368.サーニャ・カーマイン
サーニャ・カーマインは、今でもその日を鮮明に思い出す事が出来る。
彼女が初めてフォスター家へ訪れた日の事を。
「じきに私の屋敷だ。妻や娘を紹介しよう」
「ありがとうございます。旦那様」
揺れる馬車の中で、自分の前に座る人物へ愛想を振り向いていた。
フォスター卿。王宮で大臣を務めている、フォスター家の当主。
……*
以前の貴族から不意に暇を与えられ、サーニャは若干だが困っていた。
自分が屋敷を追い出される理由はそう多くない。自分を弄ぶ者の所業を知る家族が怒り狂うか、単に飽きられたか。
どちらにしても、サーニャにとっては変わらない。
自分は今更、他の生き方は出来ないと諦めてしまう。何処へ行っても、扱いは同じ。
明日以降の食い扶持はどうしようかという問題だけが残ってしまう。
自分がどのような扱いを受けているかを知る貴族は多くなってきた。
だが、侍女として雇うとなれば話は別のようだ。
悪評は夫人の耳にも入っているらしい。相当に安い女だと見られているようだ。
自分の旦那が原因だとは頑なに認めない。彼女達なりの矜持が、そこにあるからだ。
男は男で肌を重ねた癖に、いざとなれば目を逸らす。身勝手な貴族達の振舞いに、サーニャは辟易していた。
所詮は下級貴族。碌な甲斐性を持ち合わせてはいない。
尤も、見下す事でサーニャの心の平穏は保てない。
そんな者に好き勝手されるのが自分の立ち位置なのだと惨めな思いがついて回る。
これはいよいよ、娼婦館の扉を叩く日が来たか。
背に腹は変えられないと、意を決したその日。フォスター卿は、サーニャへ声を掛けた。
……*
馬車の中で顔を合わせる二人。
この時点で、サーニャはいつもと勝手が違っていた。
まず、どうしてフォスター卿は向かい合っているのだろうか。
今までの貴族達ならば、隣に座って太腿のひとつは撫でているだろう。
妻と娘に合わせる? この女と不貞行為をしますなんて差し出された事なんて一度もなかった。
当然だ。初日から修羅場を作り上げる人間がいるはずもない。
初めは上級大臣といえど、やはり男。貴族はどれも同じだと思っていた。
けれど、彼は最後まで自分に触れる事は無かった。
……*
「よろしくお願いします。奥様、お嬢様」
「アメリアです。よろしくお願いします」
「わたしは妹のオリヴィアです!」
フォスター家での日々は、自分の知る侍女の仕事とはまるで違っていた。
夜に連れ出される事も。場所を選ばす昼に辱められる事もない。
自分が思い描いていた侍女としての暮らしが、そこにあった。
自分が身の回りの世話を受け持ったアメリア、オリヴィア姉妹はとでも聡明だった。
姉のアメリアは品行方正で、いかにもお嬢様という振舞いだ。令嬢としてのお手本を見せられているようだった。
妹のオリヴィアは姉に比べればヤンチャだが、意外と努力家でもある。裏表のない性格なので、付き合いやすかった。
彼女達姉妹は、自分をとても慕ってくれている。
無理に着飾らなくても、彼女達は嫌な顔ひとつしない。
サーニャ自身もそれを心地良いと感じ始めていた。
だからだろうか。
相反する気持ち。胸の中へ仕舞い込んだドス黒い感情もまた、より鮮明に感じ取られるようになったのは。
いくらフォスター家での生活に幸福を感じても、過去がなくなった訳ではない。
アメリアとオリヴィアは第三王女と懇意している。自分も自然と、王宮へ赴く機会が増えた。
フローラもまた、二人と何ら変わらなかった。彼女達のお茶会はとても心地が良い。
ドス黒い感情を際立たせるアクセントが増えてしまった。
彼女達は何も悪くない。汚れを知らない。
汚れに塗れた自分とは、何もかも違う。
彼女達がこれから体験する出来事は、きっと自分が望んで手に入らないものばかり。
羨ましかった。自分とそうなりたかった。
けれど、無理だと分かっている。唯一平等に持っていた純潔さえ、気まぐれで奪われた。
彼女達は何も奪われないのに、自分だけが奪われていく。
いつしか羨望は、嫉妬へと変貌を遂げる。
そんな時だった。黒衣の男が、手を差し伸べたのは。
……*
自分以外の仲間が全員倒れた中で、アメリアは全てを取り戻すべく神剣を振う。
柘榴色の瞳を輝かせながら、サーニャが応戦する。
「サーニャ! みなさんを解放してください!」
「もう、フォスター家の使用人ではありませんから!
