・マルテ・ミスリアが、額を地面へと擦りつける。
「頼む、サーニャを! サーニャを救けてくれ……!
僕はどうなってもいい! だから、サーニャを……!」
何度も、何度も。嗚咽を混じらせながらも大きな声で、アルマは頼み込む。
顔は隠れているが、涙を流していると気付かせるには十分だった。
オリヴィアは視線を僅かに、サーニャへと向けた。
雪で覆われた地面が、アメリア以上に赤く染まっている。
意識は既になく、呼吸で僅かに胸が膨らんでいる事自体が奇跡のように思えてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! わたしはまず、お姉さまを……!」
「分かっている。けれど、このままだとサーニャが死んでしまうんだ……!」
顔を上げたアルマの目元に、光が反射する。大粒の涙が浮かんでいる証。
地に擦りつけられた額は、擦り傷によって赤く染まっていた。
「わたしたちを殺そうとしておいて、勝手なこと言わないでくださいよ!
それにお姉さまを治療しても、フローラさまの元へ行かないといけないんですから!」
アルマの身勝手な言動を前にして、オリヴィアは苦悩で表情を歪めた。
王子相手でも、ここは一歩も引けない。自分だって今の状況は切羽詰まっている。
アメリアの治療すらもままならないかもしれないというのに、とても誰かを慮るような余裕が残っているはずもない。
「すまない、すまない……。いくら罵ってくれても構わない。償いはなんでもする。
だから、だからサーニャだけは……!」
自分がどんな行いをしてきたかはアルマも承知の上だった。
オリヴィアが治癒魔術を使ってくれるはずがないと、頭の中では理解している。
それでも彼は、治癒魔術の使える者に縋るしかなかった。
「大切な女性なんだ……!」
「――っ」
アルマが悲痛な声を絞りだす度に、オリヴィアの胸が締め付けられるようだった。
息絶えようとするサーニャの様子を見なければ、ぐしゃぐしゃに歪んだアルマの顔を見なければ。そんな後悔さえ浮かび上がってくる。
確かにサーニャはミスリアを、自分達を裏切った。ナイフで腹部を刺された時なんて、全くの無警戒だった。
それ程までに、オリヴィアは彼女を信頼していた。友人だとさえ思っていた。
少し記憶を遡るだけで楽しかった思い出がいくらでも蘇ってくる。
本音を言えば救ってあげたい。けれど、残り僅かな魔力で救えるのはアメリアかサーニャの片方だけ。
正直に言うとそれすらも怪しい。だから、これほどまでに辛い思いをしてしまう。
「ずるい……ですよ。わたしに選ばせるなんて……!」
オリヴィアは苦悩を吐き捨てるかのように呟いた。寒さとは別の要因で、手がカタカタと震えていた。
ぐるぐると色んな思考が回る。治癒魔術を使う為のイメージが練り込めない。
既にアメリアも反応が鈍くなっているというのに。このままではどちらも救えない。
更なる苦悩がオリヴィアへ振りかかろうとした時、彼女の前に立ったのはシンだった。
「シンさん……?」
不意に自分を覆う影を前にして、オリヴィアは顔を上げる。
瞳が捉えたシンの姿は歪んで見えた。いつしか自分の眼も潤っていたらしい。
そんな様子を気にする事なく、シンはオリヴィアへと問う。
「どうするべきかじゃなくて、オリヴィアはどうしたい?」
治癒魔術はおろか、魔術のひとつも使えない青年の問い。
言ったところで何かが変わるとは思えない。それでもオリヴィアは、その問いに答えた。
「全部救いたいに決まってるじゃないですか!
お姉さまも、フローラさまも! サーニャだって、ずっとフォスター家に居てくれたんですよ!
死んでほしいなんて、思うはずがないじゃないですか!
