364.天才の誇り
魔力で模られた巨大な氷塊が迫り来る。
壊すも躱すも叶わない。後数秒もしない内に、踏み潰された蛙のような姿になってしまうだろう。
その先に残るのは、平べったくなった自分と大地の染みとなる体液。
(翼颴で自分の部分だけをくり抜く?
いや、いくらなんでも無理がある!)
ピースはまさに絶体絶命だった。
策を練る時間も、実行する準備も整っていない。
もう無理だと諦めかけた時、不意に彼の隣を人影が通り過ぎた。
滑らかで美しい青い髪。彼女自身から香る石鹸の香りと、鎧から発せられる鉄の臭いが対照的だった。
その手に握られているのは、蒼く輝く刀身を持つ剣。
その情報だけで、誰が駆けつけてくれたか理解をした。
自分にとって魔術の師であり、邪神から人々を救済する為の神器を賜った騎士。
「……アメリアさん」
アメリアはその手に握られた蒼龍王の神剣を横薙ぎに払う。
邪神の魔の手から人々を救うべく生まれ変わった救済の剣は、悪意の塊を否定する。
複製によって造られた氷塊は断たれ、瞬く間に魔力が周囲へ霧散していく。
「ピースさん」
彼女が振り返る瞬間。ピースは僅かに身構えた。
命を救って貰っただけではなく、自分の勝手な行動で迷惑を掛けた。
いくら彼女といえど、怒っているに違いない。
「すみませ……!」
「でも、無事で何よりです」
謝り終えるよりも先に、彼女のはにかむ姿が瞳に映る。
ピースからすればその姿は菩薩のようで、胸から込み上げるものをぐっと抑えるので精一杯だった。
「事情はさておき、邪神ですね。
分体は私が抑えます。ピースさんは援護を」
「はっ、はい! ……あ、でも! 適合者の方は!?」
冷静さを取り戻すと共に、ピースの脳裏にある懸念が浮かび上がる。それは適合者と相対しているトリス。
魔術師である彼女にとって、彼の接収は最悪の相性だった。
自分よりも彼女の援護へ行ってもらう方がいいのではないか。
そう考えるピースだったが、アメリアは問題ないと首を横に振る。
「あちらは、オリヴィアが向かいました。心配には及びませんよ」
「オリヴィアさんが……って!」
オリヴィアも魔術師だ、焼石に水なのではないだろうか。
不安で眉を下げるピースだが、アメリアは心配する素振りすら見せない。
「オリヴィアは適合者の方がやりやすいみたいですので。彼女を信じましょう」
「は、はい」
アメリアの様子から、勝算がある様子だった。
ピースはこれ以上、何も言えない。
「あ、そうです。オリヴィアは相当怒っていましたよ。
後でお説教があるかもしれませんね」
「……はい」
庇えそうにないと苦笑いをするアメリアを前に、ピースは天を仰いだ。
どうやらこの戦いが無事に済んでも、もう一戦交えないといけないようだ。
多少の気の重さを感じつつも、『強欲』を前にピースは翼颴を構えた。
自分の複製が跡形もなく消し去られた。
いとも容易く行われたその攻撃は、『強欲』を逆上させる。
この瞬間、『強欲』の標的はアメリアへと移り変わる。
悪意の塊は彼女を苦しめんと、右手を前へ突き出した。
……*
「オリヴィア……」
トリスは自らの前に立つ少女の名を呟いた。
夢でも幻でもない。それでもまだ、信じられない。
第三王女の護衛である彼女が、自分を護っている現実に。
「久しぶりですね、トリスさん。
いつの間にウチのお子様を誑かしてたのでしょうか?」
「は……?」
だが、その不安もオリヴィアの一言で吹っ飛んでしまう。
彼女が何が言いたいのか分からず、トリスは怪訝な顔をする。
「いやね、ピースさんがやたら急ぐ理由がウェルカにいる美人の受付嬢さんかと思ったんですよ。
まあ、案の定そこに足跡はあったんですけど。
それで追いついて見れば、今度はトリスさんと逢瀬を重ねているじゃありませんか。
確かカタラクト島でお会いしたんですっけ?
