347.炎刃一閃
刃が微かな灯りに反応して、刀身に光を帯びる。
僅かな変化より自分へ迫りくる危機を察知したルクスは、それを自らの剣で弾き飛ばす。
金属同士の擦れる音が、乾いた空間に響き渡る。
刃こそ凌いだが、危機自体を退けた訳ではない。後方に構えていた魔術師からの魔術が、一直線に放たれる。
「お前たち、正気に戻れ!」
イルシオンを別行動を取っていたルクスが相対している者。
それは共にカッソ砦を護っているはずの騎士団だった。
「どうだ、人間? 同胞から命を狙われる気分は?
……と言いたい所だが、貴様らにとっては変わり映えの無い光景かもしれぬな」
「抜かせ! 私の部下を、好き放題に!」
吸血鬼族の王、ブラドは皮肉を込めながらルクスの狼狽える様を傍観している。
彼にとってこの状況は、戯れに過ぎない。先刻、自らの魔力が混じる血を流し込んだ少年と少女が眷属と成り果てるまでの退屈しのぎ。
砦の中に居た騎士を魔眼で魅了し、指揮官と思われる男と交戦させる。
困惑を数の暴力ですぐに伏せられると思ったが、男は案外としぶとい。
これならば手駒としても使えるのではないかと、品定めを行っていた。
だが、ルクスはブラドの想像を超える動きをして見せた。
次々と襲い掛かる騎士を、魔術師を。彼は殺すことなく退けていく。
「ほう」
流石のブラドも、彼の奮闘には素直に感服をした。
動きのキレは神器の継承者に劣るものの、無駄のない動きで命を奪う事なく部下を無力化している。
「残るは貴様だけだ」
それでも、相当に神経を削ったであろうと察するのは容易かった。
吸血鬼族の王へ向かって剣を構えるルクスの姿は、息が上がっている。
「ああ。尤も、我を討つことは叶わぬがな」
「抜かせ!」
ルクスが距離を詰めようとした瞬間。
ブラドの爪が部屋中の灯りの灯りを破壊し、周囲一帯が光を失う。
僅かな灯りで視界を確保していた空間は、瞬く間に闇のみで構成されてしまった。
「なっ!?」
一瞬の出来事に、ルクスの身体に緊張が走る。
視界が奪われたルクスは、ブラドの攻撃に対して咄嗟に身構える。
一方のブラドにとっては、ルクス程の影響はない。
吸血鬼族であるが故に、血の臭いには敏感だった。
ルクスが部下との戦闘で流した血の臭いを、辿ればいいだけ。
「ぐうっ!」
「やるではないか、人間!」
回り込んでの一撃は確実にルクスを捉える。
だが、ルクスもまた歴戦の強者。微かに聴こえる風切り音を頼りに、ブラドの接近を感知している。
噛みつこうとする牙の軌道を僅かに逸らし、致命傷を避ける。
「これ以上、好きにさせてなるものか!」
再び闇に姿を消されてしまえば、自分は成す術もない。
加えて、ブラドの爪による攻撃は広範囲に渡る。気絶させた部下を巻き込む訳にも行かない。
ルクスが選んだ道は、ブラドをこのまま力づくで部屋から追い出す道だった。
「ぐ……うっ!」
自らの身に魔力を込め、歯を食い縛り、腰を低くする。
強烈な突進が壁を貫き、そのまま二人は部屋の外へと雪崩れ込んでいく。
「離れろ!」
ブラドは自らの爪を重ねた刃で、ルクスの身を斬る。
何とか鋼の胸板で受け止める事に成功したものの、彼が自分の間合いから逃れる事を阻止できなかった。
「小癪な真似をしてくれる……」
舌打ちをしながら、ブラドは廊下に灯る灯りを爪で破壊をした。
再び訪れる暗闇の世界。それでも尚、ルクスの位置は血の臭いで筒抜けだった。
先刻、牙で彼の身体に魔力と血を送り込んだ。ほどなくして、新たな眷属が生まれるであろう。
自分はそれまでの間、闇の中で身を隠していればいい。男が何をしようとも、この距離ならば躱しきれる。