けど、今のわたしじゃ出来ないんですよ……! 悔しいけど、これが現実なんです……」
思いの丈を解き放つオリヴィア。彼女の言葉に嘘偽りはない。
それが分かったからこそ、シンは己に出来る事をする為に立ち上がった。
「分かった。オリヴィアはアメリアの治療を頼む。
そっちの女は、俺が出来る限り対応してみる」
「え……?」
徐にアルマと顔を合わせようとするシンが何を言っているのか解らなくて、オリヴィアは僅かに硬直をする。
アルマもまた、同じ反応を見せていた。魔術の使えない彼がしようとしているものが判らず、ただ顔を見上げるだけ。
「出来るだけ止血をしてみせる。傷を塞ぎ次第、マナ・ライドで街へ向かう。ここよりはマシなはずだ。
けれど、救かる保証はない。仮に救かったとしても、傷痕は残るだろう」
自分の怪我を手当した事はあるが、どこまで出来るかは判らない。
すでに大量の血が流れている。手遅れかもしれない。
シンが提案をしたのは、あくまで僅かな希望を繋ぐ為のものに過ぎない。
「間に合わなかった時、傷痕が残った時。恨むなら俺を恨め。
オリヴィアの選択肢を奪ったのは俺だ」
「シンさん……」
真意を理解したオリヴィアが、下唇をきゅっと噛む。
彼は決断できなかった自分の代わりに全ての責任を負おうとしている。
その上で、僅かな可能性に賭けようとしている。ならば、自分も出来る事をしなくてはならない。
治癒魔術を唱えるべく、オリヴィアは魔力を振り絞っていく。いつしか手の震えは、止まっていた。
「あんなこと、言ってますけど」
割れた頭を止血するべく、フェリーに包帯を巻かれているピースが尋ねる。
「うん。でも、シンはいっつもあんな感じだから。
いつもはあんぽんたんって言うけど、今日は違うかな」
フェリーにとっては驚く部分はなにひとつない。なんとなくそうするだろうと思っていた。
治療を施すという話ではない。きっと、誰かの為に出来る事を試みるに違いない。
そんな彼が大好きなのだから、誇らしいとさえ思えた。
「あ、ああ。解った。頼む、シン・キーランド……!」
まだ頭が混乱するアルマだったが、迷う理由はどこにもない。
救かる可能性が僅かでもあるのならばと頭を下げる。
「出来る限りのことは、やってみよう」
不安と懇願の入り混じった表情を見せるアルマへ、シンが頷く。
止血をするべくサーニャの元へと歩みを寄せるシン。
そんな彼に影響をされる人物がひとり。賢人王の神杖の継承者である、トリス・ステラリード。
「出来る限りのこと……」
アルマがオリヴィアへ懇願する最中。
トリスは魔力が枯渇をした自分では、何も力になれないと思っていた。
けれど、それは誤りではないのかと考え直す。
魔力の使えないシンは、それでも懸命に他者を救おうとしている。
自分がしているのはただの思考の停止ではないのか。何か出来る事が残っているのではないだろう。
自問自答の末、トリスは自分の持つ可能性に気が付いた。
思いつきで、成功する保証はない。一方で試さない理由もない。
自分を暖かく迎えてくれたネクトリア号やライルのように、この神杖ならあるいは。
「オリヴィア、アルマ様。ご相談があります」
僅かな希望を胸に、トリスは立ち上がる。
訝しむオリヴィアと不安で顔を歪めるアルマへ、トリスはひとつの提案をした。
「この神器。賢人王の神杖は、魔術を拡張させることが出来る。
さっきはアルジェントが放った颶風砕衝へ介入をしてみせた」
「あ、ああ……」
「トリスさん、まさか……」
眉を顰めるアルマに対して、オリヴィアは流石と言ったところだろうか。
直ぐに彼女の目論んでいる内容を察した。話が早くて助かると、トリスは頷く。
「賢人王の神杖を用いて、オリヴィアの治癒魔術を二人へ分け与えたい。
