372.知らされる真実
心を落ち着けるように、オリヴィアは深呼吸を何度も繰り返す。
冬の冷たい空気を肺へ取り込む事で、催していた吐き気は徐々に収まりを見せた。
「オリヴィア。大丈夫ですか……?」
依然として顔色が悪いままのオリヴィアを、アメリアが気遣う。
たったそれだけの事が感慨深くて、オリヴィアは眼にいっぱいの涙を浮かべた。
「……お姉さまっ!」
「ちょ、ちょっと。オリヴィア、戦闘中ですよ!」
両腕を広げ、愛しの姉へと力の限り抱き着くオリヴィア。
驚きながらも妹を窘めるアメリアだが、彼女は一向に離す気配を見せない。
それどころか、益々力が強くなっている。
「分かってます。分かってますけど!」
アメリアは離れるように促すが、決して力づくで引き剥がそうとはしない。
自分を罵倒する姉の姿も、自分に斬りかかる姉の姿も存在していない。
それはオリヴィアにとって、現実へ戻ってきたのだと教えてくれる何よりの証拠でもあった。
「……仕方ないのない子ですね」
ため息を吐きながらも、アメリアは妹の頭を一度だけ撫でた。
サーニャの左眼が持つ悪夢の能力は、自分の焦りを誘う為に彼女自身から聞かされている。
計らずともそれが嘘ではない事を知ってしまった形となる。
(ありがとうございます。蒼龍王の神剣。それに、大海と救済の神様……)
もしも蒼龍王の神剣が救済の神剣として生まれ変わらなければ、オリヴィアの心は壊れていたかもしれない。
そう思うだけで、ゾッとする。アメリアは、神剣を通して大海と救済の神へと礼を告げた。
「どうやら、完全に邪神の力を断ち切ることが出来るみたいですね……」
標的をピースへ切り替えた時点で、サーニャはアメリアが辿り着く事は覚悟していた。
それでもやはり、驚いてしまう。神器の持つ強大な力に。
オリヴィアやトリスの様子を見る限り、悪夢の術中には間違いなく嵌っていた。
現に今も万全とは言い難い。けれど、脱出を果たした。ピースのように自力でもなく、外因によって。
(『嫉妬』でどこまでゴリ押せるかですね)
手負いとはいえ相手は四人。対して、こちらは自分と『嫉妬』のみ。
共に邪神の能力を有しているが為、アメリアへの立ち回りは細心の注意を払わなくてはならない。
アルジェントにいつまで寝ているのだと言いたくもなるが、起きない以上は戦力としてカウントできない。
能力が通用しないアメリアと、自力での復活を果たしたピース。
サーニャにとってこの二人を警戒しないといけない状況は変わらない。
逆に言えば、この戦いはアメリアとピースさえ封じれば勝利は目前だった。
「なら、まずはこちらでしょう」
『嫉妬』の幻影による過去の暴露は諦めた。
まずは数の不利を減らすべく、サーニャは『嫉妬』へ命令を下した。
「うわっ!?」
強靭な身体の中でもとくに発達した巨腕が、ピースを空中へと放り投げる。
落下したところへ強烈な一撃を繰り広げようと、『嫉妬』は拳へ力を集中させていた。
「少年!」「ピースさん!」
このままではピースが危ないと、救出の為に大地を蹴りだすアメリア。
一方、魔術師であるオリヴィアとトリスは『嫉妬』を止めるべく魔術を放つ。
しかし、『嫉妬』を止めるには至らない。放たれた魔術は淡い石榴色の身体に触れるが、全くのダメージを与えられていない。
「えっ……?」
「どういうことだ……」
想定よりも低い威力で放たれた魔術に、オリヴィアとトリスは互いの顔を見合わせる。
思えば、先刻の凍撃の槍もそうだ。全力で放ったにも関わらず、表面に薄く氷を張るに留めている。
この気怠さは悪夢による精神的な疲労だけではない。魔力もごっそりと失っている事に、改めて気がついた。
「無駄ですよ。ワタシの能力の、副作用なんですから」
『嫉妬』の持つ悪夢は、本質的には治癒魔術と同じ原理で動いている。
