353.壁の向こう
急接近する船。その甲板から飛び降りる二人の男女の姿を確認した瞬間、テネブルは事の緊急性を認識した。
銃を持つ黒髪の青年と、魔力で象られた刃を持つ金髪の少女。
散々邪魔をされた二人の存在を、今更見間違うはずもない。
紛れもなく二人組の正体は、シン・キーランドとフェリー・ハートニアだった。
自然と奥歯を噛みしめる力が強くなる。
彼らが現れた。それはつまり、マギアの暴君が討たれたという何よりの証明。
討たれたという情報だけだったならば、まだいい。
己の我欲が暴走した結果、『憤怒』の男に始末された可能性も残されていたのだから。
しかし、テネブルの前に現れたのは彼にとって最悪の状況。
姿を見せたのは味方である『憤怒』ではなく、敵対する者達なのだから。
ましてや、この場に居るという事は『憤怒』さえも撃退しているに違いない。
「マーカスの奴、自分だけのうのうと……!」
戦乱の真っただ中にあったマギアを放置し、ミスリアへ訪れた男の名をテネブルは呟いた。
あの男はいつもそうだ。自分だけは安全地帯から周りを掻き乱すだけ。
世界再生の民に必要不可欠な存在と頭で解っていても、精神的には到底受け入れられる存在ではない。
だが、一番苛立つ原因はそこではない。そんな男よりも自分が安く見積もられているという事実が最も彼の神経を逆撫でした。
三日月島では国王達の分断及び、国王と第一王女の殺害に一役買った。
それでも尚、与えられた役目はミスリア東部の端に存在する港町。
マーカスが作り上げた魔物で常駐する騎士団の力を削ぐ一方で、『憤怒』とマギア国王であるルプスを迎え入れるというもの。
エトワール本家の当主であるヴァレリアはというと、騎士団長を務めていると耳にした時は、強い劣等感に苛まれた。
無論、様々な要因が絡んでいるのは理解している。自分を始めとした黄道十二近衛兵の謀反。
更に国王の死。残った者から纏め役を担えるとなれば、アメリアかヴァレリアぐらいなものだろう。
ただ、それでもテネブルの劣等感を増す理由としては十分だった。
仮にビルフレストの誘いに乗らなくとも、結果は変わらないからこそ余計にそう思う。
残された道は唯ひとつ。自分の能力を誇示する外ない。
常闇の迷宮を操り、邪神にさえ立ち向かう者達を屈服させる。
テネブル・エトワールが自らの地位を上げる手段は、非常に限られていた。
「見ていろ。邪神に適合した者だけが全てではないことを、思い知らせてやる」
今はまだ、自分の位置を悟られていない。
僅かな優位性を最大限に生かすべく、テネブルが魔術の詠唱を始めようとした矢先。
妨害を試みたのは、彼の存在に気付いている一羽の炎爪の鷹だった。
「なんだ、貴様!? さては、あの裏切り者の!」
テネブルの脳裏には、一人の少女が映し出されている。
港町へ現れた商船。ネクトリア号から獣人と共に現れた魔術師。トリス・ステラリード。
遠巻きに彼女の姿を確認した時は、他人の空似かと思ってしまった。
彼女は浮遊島の戦いで命を落とした。そう語られていたのだから。
その日以来、主君や彼女の兄は険しい表情をずっと続けている。
生きていると知れば喜ぶだろうと思う反面、当然とも言える疑問が浮かび上がる。
ならば黄龍王は、ラヴィーヌは、ジーネスは一体どうなったのだろうか。
もしかすると、彼女以外にも生き残っている者がいるかもしれない。
そんな甘い考えは、トリス自身の手によって破壊された。
氷の魔術を用いて異常発達した魔物を一掃するトリスの姿に、テネブルは言葉を失った。
例え世界再生の民から暫く離れて居ようとも、この軍隊ザリガニがマーカスの造り出したものだと知らないはずがない。
この瞬間、テネブルは悟った。トリス・ステラリードは自分達を裏切り、敵として舞い戻ったのだと。
本音を言うと、彼女には共感している部分もあった。
