375.純然たる悪意の持ち主
その男の存在に、誰もが眼を疑った。
圧倒的な威圧感を放つ黒衣の男。ビルフレスト・エステレラがどうしてこの場に居るのかを。
彼の手にはアルマの手から離れた世界を統べる魔剣が握られている。
引き抜かれた漆黒の刃はアメリアとサーニャの血を吸い、涎のように鮮血を地面へと滴らせた。
「か、はっ……。ビルフレスト……様……」
どうしてこの場に。王都での戦いはどうなったというのか。
次々と浮かんで来る疑問を、深く考えるだけの余裕はなかった。
彼は自分を切り捨てる判断をした。その事実だけが、重くのしかかる。
「ビルフレスト……さん。どういう……つもりですか……!」
サーニャは己の身体を支えきれず、アメリアへ全体重を預ける。
下敷きとなったままのアメリアは、同じく大量の出血を流しながら苦痛に歪んだ顔をビルフレストへ向ける。
その眼差しには、明確な怒りが込められていた。
「それを貴殿が気にする必要はないだろう」
淡々と世界を統べる魔剣を振り上げながら、ビルフレストは吐き捨てる。
彼にとっては、アメリア・フォスターを仕留めるまたとない機会だった。
彼女の息の根を止める事は、ミスリアの士気にも大きく影響する。今ここで、生かしておく理由はない。
「僕にはある! ビルフレスト、どういうつもりなんだ!?
自分のしたことが判っているのか!?」
「アルマ……様……」
待ったを掛けるかのように声を荒げたのは、アルマだった。
サーニャは邪神の適合者。世界再生の民に於いても、重要な存在を担っている。
何より、アルマにとって最も大切な女性だった。臣下であるビルフレストの蛮行は、とても受け入れられるものではない。
「勿論ですよ、アルマ様。アメリア・フォスターを葬るまたとない機会。見過ごす理由はないでしょう」
「僕が訊きたいのは、サーニャを傷付けた理由だ! それに、どうして君がここにいるんだ!?」
「無論、お教えすることは構いませぬが――」
会話の隙に妙な気を起こされてはつまらないと、ビルフレストは漆黒の刃を振り下ろす。
アメリアへ覆いかぶさるサーニャごと両断せんと振るわれた刃を止めたのは、魔力によって発生した障壁だった。
「ずっと頭が混乱しぱなっしですけど、絶対にお姉さまをやらせたりはしませんから……!」
障壁の正体は残る僅かな魔力を振り絞り、『羽・盾型』を起動するオリヴィア。
間一髪、ビルフレストの一撃を止める事は出来た。だが、それだけだった。
「オリヴィア・フォスターか。同じものを、テランが操っていたな」
ビルフレストはオリヴィアを一瞥する。
たったそれだけの事で、オリヴィアの全身に鳥肌が立つ。
「ええ、そうですよ。どっちもとある天才に造ってもらいましたから」
決して気迫で負けてはならないと強がるオリヴィアだったが、嫌な感覚が身体に纏わりついて離れない。
今に限った話ではない。オリヴィアは昔から、ビルフレストが苦手だった。
長身で、顔も整っていて、家柄もしっかりしている。
ただ街中を歩くだけで黄色い声援が飛び交う彼は、今のアメリアと近い立場に居た。
疑う余地など一切なかった、好青年を完璧に演じ切っていた。
だからこそ、オリヴィアは気持ち悪かった。ミスリアに伝わる三本の神器は、彼を選ばなかったのだから。
その理由は彼がミスリアを襲撃したあの日に、漸く納得した。
虎視眈々と企んでいた悪意を、神器は見抜いていたのだ。
彼の本性を見抜けなかったのは、上辺ばかりを見ていた人間達だけ。
「そうか」
『羽』を造った天才が誰かなどと、ビルフレストは今更問うつもりがない。
マギアの生んだ天才発明家、ベル・マレット。世界再生の民へ引き入れる事が出来なかったのは、今でも惜しいと感じている。
彼女が仲間に入っていれば、今頃邪神は誰の手にも負えない程に成長を遂げていただろうに。
「だが、無意味だ。この程度の壁で、止められると思うな」
「っ……!」
自らの剣を受け止めた『羽・盾型』だが、ビルフレストは全く脅威に感じていない。
たった一度の交差で本体に亀裂が走っている。次の一振りで、オリヴィアの持つ『羽・盾型』は呆気なく砕かれてしまう。