たったこれだけの事で、人間の砦は墜ちてしまう。
聊か物足りなさも感じるが、吸血鬼族の復活を報せる為の狼煙と思えばいい。
全ては順調に進んでいる。この瞬間まで、ブラドはそう信じていた。
「……なんだ?」
血の臭いとは反対から灯る光。更には濃い血の臭いを感じ取り、ブラドは思わず振り向いた。
唐突に現れたそれは、剣の形を模している。紅の刀身を構える、少年の姿。
「見つけたぞ、吸血鬼族!」
「貴様は――」
その者が誰だか、ブラドは知っている。先刻自分と刃を交えた、神器の継承者。
忌々しい神剣、紅龍王の神剣と忌々しい名、ステラリードを冠する少年。
イルシオン・ステラリードその者だった。
「イルさん、ルクス様が!」
「分かっている」
イルシオンの隣でルクスの姿を発見した少女が声を上げる。
彼女もまた、ブラドによって眷属にされようとしていた人間。
イディナ・コンサンスもまた、何食わぬ顔でこの場に現れている。
(眷属化が進んでいないだと……?)
不可解な事象を前に、ブラドは眉を顰めた。
吸血鬼族の血は、魔力は、徐々に身体を侵食していく。
本来であればこんなに声を張り上げる事など、出来るはずがない。
「まさ……かッ」
ブラドの脳裏に刻まれた、大昔の記憶。
塵芥のような脆弱な種族に、純血の魔族が次々と敗れた理由。
「神器か……!」
神器の強大さを知っているからこそ、目の前の現実が紅龍王の神剣の力によるものだと察する。
激昂により己の形相が変わっていくのを自覚していても、ブラドは止められない。
またしても、500年を経過しても。神器は自分の前に立ちはだかる。
眷属化などと、力を回復するなどと言っている場合では無かった。
一刻も早く、殺すべきだったのだ。少なくとも、神器の継承者だけは。
「またも、神は我の邪魔をするのか!!」
「人を恐怖に貶めておいて、そんな台詞がよく吐けるものだな!」
それぞれが別の生き物のように、ブラドの爪が襲い掛かる。
イルシオンは己の力を振り絞り、紅龍王の神剣で応戦をする。
狭い廊下の壁や天井に伝うのは、浄化の炎。
魔を退けるその力はブラドの爪を拒絶し、導火線のように先端から根本の本体へと炎が走り出す。
「ぬうっ……!」
瞬く前に燃えていく己の爪を、ブラドは根本から斬り捨てる。
その隙にイルシオンは、ブラドの懐へと潜り込んでいた。
「隙だらけだぞ」
下から上へと斬り上げられた神剣は、炎を纏っている。
真っ直ぐな線を引く刃は、ブラドの右眼をその熱で灼き斬る。
「キッ……サマ!」
先刻とは明らかにイルシオンの動きが違う。
この短期間で、彼は紅龍王の神剣の能力を引き出している。
油断をすれば、一瞬で命を奪われると身構えるブラド。
イルシオンは彼を通り過ぎ、血を流すルクスの元へと歩み寄る。
「父上。そこの吸血鬼族の牙に傷をつけられたのか?」
「あ、ああ。牙かどうかまでは判らないが……」
「構わない。念のために、これを――」
紅龍王の神剣へ祈りを捧げ、焔と清浄の神が応える。
優しく灯る炎がルクスを包むが、不思議と苦しくはない。それどころか、どこか心地よい暖かさだった。
「これは……」
「紅龍王の神剣が、吸血鬼族の薄汚い血を浄化してくれただけだ。
これで、奴の眷属にないはずだ」
そう語るイルシオンは、既にルクスを見てはいなかった。
彼の眼は既に、諸悪の根源である吸血鬼族の王を捉えている。
「イルシオン……」
息子の立ち振る舞いに、ルクスはどこか頼もしさすら覚えた。
今の彼と紅龍王の神剣なら、この吸血鬼族にも立ち向かえる。
そんな希望を抱いた矢先、ルクスは気付いてしまう。