本人のものとは異なる魔力が病原菌のように結合し、本人の持つ魔力で用いて記憶から悪夢を精製していく。
故に彼女達が見ていた悪夢は再生されるごとに、本人達から魔力を奪い取っていた。
「ピースさんっ……!」
アメリアはピースが空中の頂点に達したと同時に、頭をフル回転させていた。
魔術師による攻撃は威力が足りない。自分が駆け付けるのは間に合わない。
『羽・銃撃型』は破壊されてしまった。
残る選択肢は必然的に、自分が魔術を放つというものに絞られていく。
強力な魔術は練り上げるだけの時間がない。
水の牢獄で果たして、邪神の分体を止められるだろうか。
それでもやらないよりはマシだと左手で水を精製しようとした瞬間。
サーニャを護るべく、彼が姿を現した。
「――っ!?」
枯れ木の向こう側から。幹ごと自分を断とうという、鋭い一閃。
薄く伸びた闇のような太刀筋を前に、アメリアは反射的に蒼龍王の神剣で受ける。
漆黒の刃が放つ威力を前に、アメリアの身体が浮く。
スローモーションのように倒れる幹。徐々に露わになっていく剣の持ち主を、アメリアは見間違うはずもなかった。
「ア、ルマ……様……っ!」
ミスリア第一王子。アルマ・マルテ・ミスリア。
世界再生の民の頭目である彼が、この戦場へと姿を現した。
世界を統べる魔剣に込められた力を、アルマは自らの魔力で鍵を開けるかの如く引き出していく。
対して蒼龍王の神剣で受け止めるアメリアだが、魔剣の威力を受け止めるには準備が整っていない。
迸る魔力は衝撃波を生み、アメリアの身体を大きく吹き飛ばしていく。
「サーニャ! 無事か!?」
「アルマ様……!」
邪神を討つ英雄という役目を持っている彼が、『嫉妬』を顕現させている自分の心配をする。
本来であれば許されない状況だが、サーニャは彼の気持ちが嬉しかった。
「完璧ですと言いたいところでしたが、本当のところを言うと助かりました。ありがとうございます」
アルマが来てくれた。更に、世界を統べる魔剣は神器にも決して劣っていない。
勝機が見えて来たと、サーニャにもまた力が漲ってくるようだった。
元々この場には、真実を知っている者以外は存在していない。
速攻で始末してしまえば、アルマの正体が明るみに出る事は無かった。
「そうか。間に合って良かった……」
自分と別れた時よりも汚れているサーニャの様子に、アルマは胸を痛めた。
強引にでも行動を共にしておけばと、後悔が頭を過る。
けれど、間に合ったのならばいくらでも取り返しが効く。
世界を統べる魔剣を構え直しながら、アルマはオリヴィアの方へと向き直る。
そこで彼は、信じられないという顔をした。死んだと聞かされた少女が、生きているという状況に。
「トリス……。生きていたのか……」
「アルマ様……。はい、私は。トリス・ステラリードは生きています」
「ならば、どうして戻って来ない!? 何故、ミスリアと共に戦っているんだ!?」
眼を疑いたくなるような状況に、アルマは声を荒げる。
生きているのなら、戻ってきて欲しかった。どうしてミスリアと共闘しているのか、まるで理解できない。
トリスもまた、現状に困惑の色を隠せないでいる。
ラヴィーヌが自分を操ったのは、ジーネスを始末する為。
その命令を下したのは、彼女が心酔しているビルフレストだろう。
けれど、アルマも了承しての事だったのか。訊かずには居られなかった。
「アルマ様。ジー……」
「ジーネスも、ラヴィーヌも! 黄龍王もカタラクト島の戦いで失った!
君も死んだと思っていた……。双子の兄も、ずっと悲しんでいるんだぞ!」
「っ……」
自分が問うまでもなく、今の発言でトリスはジーネスの命を狙った者を察した。
ジーネスの暗殺にアルマは関与していない。ラヴィーヌの。正確に言えば、ビルフレストの独断だろう。
「待ってくれ。ラヴィーヌって『色欲』の適合者だろ?