いやー、あの子供。ベルさんに気があるクセに手当たり次第ツバつけてるなあって思った次第でありまして」
「な、何を言っているんだ!? 私と少年は、そんな関係ではない!!」
意味のわからない事をつらつらと並べていくオリヴィア。
ただ、見当違いだと確実に言い切れる部分だけははっきりと否定しなくてはならない。そう感じたトリスは、声を荒げた。
「……まあ、冗談ですよ。でも、ピースくんと共闘をしていたんです。
ここはあなたを信用しますよ。あとはわたしに任せてください」
「本当に冗談だったんだろうな?」
トリスは知っている。オリヴィアがしばしば、早とちりの行動に走る事を。
だから念の為に確認を取ったつもりだが、彼女の口は真一文字に結ばれている。
「…………もちろんです」
「だったらその間はなんだ!?」
オリヴィアはそれ以上、何も語ろうとはしない。
誤魔化すようにして、視線を敵へと移した。
「なんだァ、久しぶりのおしゃべりはもう終わりかァ?
もっと思い出話に花を咲かせてもいいんだぜ?」
札をちらつかせながら、不適な笑みを浮かべるアルジェント。
あからさまな煽りに対して、オリヴィアは煽りで応戦する。
「お気遣い、どうも。ま、だからと言って手心を加える気は全くありませんけどね。
その張り付いた余裕顔がいつまで続くか、数えておきましょうか?」
アルジェントの眉がピクリと反応する。
神器の継承者であるトリスでさえ、自分の右手にひれ伏した。
ただの魔術師であるオリヴィアが強気で出ようとも、恐れるに足らない。
全ての魔術師は、自身の高い能力が仇となって敗れ去るのだから。
「言うねェ。オレっちの能力、知らないわけでもないだろうに」
「ええ、知ってますよ。魔力を奪い取り、自分の力とする右手。
邪神の能力に相応しい、大した能力です」
オリヴィアはサラッと、接収の能力を語る。
はっきりと彼女は『強欲』が相手だと理解している。それでも尚、余裕の態度を崩さない。
「なら、分かるだろォ? 魔術師じゃ、オレっちには勝てねェよ」
アルジェントの言葉は、トリスに深く突き刺さる。
彼の右手に備わる能力を前に、なす術なくやられてしまった。
魔術師である以上、彼への勝ち筋が見えない。
「けど、それだけじゃないですか」
「……あん?」
だが、オリヴィアは決して余裕を崩さない。
アルジェントにはその余裕の源泉が理解できない。
「いいですか? かつて魔術師は奇跡の代行者と呼ばれていました。
それほどまでに貴重な存在をえらーい人たちの努力で、術として一般に普及する程に昇華したんです。
そして今も努力は続いている。
その重みも知らず、上澄だけを掬い取るようなあなたが魔術師より上だなんて、笑わせないでくださいよ」
オリヴィアの眼光は先刻までと違って、真剣そのものだった。
魔術大国ミスリア。長い歴史の一部を担う魔術師としての誇りが、彼女を突き動かす。
「現にわたしは、あなたを魔術だけで完封できる魔術師を最低でもふたり知っていますよ」
「ハァ!? そんな魔術師、いるわけねェだろ!?