「なら、こっちはどうだ!」
『羽・盾型』の破壊と入れ替わるようにして、翠色の刃が襲い掛かる。
朦朧とする意識の中、懸命にピースが『羽・強襲型』を操っていた。
「報告で聞いていた、攻撃をする型か。随分と、趣があるものだ」
四方八方に跳び回る『羽・強襲型』を、ビルフレストは確実にひとつずつ砕いていく。
飛び回る羽虫を叩き落すかの如く、瞬く間に『羽』は全ての機能を失った。
しかし、ビルフレストの表情は芳しくない。
余計な邪魔が入ったせいで、時間を与えてしまった。アメリア・フォスターを立ち上がらせる時間を。
「ビルフレストさん。どうして、サーニャまで……!」
蒼龍王の神剣の切っ先を向け、ビルフレストと相対するアメリア。
彼女が真っ先に怒りを向けたのは、仲間であるはずのサーニャ諸共攻撃をした事だった。
「そうだ、ビルフレスト! 返答次第によっては、例え君でも許さないぞ!」
アメリア同様に声を荒げるアルマ。
敵と味方の双方から向けられる同じ問いを前に、ビルフレストは口を開いた。
「『許さない』ですか。アルマ様、お忘れですか? 私たちの目的を。
貴方を王として君臨させる為、世界再生の民は存在しているのです。
その為なら、自らが犠牲になっても構わない。高い忠誠心の下、私たちは戦っているのですよ」
「ならば、ジーネスをどうして殺したのですか!?
逃げたラヴィーヌも命を落としたと聞いています。一体、何が起きたというのですか!?」
会話に割って入ったのは、トリスだった。
魔力が枯渇する中。無力だと自覚しながら、声を張り上げる。
そんな彼女の姿を見て、ビルフレストは微かだが眉を動かした。
「ラヴィーヌめ。仕留めたと報告をしていたではないか」
ビルフレストを除く全員が息を呑む。
ぽつりと呟いた彼の言葉は、明らかな自白だった。
浮遊島から離れたラヴィーヌは、ビルフレストの元へ舞い戻っていたのだと。
「ビルフレスト、どういうことだ……っ!」
サーニャだけではない。ジーネスも、ラヴィーヌも。その死にはビルフレストが関わっている。
到底受け入れられるものではない。真実を知ったアルマの怒りは頂点に達しようとしていた。
「アルマ様こそ、どうしたというのです。貴方とて、どんな犠牲も払う覚悟でいたでしょうに。
悍ましいものを、醜いものを見て。穢れたもの全てを破壊するために、そう誓ったはずでしょう。
お父上だって、手を下したのは貴方だ」
「それは貴方が……、そう、育てたから……でしょうに……!」
気を抜けば一瞬で意識を失いそうになる中、血に伏せたままのサーニャが声を張り上げる。
もう疑う余地はない。ビルフレストは自分だけでなく、アルマ様も切り捨てようとしている。
自分はまだいい。どうせ下らない人生だった。
けれど、アルマは違う。この男に歪まされた。
幼少期から弄ばれ続け、最後には裏切られる。そんな結末を認めてなるものかと、サーニャは最後の力を振り絞った。
「レヴィ……アタン……ッ!」
サーニャは初めて神へ祈りを捧げた。
自分の全てを供物として捧げてもいい。だから、あの男へ天罰を下して欲しいと。
勝算だってある。いくら祈りを捧げても、声が届いているかさえ判らない神とは違う。
人が創りし存在だとしても、邪神はこの世に現人神として顕現した。その分体が、自分の手の中に居る。
サーニャの命を受けた『嫉妬』は、傷だらけの身体を起こした。
「無駄だ」
けれど、トリスの姿を見た時と違いビルフレストの表情に変化はない。
事実、拳を握り締めていたはずの『嫉妬』はビルフレストの目前で足を止めてしまう。
「『嫉妬』……!? どうして……っ!?」
まるで何が起きたのか理解できないと狼狽えるサーニャ。
そんな彼女に絶望を与えるかの如く、ビルフレストは世界を統べる魔剣を掲げる。
正確には、刀身の根本に埋め込まれた石榴色の石を見せつけていた。
「この石には、邪神の分体を制御する機能が備わっている。サーニャ、お前の『嫉妬』をだ」
世界を統べる魔剣の刀身に埋め込まれた『核』は、マーカスがマギアでの経験を元に改良を重ねたもの。
マギアでは『憤怒』を操る魔石として実験していたが、魔導石を模倣する事でその機能を強化する。