ラヴィーヌと違い、自分達は邪神の分体に適合出来なかった。
結果、世界再生の民に於いてもその地位は決して高くない。
謀反の理由となった不満が燻る中、それでもアルマが王となればという思いのままに手を汚していく。
もう戻れないはずなのに、戻ろうとしている。
若気の至りとでも言うつもりなのか。その心中が理解できず、怒りだけが込み上げてくる。
彼女に喰って掛からなかったのは、自分へ与えられた役目に対する責任感からのものだった。
あくまで自分の役目は、この港町の制圧。裏切り者を差し出す事ではない。
怒りを堪えながら、そう言い聞かせて来た。シンとフェリーが姿を現したのは、自分に対する褒美であるとさえ思えた。
ここで二人を仕留めれば、考えを改めるだろう。
決して邪神の適合者だけが、世界再生の民の戦力ではないと。
自分の存在を証明する為にも、この炎爪の鷹は極めて邪魔な存在だった。
「使い魔風情が、調子に乗るなよ!」
「――!」
エトワール家が得意とする風の魔術を用いて、テネブルはヴァルムの迎撃態勢へと入る。
対するヴァルムも、発せられる魔力を前にして退こうなどという考えは持たなかった。
主であるトリスにベリア達と共にこの場を任されたという矜持が、翼を突き動かす原動力となる。
……*
「ヴァルム! ……と、誰だあれ!?
ていうか、アンタらも何者だ!? そっちは魔物が……!」
様々な角度から情報が入り乱れ、ベリアの頭は処理の限界を迎える。
ヴァルムへ魔術を放つ男は一体何者なのか。
まだ軍隊ザリガニは残っているのか。
そして、突如現れたこの船は何者なのか。
「だいじょぶ! あたしたち、ケッコー強いから!」
簡単な返事だけを済ませながら、一陣の風のように少女は過ぎ去っていく。
彼女は金色の髪を靡かせながら、手に持つ筒から刃を形成した。
彼女の隣には小型の武器を構えた黒髪の青年が並走している。
それが何なのかベリアは知っている。実物を見る機会はそうないが、その独特な形状を見間違うはずもない。
あれは、銃だ。
「じゃあ、アイツらマギアの……」
ぽつりと、その開発された国の名を呟く。
どうしてマギアの人間が、ミスリアの片田舎で起きた戦いに介入をするのか。
加えて、獣人である自分達の姿を気にする様子は全くなかった。
もしかすると、気にする暇すらなかったのかもしれない。などと呑気な事を考えていた直後。
「驚かせて悪かったな。けどよ、フェリーの言う通りだ」
「ええ。あの二人なら、悪いようにしないから大丈夫よ」
青年と少女に続いて船を降りるのは、銀色の髪を潮風に靡かせる美しい女性。
そして、自分の背丈ほどもある槌を握る筋肉質でありながら背丈の低い白髪の男。
明らかにその風貌は、人間とは似て非なるものだった。
「どっ……小人族!?」
大地と共に生きる種族の名を、ベリアは思わず叫んでいた。
小人族の男は目を見開く彼女を見上げ、立派に蓄えた白い髭を撫でる。
「ん? ああ、そうだがよ。お前さんも獣人なんだから、そんなに驚くなよ」
眉間に皺を寄せる小人族だったが、驚くなという方が無理な話だった。
ある意味では妖精族以上に生態が判らない、滅びたとも言われていた種族が目の前にいるのだから。
一体この集団は、何者なのだろうか。増え続ける情報に、ベリアの脳は限界を迎えようとしていた。
……*
ネクトリア号へ迫る軍隊ザリガニの大群。その足元を狙って、シンは引鉄を引く。
放たれたのは三発の水色の氷華。
地面と共に氷に縫い付けられた軍隊ザリガニは、進もうとする勢いを止められず前のめりに倒れていく。
「フェリー、霰神だ」
「おっけ!」
すかさずフェリーが、魔導接筒により大剣となった透明の刃から氷を走らせていく。
蹲った姿で氷像のように凍り付いた軍隊ザリガニは、やがて活動を停止した。