適当に言ってんじゃないなら、名前を言ってみろってんだよォ!」
「――クレシア・エトワール」
アルジェントの質問に間髪入れず、オリヴィアはその名を口にした。
当然、トリスもその名は知っている。魔術学校でオリヴィアと同期であり、次席であった少女。
だが、彼女は当時からイルシオンにくっついては旅に出ていた。
殆ど出席をしない中でも、堂々の次席。
故に彼女の世代では、オリヴィアよりもクレシアの方が実力者だと見る者も少なくなかった。
「オリヴィア、お前……」
正直に言うと、トリスは意外だった。オリヴィアとクレシアは仲が良くない。というより、犬猿の仲だ。
魔術学校で顔を合わせる度に衝突し、巻き込まれた者は数知れない。
一学年上であるトリスも、何回巻き込まれた事。そしてその度に、互いを「大したことない」と腐すのだ。
それ程までに仲の悪い彼女の名を、オリヴィアが挙げた。
彼女の本心では今は亡きオリヴィアを認めていた事の証明。
「……なんだよ。ソイツ、ビルフレストのダンナに喰われちまったんじゃねェか。
死んだヤツの名前出しても仕方ねェだろうがよ! もう一人はどいつだ? 歴史上の魔術師サンとかじゃねェよなァ!?」
身構えていたアルジェントは、肩透かしを喰らった気分になる。
死人が相手では証明しようがない。狂言にしても、まだやりようがあるだろうと高らかに笑った。
「安心してください。もう一人はわたしですから。
魔術学校で次席だったクレシアが出来るんです。主席のわたしが出来ないと、格好つかないですからね。
完膚なきまでにボコボコにしてあげますよ」
顎を上げ、ふんぞり変えるようにオリヴィアが宣言をする。
魔力を奪い取る『強欲』の右手。魔術師の天敵を完封してみせると。
「……言ってくれるじゃねェか。
なら、お前を倒せばオレっちを止められる魔術師はいないってことだなァ!?」
「まあ、最低ふたりですからね。他にもいるとは思いますが」
いきり立つアルジェントに、オリヴィアはヘラっとした態度で流す。
そして彼女は、ついに言い放つ。これまで神経を逆撫でし続けたにも関わらず、止めとなりかねない一言を。
「だって、ぶっちゃけあなた雑魚でしょう?
少なくとも、邪神の適合者ではぶっちぎりに」
「……は?」
この発言にはアルジェントだけでなく、トリスも目を疑った。
邪神の能力は例外なく脅威である。事実、アルジェントの持つ接収も含まれている。
だからこそ、誰もが警戒をしている。オリヴィアの発言は、とても信じられないものだった。
しかし、オリヴィアも決して嘘で言っている訳ではない。
最悪を想定した場合。それこそ、破棄を持つ『怠惰』の男であればオリヴィアは真に勝ち目はない。
やりようがある。能力の強大さに胡座をかいている。
能力に胡座をかいて己の短所を正しく把握していない。
研究を続けてきたオリヴィアにとって、研鑽を怠るこの男が脅威とは思えなかった。
「言って……くれる、じゃねェか!!」
全身の毛が逆立つ。これ以上の言葉の必要ない。
逆上したアルジェントが風の魔術付与が施されたナイフを手にした瞬間。
遠く離れた位置で待ち構えるは、もうひとりのオリヴィア。
予め用意していた流水の幻影の放つ凍撃の槍が、アルジェントへ襲い掛かる。
遠方から放たれる氷の矢は、周囲を冷気により凍らせながら突き進む。
「……んなことだろうと思ったぜ」
だが、アルジェントは翳した右手で凍撃の槍を受け止めていた。
瞬く間に、凍撃の槍は札の中へと封印されていく。
氷の矢が消え去ると同時に、周囲に生まれた氷の欠片が地面へと溢れていく。
「オレっちを怒らせて、不意打ち狙いか。中々、強かじゃねェか。
ま、意味がなかったけどな」
完封できるというのは過大評価だと嘲笑うアルジェント。
実際、彼女の奇襲は止めた。これから先は自分が蹂躙をするだけ。
確信を持つアルジェントだが、オリヴィアの態度は変わらない。
余裕たっぷりの笑みで、彼女は続けた。
「だから、あなたは雑魚なんですよ」
それは魔術師としての誇り。
上澄だけでは見えないものを、彼女は証明する。