「お前、その傷は――」
彼の放った暖かな炎が照らすのは、希望の光だけではなかった。
酷いやけどを負った左手。貫かれたのか、真っ赤に染まっている脇腹。
先刻まで暗くて気が付かなかったが、彼の額は脂汗が止めどなく流れている。満身創痍なのは明らかだった。
「……今は、踏ん張りどころだろう」
それでもイルシオンは、気丈に振舞って見せる。
吸血鬼族の王はまだ力を取り戻していない。
紅龍王の神剣が力を貸してくれた。
千載一遇の好機を、逃す訳には行かないと。
「人間風情が……ッ」
浄化の炎に包まれるルクスを見て、ブラドもまた同じ思いを抱いていた。
紅龍王の神剣を持つこの男が居る限り、どれだけの障害になるか判らない。
瀕死の今こそ、自分にとっても千載一遇の好機なのだと悟る。
「人間に敗れた身で、よく見下し続けられるものだ!」
「黙れ!」
残る力を振り絞って、イルシオンは神剣を振るう。
爪を重ね、刃を形成したブラドは彼の攻撃を受け続けていた。
「くっ……」
紅龍王の神剣が爪を燃やす一方で、どれだけ燃え尽きても直ぐに再生してしまう。
決定的な一撃が入れられないと、イルシオンの中に焦りが芽生え始める。
「イルさんっ!」
このままではイルシオンの身体が持たないと、イディナは援護を試みる。
自分の実力では、まだあの剣戟に加われない。イルシオンの足を引っ張りかねない。
それでも出来る事はないかと探した結果、彼女は石礫による射撃に活路を見出した。
自分の魔力では大した威力にはならないと解り切っている。
ほんの僅かでも隙を生み出せば、イルシオンは必ず応えてくれる。
そう信じて、彼女は石礫を撃ち続ける。
「フン、そのような魔術など」
「そんな……」
しかし、ブラドにとってそれは気に留めるほどの物では無かった。
一身に石礫を浴びながら、イルシオンの攻撃に専念をする。
意識を割く事すら出来ない事実を前にして、イディナは己の無力さを恨めしく思った。
けれど、悔やんでいる時間はない。自分にも必ず出来る事はあるはずだと、考え続ける。
(イルさんだって諦めなかったんだ。ぼくだって……)
イルシオンが諦めなかったからこそ、自分はここに立っている。
思考は停止してはいけないと、イディナは己に言い聞かせる。
結果、イディナの脳裏にある考えが過る。
石礫だけで足りなければ、足せばいい。
(どうせ、このまま相手にされないなら……!)
イディナは意を決し、新たな魔術を用意する。
自分が役に立てる可能性が低いのなら、せめて出来る事は全て試すべきだと言わんばかりに。
「ならば、これならばどうだ!」
石礫による攻撃を終えた直後。続けざまに蓄えられていく魔術は、反対側に立つルクスから発せられるもの。
イルシオンと剣戟を繰り広げる傍らで準備を進めていた、雷光一閃が今まさに発射されようとしていた。
「フン、そちらは厄介だな」
雷の上級魔術である稲妻の束は、イディナの放った石ころとはまるで違う。
真面に浴びれば自分とて身体が硬直をするだろう。今となってはその一瞬が命取りとなる。
「……ぐっ!?」
刃を交えていたイルシオンが苦痛に顔を歪める。
紅龍王の神剣の刃がブラドの左腕に食い込んだ瞬間、彼の膝が自分の脇腹を強く打ち付けていたからだった。
完全に切断された訳ではない左腕は、重力に従ってだらしなく垂れていく。
腕を一本犠牲にしてまで掴んだ好機。ブラドの右手は、イルシオンを斬ろうとしていた。
「やられて、たまるか!」
間一髪。イルシオンは紅龍王の神剣の刃でブラドの爪を受ける。
しかし、激痛と止めどなく流れる血で踏ん張りが利かない。ブラドの膂力を抑えきれず、壁へと吹き飛ばされてしまう。