「こっちはコレでいいとして……。シン、あっちはどうしよう?」
町と港を遮断する黒いカーテン。その狭間で繰り広げられる戦闘を前にして、フェリーはシンへと尋ねる。
空を舞う炎爪の鷹に、応戦する魔術師。どちらに加勢をするべきなのか。
本来であれば、町を襲う魔物を退治するべく魔術師が相対している構図。
けれど、シンとフェリーは知っている。この黒いカーテンが、魔術師によって生み出されたものであるという事を。
炎爪の鷹が町を襲っていて、魔術師が護っているという構図が正しいとは限らない。
むしろ、逆なのではないかとさえ考えさせられる。
仮説を後押ししているのは、先刻すれ違った獣人の女。
彼女は「ヴァルム」と名を叫んだ。視線の先は、魔術師ではなく炎爪の鷹。
試してみる価値はあると、シンは判断をする。
「俺が確かめる。フェリーは、壁を壊す準備をしておいてくれ」
「うん、じゃあそっちは任せるね」
シンの決断にフェリーは身を委ねた。
彼を信頼し、自分はふたつの魔導刃・改を組み替える。
その数秒の間に、シンは常闇の迷宮が生み出す闇のカーテンへ魔導弾を放っていた。
……*
「いつまでもチョコマカと!」
空を舞い、立体的な動きを見せる炎爪の鷹のヴァルム。
常闇の迷宮に集中力の大半が裂かれ、他の上級魔術が放てない中でテネブルは応戦を余儀なくされた。
尤も、彼にも魔術師としての矜持がある。風刃の照準は徐々に精度を上げていき、ヴァルムを捉えつつあった。
そんな最中である。テネブルの視線は空を縦横無尽に飛び交う炎爪の鷹から、闇のカーテンへの移動を余儀なくされた。
魔導弾による疑似魔術が、常闇の迷宮へ命中をしたのは。
放たれた弾丸は爆裂弾。
魔導弾の中で最も高い威力を持つ弾丸だが、常闇の迷宮による闇のカーテンを破壊するには至らない。
だが、テネブルにとっての問題は違う部分にあった。
「チイッ」
速すぎる来訪に、思わず舌を打つ。軍隊ザリガニの大群も、一切の足止めとならなかった。
炎爪の鷹だけに気を取られている訳には行かない。相当な集中力を要するが、上級の魔術で全員を巻き込もうとテネブルは考えていた。
だが、遅すぎる。彼の判断は、何もかもが遅すぎた。
「――ガハッ!?」
続けざまに放たれた銃弾が、テネブルの肩を貫く。
よろめく彼へ一切の遠慮がないまま、シンによって弾幕が張られていく。
テネブルと交戦を続けていたヴァルムは、巻き添えを喰らわないようにと上空へ舞い上がっていく。
「あいつが術者と見て間違いないな」
シンが常闇の迷宮へ放った爆裂弾は、決して強度を確かめるものではない。
炎爪の鷹と交戦をする魔術師の反応を確かめるものだった。
爆裂弾による爆発が起きた瞬間。魔術師は常闇の迷宮を気にしていた。
その顔に浮かばせていた表情は期待ではなく、懸念。自らの魔術の状態を確認する為のもの。
この瞬間、シンは眼前に居る男こそが世界再生の民の魔術師だと判断する。
そうと判れば、遠慮をする理由は一切残されていない。
「待て! シン・キーランドに、フェリー・ハートニア!」
フェリーが闇のカーテンを破壊すべく、刃を形成しようとした瞬間だった。
撃ち抜かれた方を抑えながら立ち上がるテネブルが、腹の底から声を絞り出す。
この状況で上級魔術を放つために、彼は最後の賭けへと出る。
「聞くつもりはない」
しかし、シンに聞く耳を持とうとしない。
銃口をテネブルへ向け、引鉄に力を込める。
「いいのか? その判断でこの町の人間が命を失っても」
「えっ……」
銃を持つシンの手は、一切の揺らぎを見せない。
一方で、テネブルの言葉はフェリーに対して一定の効果を見せた。
剣を形成しようとする彼女の腕が、無意識に下がっていく。
「この壁の向こう側には、私の部下と魔物が配備されている。
合図ひとつで、皆殺しにすることも出来るのだぞ」
