369.『嫉妬』の魔眼
頭に靄が掛かったような感覚の中、オリヴィアは痛みに耐えていた。
雨雲から降り注ぐ雨が、視界を闇一面で覆い尽くす。
足元はぬかるんでおり、打ち付けられた水滴が聴覚をも奪っていた。
寒いのは身体が冷えているからだけではない。
自らの腹部から止めどなく流れる血が、雨へと溶け込んでいる。
痛みはおろか感覚すら判らないけれど、明確に『死』が近付いていると理解できた。
「私の命が欲しいなら、持っていきなさい。
その代わり、オリヴィアは見逃して」
あれだけ雨の音が鬱陶しかったのに、その声だけははっきりと聴こえた。
ミスリア第三王女、フローラ・メルクーリオ・ミスリア。自分が護るべき者。主君。姉のような存在。
(フローラさま……っ!)
オリヴィアは漸く思い出した。自分達は今、追われているのだ。
負傷した追手に代わって、主君であるフローラが自分の盾になろうとしている。
「だ……っ」
止めなくてはならない。命の重さが、釣り合っていない。
駄目だと言おうとしても、声が出来ない。
いくら喉に力を込めても、単語のひとつすら絞り出せない。
オリヴィアの頬に雨とは違う雫が触れる。
雨の流れる方向とは別に水飛沫が散った証だった。
それが刃を振り上げられたものだと気付いた時には、もう遅かった。
「フ――」
声が出ない。刃は振り下ろされる。最期の瞬間、フローラは自分の方を向いていた。
心配を掛けまいと浮かべた笑みは、『死』への恐怖の元で絞り出したものだとすぐに判った。
新たな雫がオリヴィアの頬へと飛び散る。闇に溶け込んでいても、それが血液だという事は疑いようもなかった。
次の瞬間、オリヴィアは声にならない悲痛な叫びを上げていた。
これは何かの間違いだ。現実であるはずがない。
彼女は何度も、頭の中で繰り返し呟いていた。
……*
「……はっ!」
勢いよくベッドから身体を起こすのは、オリヴィアだった。
恐ろしい夢を見た。到底受け入れられないような、悪夢。
服が透ける程にかいた寝汗が、状況を物語っている。
「なんなんですか、もう……」
呼吸を落ち着かせながら、オリヴィアは口元を手で覆う。
嫌悪感からの吐き気を、どうにか抑えようとしていた。
夢にしても悪趣味が過ぎる。自分に破滅願望はないというのに。
明るく元気にがモットー。アメリアだって、フローラだってそんな自分を好いてくれている。
こんな嫌な気分は湿った服と共に洗い流して、気分を一新してしまおう。
「うん。やっぱり、夢ですよね」
着替える際、自分の腹部にそっと手を当ててみる。
いつも通り、滑らかな肌触り。傷など作った事はないし、作る予定もない。
全く以てあんな夢を見た理由が理解できないとぼやきながら、オリヴィアは自分の部屋を後にした。
「アメリア。お前も判っているだろう?
先方だって、大層気に入ってくれているんだ。一度会うだけでも――」
「ですから、お父様。まだ私はそのようなことを考える余裕は……」
久しぶりに家族が揃った朝食だというのに、オリヴィアな居心地が悪かった。
理由は考えるまでもなく、父親にある。朝から早々に、アメリアへいくつもの縁談を持ちかけているのだ。
「だがな、私には息子がいない。早く跡継ぎが欲しいという気持ちも解ってくれ」
「お父様の気持ちも解ってはいますが……」
傍目に聞いているだけのオリヴィアの方に、沸々と怒りが込み上げてくる。
肖像画と家柄をつらつらと並べただけで、何が「良い」と判断できるというのか。
男が生まれなかったと落ち込む父の為に姉は剣術も魔術も学んでいるというのに、聊か娘に甘えすぎてはいないだろうか。
「お父さま。お姉さまはフォスター家のために剣も魔術も極めようとしているのですよ。
それなのに、今度は縁談だなんて。アメリアお姉さまの人生は、お姉さまのものじゃないですか!」
「お前に何が分かるというのだ!」
苛立ちを露わにする父に、オリヴィアの身が竦む。
思えばこれまでの人生。14年間で怒鳴られた事など、あっただろうか。
(あれ?)
不意にオリヴィアは、違和感を覚える。
自分は今、14歳だっただろうか。何かがおかしい。
しかし、考えを纏める猶予はない。自分の発現を皮切に、家族が崩壊しかかっているのだから。
「フォスター家500年の歴史で、本家に跡継ぎが居ないなど初めてのことなのだ!
いくら剣や魔術が出来ようとも、アメリアが女であることには変わりがない!」
「エトワールは女の方が当主じゃないですか。シュテルンだって、昔はそうだったって聞いてますよ」
「子供が減らず口を叩くな! フォスター家では、代々男が当主となって続いている!