ただ、私は魔力が枯渇しているし、オリヴィアも心許ない。アルマ様の魔力をお借りしたいのですが……」
「本当にそんなことが……」
不意に差し出された希望を前に、アルマの瞳に輝きが生まれる。
「あくまで可能性です。成功する保証は全くありません」
「それでもいい! 僕から使えるものがあるのなら、是非使って欲しい!」
二つ返事で了承をするアルマ。残るは治癒魔術を唱える張本人であるオリヴィアの反応だった。
失敗をすれば、アメリアへ危険が及ぶ。彼女としては、慎重にならざるを得ない。
「……オリヴィア」
オリヴィアの袖が、不意に引っ張られる。
治癒魔術を唱えながら悩み続けるオリヴィアへ協力を促したのは、ほかならぬアメリアだった。
「お姉さま……。判りました。
そうですよね、両方救いたいのは、わたしですもんね」
軽く微笑む姉を前にして、オリヴィアは腹を括った。
きっとうまく行く。その祈りが神へ届く様にと願いながら。
「……いきます」
賢人王の神杖を抱えたトリスが、精一杯の祈りを込める。
次の瞬間、暖かな光がアルマとオリヴィアを覆う。思いが融け込んでいくような、不思議な感覚だった。
……*
下らない人生に幕を閉じる時が来た。
結局、自分は何も得られなかった。もう、それでも構わない。
けれど、せめてアルマだけは。自分の大切な男性だけは、何かを得て欲しい。
自分を忘れるぐらいの幸運を得て欲しい。今際の際でサーニャは、神へと願った。
それから間もなくの事だった。自分を呼ぶ声が聴こえたのは。
いよいよお迎えが来たのだと、彼女は手を伸ばす。
少し骨ばっていて自分より大きな手が握り返したところで、サーニャは瞼を持ち上げた。
「サーニャ……!」
「アルマ……様……?」
残った右眼がぼんやりと景色を写す。
ピントが合っていなくても、声で判る。眼前に居るのは、アルマだと。
(ワタシ、生きている……?)
彼の握る力は強く、少し痛いぐらいだった。けれど、『生』を実感させてくれる。
何より、心地よかった。アルマの手のぬくもりが。
「あの、ワタシ……。どうして……」
「トリスとオリヴィアが治癒魔術で救けてくれたんだ。
それまでは、シン・キーランドがずっと止血をしてくれていた」
「どう、して……」
サーニャは理解が及ばなかった。敵である自分を、皆が救おうとするのだろうかと。
混乱を極める彼女の問いに答えるべく、眼前にオリヴィアが立ちはだかる。
「わたし、まだサーニャにちゃんと謝ってもらってませんから。
誤ってもらう前に、死なれたら困るんですよ」
「素直じゃないな……」
苦笑交じりに、トリスが声を漏らす。
オリヴィアの頭がぐるりと回るが、トリスは咄嗟に目を逸らした。
「アルマ様がお前を救ってほしいと懇願したんだ。
少なくとも私は応えたに過ぎない。感謝は、アルマ様にしてくれ」
「そうだったんですか……。ワタシのために、ありがとうございます……」
申し訳なさそうに礼を言うサーニャへ対して、アルマは首を左右に振る。
あくまで自分の我儘だと伝えた上で、彼はサーニャの右手を包み込むように握った。
「違うんだ、サーニャ。僕が君に居なくなって欲しくないだけなんだ。
もう僕は、きっと君が望むものを与えてはやれない。
けれど、どうか僕と一緒に居て欲しい……」
アルマの脳裏に浮かぶのは、アルジェントの言葉。
価値の無くなった自分から、サーニャも離れてしまうかもしれない。
それでも一緒に居て欲しい。真摯な想いを、はっきりと口にした。
「アルマ様……」
包まれているからこそ、サーニャには判る。
アルマの手は微かに震えている。怖いのだ、拒絶される事を。
そんな必要はないのにと苦笑をしながら、サーニャは残る左手で彼の手を更に覆った。
「いえ、望むものはもう頂いていますよ」
そう微笑む彼女の顔は、とても穏やかなものだった。