アイツなら、黄龍に乗って逃げていったぞ」
上空から聴こえる少年の声に、全員が視線を集める。
待ち構えていた『嫉妬』から逃げるべく、ピースは咄嗟に『羽』をかき集める。
移動時のように板状に薄く延ばされた『羽』へ乗りながら、ピースは声を上げていた。
「誰だ君は……? 第一、出鱈目を言うな!
ビルフレストは言った。浮遊島を奪取すべく、カタラクト島へ向かった者は皆名誉の戦死を遂げたと!」
この中で唯一、ラヴィーヌの死を知っていたサーニャが神妙な顔つきをする。
きっと、トリスが生きている事はビルフレストにとっても想定外なのだ。
「ラヴィーヌが……?」
「死んだ……?」
一方でラヴィーヌの死を知らされたオリヴィアやトリスにも衝撃が走る。
アルマの口振りでは、彼は直接遺体を見てはいないだろう。つまり、ビルフレストの言葉を鵜呑みした事となる。
ピースの証言が正しい事は、その場に居たアメリアも知っている。
確かにラヴィーヌは浮遊島から逃げきったのだ。そんな彼女の帰還を、アルマは知らない。
トリス同様にラヴィーヌが生き延びている可能性もゼロではないだろう。
だが、ビルフレストに心酔している彼女が世界再生の民へ戻らないなんてありえない。
状況から考えられるのは、彼女は黄龍諸共始末されたのだ。
塵ひとつ残さずに可能とする手段が存在する事を、皆が知っている。
ビルフレスト・エステレラの左手。『暴食』が持つ、吸収。
張り詰めた空気が、漂う冷気を更に冷たいものへと変えていく。
誰よりも強い悪意を持つ者が誰なのか判った気がする。
「アルマ様。ラヴィーヌがカタラクト島から離脱したのは真実です。
それに、彼女は貴方たちの仲間。『怠惰』の適合者の命を奪いました。
ピースさんが庇わなければ、そのままトリスさんも……」
カタラクト島で実際に交戦したアメリアが、出来るだけ落ち着いた声色でアルマへ語り掛ける。
もしかすると、真に戦うべき相手が絞られるかもしれない。淡い期待を胸に抱きながら、説得を試みた。
「……ラヴィーヌが、ジーネスとトリスを? そんなはずはない!
ジーネスだって、僕たちの仲間だ! そんなことをするはずがないだろう!
そうだろう? サーニャ!」
アルマも知っている。アメリアが決して、そんな下らない嘘を吐くような人間ではないと。
だからこそ、彼は取り乱してしまう。ミスリアを、世界を統べる為の組織だというのに、仲間内で命を奪っているだなんて考えたくなかった。
「……サーニャ」
縋るような眼を向けるアルマの前に、サーニャは沈黙を保つ。
彼女は今、迷っている。構えていた『嫉妬』が静止しているのも、心境の煽りを受けてのものだった。
アルマの知らないビルフレストをサーニャは知っている。彼は不要となれば、迷わず部下を切り捨てる。
ある意味ではジーネスが最たるものだった。『怠惰』の持つ破棄は、世界再生の民内でも効果的だ。
謀反を恐れたビルフレストが始末を試みるのも、ある意味では必然とも考えられる。
ラヴィーヌに関しては、邪神の能力が吸収で取り込めないかという実験を兼ねたようにも見受けられるが。
問題はここで「ビルフレストが仲間すらも欺いていた」と語っていいものなのか。
そうすれば、ミスリアの矛先はビルフレストへ集中するかもしれない。
けれど、自分が欲しい者は決して手に入らないだろう。最悪、昔よりも酷い扱いになる可能性だって考えられる。
何より、サーニャはアルマの身を案じていた。極刑だってあり得る。そんな事は到底、受け入れられない。
自らが望むものはなんなのかと自問自答した時、サーニャの中で結論が出た。