私の代で、その伝統を崩すわけにはいかないのだ!」
要するに家の歴史に泥を塗ると思い込んでいるのだと、オリヴィアは呆れかえった。
アメリアが剣術を学びだした頃は泣いて感動をしていたというのに、この手のひらの返しようはどういう事だと言いたくなる。
(やっぱり、おかしいような……)
オリヴィアは再び違和感を覚える。
自分の知っている父の姿と、あまりに違い過ぎている。
少し鬱陶しいぐらいに子煩悩な父は一体どこへ行ってしまったといのだろうか。
「あなた! 娘たちが傷付くようなことは言わないでください!」
「煩い! そもそも、お前が男を産めば問題なかったのだ!」
「お父様も、お母様も! 喧嘩はお止めください……!」
だが、やはりオリヴィアの思考は中断されてしまう。言い争いが始まった両親によって。
アメリアが必死に仲裁へ入るものの、一度火が点いた導火線は止まらない。
些細な不満から罵詈雑言まで、家族の団欒とは程遠い言葉が飛び交う地獄絵図。
嫌な夢を見たと思えば、起きても嫌なものを見せつけられている。
家族が崩壊していく様を前にして、オリヴィアは為す術が無かった。
……*
初めて目にした時の感動は、忘れられない。
降りしきる雪で覆われた、美しい銀世界。こんなにも美しいものがあるのかと、トリスは心が奪われた。
その世界が壊される様を前にして、彼女は何もできなかった。
燃え盛る炎。立ち昇る煙。真っ白なキャンパスは、赤で上書きされていく。
「そ、んな……」
トリスは懸命に街中を走り回る。
無事な者はいないのか。ベリアは。ライルは、どうしているのかと。
「トリ、ス……」
「ベリアか!?」
聞きなれた声に安堵するトリスだったが、一瞬にして表情が書き換えられてしまう。
雪のように真っ白だった人虎は片目が潰され、景色同様に赤で塗りたくられている。
彼女の腕には、独りの男が抱きかかえられていた。
「ライル……殿……?」
糸の切れた人形のようにぐったりと横たわる人間を知っている。見間違うはずもない。
ライル・セアリアス。ベリア同様、自分に新しい居場所を造ってくれた掛け替えのない恩人。
「吸血鬼族を名乗る奴らが押し寄せてきて、みんなを襲いはじめて……。
赤毛の女を探してたんだ。アンタのことじゃないか?」
「……っ」
淡々と語り掛けるベリアに圧され、トリスは何も返す事が出来なかった。
自分は吸血鬼族の潜む古城から逃げて来たというのに、どうして先回りされているのか。
凄惨な光景と理解の出来ない状況が頭の中をぐるぐると周り、顔が青ざめていく。
「ネクトリア号に居るって情報を耳にしたみたいでな。
若旦那は頑なにアンタを庇ったから、殺された。
アタイが海でアンタを拾わなかったから、こんなことには……。
自分の馬鹿さ加減が、赦せないよ」
「ベリア、すまない……。だが、お前の傷も――」
トリスは治癒魔術が得意ではない。
どこまで癒せるかは判らないが、それでもせめてもの償いをしたかった。
「触るな! アンタにだけは、治療されたくない!」
だが、ベリアはトリスを拒絶する。
悔しさを滲ませる声。残った瞳の奥には憎悪の炎が宿っていた。
「……すまない」
彼女の言う通りだった。何もかも自分が悪い。
あの時、素直に死んでいればよかったのだ。
自分が居なければ、ジーネスだって生き延びられたかもしれない。
「私は本当に、何のために……」
周囲に不幸を振りまくだけの疫病神。
トリスは自嘲しながら、ベリア達の前から姿を消した。
……*
「今のは……」
鈍い頭を抱えながら、トリスは顔を上げた。意識がまだはっきりとしない。
暴風によって荒れた周囲の景色から、戦闘が起きていたのだと察する事しか出来ない。
「なんでい。操られてたんだから、もうちょっと被害者面すればいいじゃねえか」
胸元へ掛かる負荷。聴こえてくる声に、視線を再び下げる。
自分の胸に顔を埋めている男。どうしようもなくだらしない男を、トリスは知っている。
「ジーネス……。その傷は……!」
電流で焼け爛れた彼の身体から、焦げた臭いが漂う。
動揺しながらも治癒魔術を唱えようとするトリスを、ジーネスは拒絶した。
「お前さんの治療なんて、アテにしてねえよ。
第一、ワシだけなら逃げられたんだ。仲間に操られるなんて、ダセェ真似しやがってよ」
虫の息でありながら、自分を冷たく突き放す。
投げかけられた罵倒は、いつものようにふざけながら身体を弄る助平な男のものと同一とは思えなかった。
「仲間? 操られる? どういうことだ……?」
「見たまんまのことだよ。自分で考えてみやがれってんだ」
いくら考えても、トリスが答えに辿り着く事は出来ない。
ただ、掘り返された記憶がある。自分のせいで、また誰かが犠牲になったのだ。
(また……?)