無論、テネブルの言葉は嘘である。
常闇の迷宮はネクトリア号の獣人を分断する為に張ったもの。
まずは厄介な獣人を始末してから、壁の向こうに居る人間達を制圧する予定だった。
「っ……! ヒキョーだよ!」
声を荒げるフェリーだが、テネブルの言葉による真偽を確かめる術を持たない。
怒りで身を震わせていても、万が一を想定しなくてはならない。
「お前の戯言に付き合うつもりはない」
フェリーとは裏腹に鉄仮面を被り銃口を突きつけたままのシンだが、テネブルは一定の効果があると確信を得た。
表情を変えず、武器を下ろそうとはしない。だが、決して引鉄も退かない。
彼もまた、最悪の事態を想定しているのだ。
「ならば、撃ってみるがいい」
僅かに動いた眉に反して、引かれない引鉄。
これならば上級魔術を、颶風砕衝を構築する時間は優に稼げる。
逆転勝利への道筋が開かれた。はずだった。
「――ッ!!」
突如、甲高く鳴り響くのは炎爪の鷹の咆哮。
空高く舞い上がったヴァルムが発したものだった。
「煩い鳥だ!」
どこまでも目障りで、耳障りな存在だと苛立つテネブル。
けれど、今はヴァルムを気にしている場合ではない。目を離した隙に何をしでかすか判らない二人が、すぐそこに居るのだから。
ヴァルムの存在を意識から取り除くテネブル。勝敗を決したのは、そこだったのかもしれない。
「フェリー、構うな。思い切り、この壁を壊せ!」
テネブルへ銃口を向けたまま、シンは叫ぶ。
背中越しの彼は、どんな顔をしているか判らない。それでもフェリーは、一切の疑いを持たなかった。
「うん、分かった!」
魔導接筒によって接続された魔導刃・改は、巨大な炎の塊を生み出す。
マギアから施された改良点はふたつ。灼神と霰神の材質を魔硬金属へ変えた事。
加えて魔導接筒の調整により形成されたのは、彼女の背丈をゆうに超える巨大な炎の剣だった。
「どっ……せいっ!!」
思い切り、力のままにフェリーは灼神を振るう。
純粋な魔力と魔力の激突に耐え切れず、常闇の迷宮へ亀裂が入る。
亀裂を追うように伸びていく炎は、まるで導火線のようだった。
「な……んだと!?」
三日月島と違って、自分一人で作り上げた常闇の迷宮。
けれども、その強度には自信があった。彼の矜持は、フェリーの刃によって闇のカーテンと共に四散する。
遮断された世界の向こうに広がっているのは、雪化粧に覆われた港町。
何が起きたのかと困惑する者は居たが、魔物やテネブルの部下と思わしき存在は見当たらなかった。
「どうやら、嘘だったようだな」
「くっ、そおおおおおお!」
最後の策も呆気なく破られ、テネブルは心を乱す。
魔術の構築が遅れた一瞬を、シンが見逃すはずもない。
引鉄から放たれた銃弾が、再びテネブルの身体を貫いた。
「く、そ……。どう、して……」
結局自分は、最後まで欲しかったものを掴む事は叶わなかった。
その事実を歯痒く思いながら、テネブル・エトワールは静かにその生を終えた。
「シン、どうして壁の向こうに誰もいないってわかったの?」
振り返るシンへと駆け寄ったフェリーが、上目遣いで見上げる。
言われるがままに闇のカーテンを破壊したが、そこだけが判らなかった。
「アイツだ。アイツが、教えてくれたんだ」
「アイツって……。あの鳥さん?」
シンが指を差したのは、上空。空を漂っている、一羽の炎爪の鷹だった。
空へと舞い上がったヴァルムは、ずっと身振り手振りで壁の向こうを伝えようとしていた。
その必死さを、シンは信じてみようと決めていた。
「魔物だって、魔族だって、信じられる奴はいるからな。
フェリーも、知ってるだろ?」
「……うん。そうだよね」
思い出すのは、妖精族の里でのみんな。
暫くあっていないけれど、フェリーはいつも信頼をしている。
シンもそうなのだと思うと、彼女の頬が自然と綻んでいた。