聞きたくない命令は、聞き入れませんよ!」
蒼龍王の神剣の太刀筋を、二本のナイフを巧みに用いて受け流す。
流石は神器というべきか。その一度の攻防で、ナイフが一本折れてしまった。
「アメリアお嬢様こそ、強い口調の割に覇気がないじゃないですか!」
必死ではあるが、まるで殺気がない。まだ自分に対して情があるのだと、サーニャは感じ取っていた。
オリヴィアだってそうだ。黄道十二近衛兵と戦うなんて異様な状況の中、自分の顔を見て安堵していた。
彼女達が本心から自分を信頼していたのが、伝わる瞬間でもあった。
けれど、もう戻れない。何より、自分をより惨めな想いにさせたのは彼女達ではないか。
むず痒くなる気持ちを抑えながら、サーニャはアメリアへ刃を向ける。
「……っ!」
サーニャは折れたナイフを棄て、スカートをはためかせる。
腰から外されたスカートは瞬く間に、アメリアの視界を布で覆う。
「相変わらず、生真面目な方ですね!」
布の向こう側から、ナイフが突き立てられる。
刃は幕を突き破り、アメリアの顔面へと襲い掛かる。
アメリアは謂わば、模倣となるような騎士だった。
このような奇策への対処はどうしても反応が遅れる。
「そんな攻撃……!」
だが、決定的にアメリアとサーニャでは戦闘能力に差がある。
ナイフの刃が自分へ届くよりも前に、アメリアは顔を逸らして躱してみせた。
「ええ、流石はアメリアお嬢様です」
しかし、サーニャは百も承知だった。真正面から向き合えば、アメリアに勝てる道理はないと。
だからこそ、彼女は本命を別に用意していた。
舞い上がる布。そこへナイフが突き立てられる。
布を警戒するのは当然の反応。現に争いきれない反射が、一度は危機を救ってくれた。
直感を、本能を疑うような真似は身体が拒絶をする。
他へと警戒が薄まるこの瞬間。
サーニャは太腿へ巻き付けていた投擲用のナイフを投げる。
狙いはアメリアの脚。擦りでもすれば、塗られた毒が忽ち彼女の身体を痺れさせる。
意識が逸れている今ならば、当たるはずだった。
「無駄だと言っているでしょう」
アメリアは咄嗟に布を掴んで、大きく舞うようにして払う。
布は毒の塗られたナイフを巻き込み、軌道を変えた。
「シンさんの言う通りでしたね。必要以上にゆったりとした服は、暗器を仕込んでいる可能性が高いと」
「……へぇ」
サーニャは顔を引き攣らせる。また、シン・キーランドだ。
あの男は本当に自分にとって面倒でしかない。王宮でも、三日月島でも。
魔力を有さない、ただの人間。それでも戦い続ける彼は、多くの殺しの術を心得ている。
だからこそ、その忠告に重みがある。
シンの存在は面白くない。
けれど、彼の名前が出た事はサーニャにとって悪い展開ではなかった。
「お嬢様。流石、想い人の話は大切ですよね。
今は妖精族の里で共に生活をしているのですよね。
立派な剣を贈るだけよりも、大きくお近付きになれたのではないですか?」
「シンさんには、フェリーさんが居ますから。
私の想いには、応えては頂けませんでした」
古傷を抉られ、僅かにアメリアが影を落とす。
奥手な彼女が行動を起こしたという事実に驚いたが、サーニャは口撃の手を休めない。
「そんなことは、分かりきっていたでしょうに!
あの少女から奪おうという気概をひとつでも見せていれば!