トリスは眉根を寄せた。またというには、記憶と整合性が取れていないような気がする。
ティーマ公国で吸血鬼族が襲い掛かった時もそうだ。
自分のせいで大切な男性を喪い、ベリアからは拒絶された。
その時はこう思ったはずだ「ジーネスも、自分のせいで死んだ」と。
ならば、目の前で死に掛けているジーネスはなんなのか。
トリスの頭の中で、混乱が加速していく。
ただ、今の自分が体験している事。それはやはり、ジーネスの死。
彼女にとって覆しようのない、苦い記憶。
「……黄昏てないで、どうにかしてくれよっ!」
苛立ちの籠った声を張り上げるのは、緑髪の少年だった。
魔力が動く刃を巧みに駆使して、ラヴィーヌと交戦している。
「君は……」
トリスはまたも、違和感を覚えた。
たった一度。ミスリアの王都で出逢っただけの子供。
それなのに、それ以上の既視感がある。彼がどんな攻撃を繰り出すか、解る気がする。
けれど、交戦している相手はラヴィーヌだ。
世界再生の民の仲間と戦っている以上、少年は敵であるはずだった。
「トリスさん! 今の内ですわ!」
「――っ!」
ラヴィーヌの言葉に反応をして、トリスは咄嗟に魔術を放つ。
次の瞬間、少年が地に伏せる。
よくやったとラヴィーヌが近付いた所で、トリスの背筋が凍る。
彼女の放つ稲妻の槍が、自分の身を貫いていた。
(な、んで……)
何もかも、意味が解らない。
トリスは幾度となく雷を浴びながら、やがて意識を失っていく。
……*
サーニャの左眼に埋め込まれた石榴色の瞳。
『嫉妬』が持つ能力は、悪夢。
魔眼から放つ魔力が、相手の眼を通して魔力を体内へ侵食させる。
侵食した魔力は脳内で増幅をし、やがて本人の記憶を元とした悪夢を創り出す。
苦い思い出は、より悲惨な結果。
幸せな思い出は、真逆のものへと創り替えられていく。
ゆっくりと時間を遡り、延々と見せつけられる非現実。
それは精神を蝕み、やがて相手の精神を破壊していく。
『嫉妬』の魔眼はどんな記憶さえも悪夢へと変える、悍ましいものだった。
「サーニャ! 貴女は必ず、今ここで止めます!」
「漸く本気になられたのですか? 遅いぐらいですよ!」
サーニャは敢えて、『嫉妬』の能力をアメリアへ話した。
それは彼女を焚きつけるという意味ではなく、彼女から冷静な判断力を奪う為。
数度刃を交えて、確信をした。普通に戦っただけでは、絶対にアメリアには勝てないと。
彼女は『羽』も、魔術も使用していない。対して自分は、既に限界ギリギリまで攻めていた。
残る手札は邪神の分体を顕現させるのみ。最も効果的なタイミングを、彼女は窺っていた。
(とにかく、一度みなさんの元へ……!)
邪神の力を断てる蒼龍王の神剣ならばと、アメリアは仲間の元へ戻ろうと試みる。
けれど、単に下がるだけではサーニャに狙われかけない。
アメリアは『羽・銃撃型』を動かし、サーニャへと狙いを付けた。
「仕方ありません。覚悟してください、サーニャ!」
「お互い様ですよ、アメリアお嬢様!」
アメリアが『羽・銃撃型』で狙いを付けた瞬間。
揺れ動く『羽』とは別に、彼女の意識は仲間へと向いた。
生まれた好機を、サーニャは見逃さない。邪神の分体である『嫉妬』を、顕現させる。
「――ッ!」
風を切る音と共に迫りくる巨腕を、アメリアは蒼龍王の神剣で受け止める。
直撃こそ避けたが、ふわりと自分の身体が浮いてしまう。
そのまま振り切られた腕に成す術なく、華奢な身体は地面を転がっていく。
「さて、オリヴィアお嬢様たちはあとどれぐらい耐えられますかね?」
「貴女って人は……!」
いつまであるのか判らない時間制限に加え、邪神の分体まで立ちはだかる。
状況が悪くなっていく一方のアメリアの額に、一筋の汗が流れていた。
この時、アメリアとサーニャは互いに意識の殆どを割いていた。
だからこそ、気が付いていない。たった一人。
悪夢を見ているにも関わらず、覚醒しようとしている少年がいる事に。