346.浄化の神剣
イルシオンは自分の身が震えている事に気が付いた。
冬の寒さ。開けた空間による寒気の侵入は、恐らく関係が無い。
自分達の陥っている状況に対する、正直な気持ちなのだろう。
焦りや不安は容赦なく襲い掛かる。
このままイディナは吸血鬼族の眷属に変わり果ててしまうのだろうか。
自らの意思すら持たず、人間の血肉を貪る化物に。
(違う。そんなことは絶対にない!)
畏れた悪夢を振り払うかのように、イルシオンは強く首を振る。
脳裏に浮かぶ最悪の事態をいくら反芻しても、状況が好転するはずもない。
戦闘による破壊で、救護室の壁は崩れ去ってしまった。
敵からの襲撃に備えようにも、盾となる物は限られている。
イルシオンの出した結論は、まずは移動をする事だった。
「……イディナ、まずは移動をするぞ」
返答を待たずして、イルシオンはイディナを背負う。
左手の火傷と腹の傷が痛むが、歪んだ顔を彼女に悟られないよう気丈に振舞う。
自分より遥かに彼女の方が不安なのだと、理解している。
そして何より、血の臭いが漂うこの場所から彼女を遠ざけてやりたかった。
「ありがと、う……。ござ、いま……す……」
息も絶え絶えになりながら、イディナは己の体重をイルシオンへ預ける。
思ったよりも広い背中に、心なしか苦しみが抑えられているように感じられた。
……*
(ここなら、まだ幾分かはマシだろう)
イルシオンが選んだのは、救護室から少し歩いた先にある食糧庫。
ブラドはカッソ砦の中へと身を隠してしまった。イディナを背負った状態で遭遇したくはない。
一刻も早く、彼女をゆっくりと休ませる事を優先した。
部屋を照らす僅かな灯りを、イディナの近くへと寄せる。
彼女の肌や首筋を中心に、先刻もよりも青白い部分が広がっている。
悪化しているのは、明白だった。
「イルさん……?」
「あ、ああ。大丈夫、大丈夫だ。絶対に、オレが何とかする。
だから、イディナは安心して横になっていろ」
要らぬ不安を与えてはならないと気丈に振舞うイルシオン。
尤も、イディナには解っている。それが嘘である事を。
知り合ってから、共に旅をして。稽古にも付き合ってもらうようになって。
見習い騎士達を鼓舞する一方で、自身は少し無茶なぐらいに自分を痛めつける。
知っている。本当は彼も、無理をして強く振舞おうとしているのだと。
五大貴族の次期当主だから。神器の継承者だから。英雄になりたいから。
勿論、それらもイルシオンを構成する上では欠かせないものなのかもしれない。
けれど、今の彼はそれよりも強く抱いているものがある事をイディナは知っている。
あの日。砂漠の国での夜。
イルシオンは紅龍王の神剣に、己の気持ちを吐露した。
彼はずっと後悔している。償う方法を求めている。これ以上は失わないようにと、必死にもがいている。
(やさしい、ひと……)
イディナは知っている。この人は優しい。
だから、こうやって自分の身を案じてくれている。何とかしようとしてくれている。
その結果、また哀しみを背負わせようとしてしまっている。
朦朧とする意識の中で、イディナはイルシオンの袖を摘まむ。
彼はすぐに手を握り返してくれた。感覚が鈍くなっていく中、彼の温もりだけは不思議とはっきり感じられた。
「イル、さん……」
「無理をするな! 安静にしていろ!」
安静にしていたところで、何かが変わる訳でもない。
理解しているにも関わらず、安っぽい言葉しか吐き出せない自分が嫌だった。
「おね、がいが……。あり、ます……」
「なんだ? なんでも言ってみろ。オレに出来ることなら、なんでもして見せる」
「やくそく……ですよ……」
「ああ……」
イルシオンの言葉に、イディナは口元を緩めた。
言質は取った。そう言いたげな顔をして見せるが、彼には伝わらない。
「ぼくが……吸血鬼族になったら……。
イルさんが、ころして……ください……」
息を荒くしながらも、イディナは気丈に笑って見せた。
イルシオンへ苦しい選択を迫ると解っていても、どうしても言わずには居られなかった。
「そ……んなこと! 出来るわけがないだろう!」
受け入れ難い願いを前にして、イルシオンは声を荒げる。
反応を予測していたイディナは、苦しい中で懸命に笑顔を作り続ける。
「だって、ひと……。おそっちゃう……ですよ……。
イルさんなら、なっとく、できます」
「オレが納得出来ないんだ!」
「でも、イルさん。せかいを……まもる、えいゆうに……なるから。
せかいのために、ぼくを……。ころして、くださいよ……」
「――ッ」
イルシオンは言葉を失った。
世界の為に一人の人間を犠牲にする。それはかつて、自分がシン・キーランドへ強要をしようとした事だったから。
自分は復讐心から、不老不死の魔女を利用しようとした。
その為には彼女の心の拠り所となっているシンが邪魔で、彼の命を奪おうとまで考えた。
彼が自分との決闘で発した言葉は今でも忘れられない。
――だったら、俺が世界も救ってみせる。
――フェリーを護るためにそうしないといけないなら、全部俺が救ってみせる。
生まれは平凡で、神器はおろか魔術も碌に扱えやしない。
特異な人間に囲まれて、数奇な運命に振り回されている男。
そんな彼が、大切な女性ひとりの為に世界を救うと断言してみせた。
その言葉は紛れもなく本心から発せられたものなのだと、今なら解る。
イルシオンは自問する。自分はどうなのかと。
あれから強くなっただろうか。変われただろうか。世界を救うに値するだろうか。
答えは解らない。
ただ、ここでイディナを犠牲にしていいはずがない。
世界の為に誰かの命を天秤にかけていいはずがない。
(落ち着け、考えろ。まだイディナは眷属になっていない。
救う手立ては、必ずあるはずなんだ)
残された時間も判らないまま、イルシオンは必死に頭を回転させる。
真っ先に浮かび上がったのは、根源であるブラドの命を断つ事。
そうすれば、この苦しみから解放されるのではないか。
けれど、現状を鑑みると現実的な解決策では無い。
ブラドは戦闘を離脱してしまった。今思えば、眷属化させる時間稼ぎだったようにも思える。
逆説的に見れば、ブラドを仕留めればイディナは解放されるという説を後押しするものではあるのだが。
しかし、その為には苦しんでいるイディナをこの場へ放置していかなければならない。
残された時間も判らないまま、吸血鬼族の眷属になる事を恐れながら。イディナを孤独にさせてしまう。
万が一、ブラドを斃したとしても間に合っていなければ。きっと自分は、一生後悔をするだろう。
ただ、それ以外の方法が思いつかない。
砂時計から零れ落ちる砂のように、彼女に残された時間は減っていく。
(他に手立てはないのか……?)