お嬢様の美貌なら、ひと押しで決着がついたかもしれないというのに!」
「そんなこと、できるはずがありません!」
アメリアは当然、初めから気付いていた。
フェリーがシンをどれだけ大切に想っていたかを。
シンがフェリーをどれだけ大切に想っていたかを。
それでもフェリーは、それを隠そうとしていた。
シンは自らの気持ちに、強い蓋をしていた。
勿論、自分だってここまで誰かを好きだと感じた事は無かった。
だから気持ちに嘘はつけなかった。
けれど、それは「奪いたい」という衝動から来るものではない。
だから後悔はない。晴れやかな気持ちで、シンとフェリーの幸福を願う事が出来ている。
「照れているのですか? 随分と、純情じゃないですか!
誰かの為に差し出せるモノを持っていながら、差し出さずき得ようなんて!
欲張りにも、程がありますよ!」
だが、アメリアの想いをサーニャが読み取る事は難しい。
彼女の中にある理論では、アメリアならばいくらでもやりようがあった。差し出せるものがあった。
結局、自分が悪者にならない道を選んだ。自分が失ったモノを持っているにも関わらず。
それはサーニャにとって、言葉には言い表しづらい感情だった。
「欲張り……。そうですね、サーニャの言う通りかもしれません。
私はきっと、欲しいものがたくさんある。
サーニャ! 貴女と過ごした日々も、取り返したいと想っています!」
不意を突かれた形で、サーニャに動揺が走る。
確かにずっと、フォスター家はよくしてくれていた。けれど、裏切った今でさえもそんな言葉が飛び出てくるとは想定外だった。
「大切な妹君が刺されて、よくそんな台詞が吐けますね!?
ワタシにとっては、大勢仕えた家のひとつに過ぎないというのに!」
「私にとっては、かけがえの無いひとつです!」
一瞬。ほんの一瞬ではあるが、サーニャは奥歯を噛み締めた。
嘘を吐いた。自分もアメリアと同じだ。フォスター家だけは他のどの家とも違う。
尤も、同時に劣等感を掻き立てられる原因にもなるのだが。
「そうですか! ならば、シンさんも同じだったんでしようね!
あの人にとっては星の数ほど経験したもののひとつですが、お嬢様にとってはそうではなかった!
初めから、意識に差があったのですよ!」
吊り橋効果だと言うサーニャの指摘は的を射ている。
アメリアは普段、誰かを護る事はあれど護られる事はない。
命懸けの戦いとなれば、自然と彼女の方が前へと出る。
だからこそ、ウェルカでの戦いは彼女の胸に深く刻まれた。
「そうかもしれませんが、切っ掛けなどそのようなものでしょうに!」
「そうですね、切っ掛けは些細なものですよ!」
サーニャは半ば意固地になっていた。
シンとの関係を頑なに攻め続けようとするのは、今の自分を鑑みての事だった。
痛いほどよく分かる。切っ掛けは些細な事だった。
ビルフレストの偏った教育に疑問を感じて、アルマに様々な事を教えた。
切っ掛けは、たったそれだけだった。
自分に興味を持ったアルマと話す機会が増えた。
彼は自分に好意を持ってくれた。サーニャ自身も、満更ではなかった。
だから悔しいのだ。彼に差し出せるモノがない自分が。
だから腹が立つのだ。差し出せるモノを差し出そうとしないアメリアが。
少しでも惨めさを味わって欲しくて、いくらでもシンとの事を当て擦る。
我ながら見苦しい姿だとは思うが、形振り変わってはいられなかった。
差し出せるモノがないなら、結果だけでも力になりたかった。
強化された世界を統べる魔剣ならば、きっと神器とも対等以上に渡り合える。
加えて、少しでも勝つ確率を上げる為に自分は戦う。
持ちうる手札全てを使ってでも、アメリア・フォスターを極限まで削り取る。
「……堂々巡りで、埒があきませんね。
ワタシとしては、時間稼ぎが出来るなら構いませんが」
「それはどういう……っ!?」
僅かに揺れたサーニャの視線。その先は、『嫉妬』の魔眼で倒れた者達。
その身体が、みるみる生気を失おうとしている。
「サーニャ! 早く、みなさんを解放しなさい!」
「でしたら、早くワタシを斬ればいいのですよ。簡単に殺されるつもりは、ありませんけど」
邪神の力を断つ蒼龍王の神剣なら、自分の魔眼から逃れるかもしれない。
次なる自分の仕事は、彼女を仲間の元へ帰らせない事。
サーニャは正念場だと、気合を入れ直す。
自分に差し出せる数少ないモノを、懸命に燃やしていた。