傷付き、力の弱まった適合者が抗える余地は存在していない。
「そ、んな……。うそ、でしょう……。『嫉妬』! 適合者は、ワタシですよ!」
何度呼びかけても、『嫉妬』はサーニャの声に応えない。
邪神の分体が奪われてしまったと狼狽するサーニャに残されたのは、悪夢を持つ左眼だけだった。
「なら――」
「その左眼も、もう不要だな」
だがビルフレストもまた、サーニャの持つ邪神の能力を警戒していた。
瞬く間に距離を詰め、剣を振るう。漆黒の剣先が、彼女の左眼を抉り取っていた。
「――ッ!!」
声にならない悲鳴を上げるサーニャ。
視界の左半分が失われ、ビルフレストの身体が隠れる。
どんな風に殺されるのか判らないまま、自分の人生はここで終わるのだと覚悟をした。
「サーニャ!」
(アルマ様……)
遠くで自分の名を呼ぶ声が聴こえる。アルマの声だった。
今際の際に彼の姿を一目見ようとしたサーニャだったが、残った右眼は別の姿を視界に捉える。
自分と同じように身体を赤く染め、青色の髪を靡かせる背中。
アメリア・フォスターが、力を振り絞ってビルフレストへと立ち向かっていた。
「ビルフレストさん……。貴方は、貴方こそが!」
霞む視界。崩れようとする膝。アメリアは悲鳴を上げている自分の身体へ鞭を打つ。
真の悪意はこの男だ。ここで止めなくてはならないと、命を懸命に燃やしていく。
「ああ、私にとっても貴殿は邪魔だ。ここで確実に、死んでもらう」
神剣と魔剣がぶつかる。アルマの時とは違い、負傷したアメリアでは世界を統べる魔剣の一撃を受け止めきれない。
剣戟に圧され、防戦一方となる中。不意に彼女の腹部へ衝撃が走る。
「――ッ!」
「お姉さまっ!」
世界を統べる魔剣に貫かれた傷が広がり、立っていられなくなったアメリアが膝をつく。
そのまま彼女を斬り伏せんと、ビルフレストは漆黒の刃を振り下ろした。
「反応が鈍いぞ。ミスリア最強の騎士の称号が、泣いているぞ」
「元より、そんな称号に価値を感じては……いません……!」
全体重を乗せたビルフレストの一撃に、アメリアは押し込まれていく。
世界を統べる魔剣を受け止めている蒼龍王の神剣の刃が、自らの肩へと組み込もうとした時。
アルマが二人の戦いに割って入ろうとする。
「ビルフレスト! 君は! 君だけは、絶対に許さない!」
腰に刺した魔術金属の剣を抜き、アルマはビルフレストへ迫る。
怒りを込められた一撃がビルフレストに当たる事はなかったが、彼をアメリアから引き離すという結果へは繋がった。
「許さない? それは私の台詞ですよ、アルマ様。
貴方は変わられた。決して変わってはならない方向へ。
だからこそ、私もこのような行動をとらざるを得なかったのですから」
「どういう意味だ!?」
剣を構えながら、呼吸を整えるアルマ。
ビルフレストの真意がわからない。ただ、彼がサーニャを一瞥した事は気に入らなかった。
「全てはサーニャが原因でしょう。初めは、貴方の心の調整役を引き受けていただけのはずだった。
けれど、それは劇薬でもあった。お父上を斬り捨てた時の貴方は、もういない。
サーニャによって、持つ必要のない感情を沢山学んだ。その結果が、この様です」
世界を統べる魔剣に埋め込まれた『核』が怪しく光る。
ビルフレストの命を受け、『嫉妬』が眼光をアルマへと向けた。
「なにを……!」
「昔の。私によって教育されていた頃の貴方と、今の貴方の違いを身をもって体験させてあげますよ」
『嫉妬』の左眼は、アルマの記憶を読み取る。
その結果、現れたのは彼の父。ネストルの姿だった。
「陛下……。アルマ様……」
「これって……」
互いに剣を交差させる父と子の姿。
三日月島での出来事なのだと、改めて問う必要はなかった。
アルマだけではない。アメリアやオリヴィア、トリスにとっても顔を背けたくなるような過去が映し出される。
『嫉妬』の持つ幻影によって、アルマの抱いた後悔が暴露されていく。
それは決してネストルの件だけではない。この先アメリアやオリヴィアさえも巻き込んだものが公開される事を、彼女達はまだ知らない。