「イルさん!」
「おのれ!」
「チッ、やりすぎたか」
悲鳴を上げるイディナと、思い通りに行かなかったと舌打ちをするブラド。
ルクスから雷光一閃が放たれたのは、その直後の事だった。
眩い光が、ブラドへと襲い掛かる。
「仕方あるまい」
本来の狙いでは彼はイルシオンを雷光一閃の盾にしたかった。
だが、今となってはそれは叶わない。
「光栄に思え。吸血鬼族の王の、腕なのだから」
ブラドは紅龍王の神剣によって切断されかかっていた己の左腕を、雷光一閃の前へと放り投げる。
迸る雷は腕を貫き、瞬く間に焦がしていく。だが、それまでだった。ルクスの渾身の魔術は、ブラドへは届いていない。
「なんだと……」
渾身の魔術が不発に終わり、ルクスは項垂れる。
ブラドにとっては顔色が絶望に染まっていくのが滑稽で、愉しかった。
「良い魔術だったのだがな。まだまだ、人間と我では差があるということだ」
万策は尽きた。まずは神器の継承者を殺す。
勝利が目前に迫っているはずのブラドに触れたのは、確かな熱だった。
「な……。ん、だと……?」
熱。それは炎を連想させるもの。
今のブラドにとって、最も恐れるもの。
(まさか、あの小僧がもう立ち上がって!)
即座に眼光をイルシオンへ向けるブラド。だが、彼は床に打ち付けられたままだった。
浅い呼吸で、辛うじて生きているだけに過ぎない存在。
とてもこの状態から炎を生み出したとは、思えない。
ならば、誰が。
その疑問は、もう一度感じた熱によって答えを得た。
「……っ!」
その正体は、下唇を噛みながら懸命に石ころを放つ少女。
石かまどを魔術で作る要領で、イディナが石礫に熱を加えたものだった。
「小娘……。よもやその狼藉、楽に死ねると思うな」
「ひっ……」
ブラドは怒りで気が狂いそうだった。
ほんの一瞬とはいえ、このような石ころに命の危険を覚えたのだから。
その原因となった少女には、辱めを与える程度では気が済まない。
「し、死にません……!」
けれど、イディナは石礫を止めはしなかった。
全く相手にされなかった自分が、吸血鬼族の王の気を引いたのだ。
止める理由が、どこにあるだろうか。
「ぼ、ぼくも。イルさんも、ルクスさんも……。
みんな、死にません!」
涙を浮かべながらも、イディナは吸血鬼族の王に立ち向かう。
彼女の必死な想いは、正しく彼へと伝わっていた。
「世迷言を!」
鬱陶しい羽虫を黙らせようと、ブラドは右腕を振り上げた。
正確には、振り上げたつもりだった。
「なっ……」
肩が上がってから、ブラドは漸く気付く。己の肘から先が、消えている事に。
代わりに残されたのは、肉の焦げる臭い。それは紛れもなく、自分の腕があった場所から発せられていた。
何故か。などと、今更思いはしなかった。
この炎は、熱は、間違いなく忌々しい神剣から発せられたもの。
「ああ、イディナの言う通りだ……」
血の臭いを充満させる、満身創痍の少年。
それでも手に持つ神剣は、刀身に眩いほど輝く炎を纏っていた。
イディナがブラドの気を引いた僅かな時間。
吸血鬼族に怯えていた彼女が、勇気を振り絞った証。
彼女の気迫に応えないといけないという強い想いが、イルシオンを立ち上がらせる。
「お、まえ……」
決して揺らがぬ眼光と、硬く握られた神剣。
蹂躙する側からされる側へ、移り変わったのをブラドははっきりと理解した。
「オレたちは、死なない。まだ、死ねないんだ……!」
「お、のれ……。人間ごときに……」
最後の力を振り絞ったイルシオンの一振り。
彼に応えるが如く、紅龍王の神剣は吸血鬼族の王を灼き尽くした。