もどかしさからイルシオンは、両手で強く握り拳を作る。
自らの紅炎の槍で火傷をした左手が、痛みの信号を彼へ伝える。
それは、ブラドとの戦闘を思い返させる切っ掛けとなった。
(そうだ、オレもあの時――)
イルシオンは自分の左手をまじまじを見開く。
紅炎の槍を放ったあの時。自分は間違いなくブラドの牙に噛まれていた。
左手に刻まれている、牙の食い込んだ痕が何よりの証拠。
イディナの首筋は自分の乱入もあり、先端しか触れていない。
牙の食い込み方でいえば明らかに自分の方が深いにも関わらず、高熱を出して魘されているのはイディナだけ。
これは明らかにおかしいと、イルシオンは言い切れる。
(時間差か? それとも場所か?)
時間差の可能性は恐らく低い。そうであれば、態々牙を深く差す必要がないのだから。
吸血鬼族の魔力を送り込む為の入り口なのだとすれば、深いに越したことは無いだろう。
イディナは掠めているからこそ、こうやって遅れてやってきているのではないだろうか。
どちらかと言えば、場所が影響している方が可能性は高い。
ブラドは恐らく、自分へ襲い掛かった時も首筋を狙っていた。
心臓か、脳か。それらが近くであればある程に効力が高いのであれば、首筋を狙うのにも納得が出来る。
けれど、これらの仮説は意味を成さない。
原因が解かった所で、イディナの治療には役立たない。
求めるものが根本的に違うと、イルシオンは己の前髪を鷲掴みにした。
おかしいのは、イディナだけに症状が現れている事。
場所が遠いとはいえ深く牙を喰い込ませた自分。
一方で浅い代わりに首筋へ痕を付けられたイディナ。
時間差はあれど、自分にも異変があるはずなのではないだろうか。
決定的な違いは何か。
牙が刺さった瞬間に、紅炎の槍を放ったからだろうか。
火傷を負った代わりに、眷属化から免れたのだろうか。
(いや、違う。きっと何か、何か決定的なものがあるはずなんだ)
自分とイディナで違うものはないかと、懸命に答えを求める。
性別だとか、年齢だとか。どうしようもないものは即座に候補から棄てる。
今はそんなものに貴重な時間を割く訳にはいかない。
「イル……さん……?」
悩み、悶えるイルシオンの姿は、視界が霞む中でもよく判る。
我ながら酷い事を言ってしまったと反省もしている。
けれど、イルシオンになら殺されてもいい。イディナは、本気でそう考えていた。
砂漠の国で砂漠蟲に喰われた際。
イディナは彼に命を救われた。だから、彼になら殺されても納得が出来る。
これは必要な犠牲だと割り切って欲しかった。辛さを前面に押し出されると、本音が溢れてしまう。
本当は吸血鬼族の眷属になんてなりたくはない。
まだ生きていたい。イルシオンが進む未来を、自分にも見せて欲しいと。
「大丈夫だ、イディナ」
イルシオンは根拠もなく励ましてくれる。
傍に居てくれるだけで嬉しいと伸ばした手を、彼が掴もうとした瞬間。
コツンと、紅龍王の神剣の鞘が床を鳴らした。
奇跡にも近い偶然。或いは、神が自己主張をしたのかもしれない。
紅龍王の神剣を造りし神、焔と清浄の神が。
「そう、だ……」
イルシオンはどうしてこんな単純な事に気が付かなかったのかと、自分の馬鹿さ加減に嫌気が差した。
アメリアが実際に、水の精霊を通して大海と救済の神から聞いているのだから間違いない。
神器は法導暦が制定される前に起きた魔族との大戦。つまりブラド達と戦っていた時代に造られた。
本来与えられていた役目を、全うしてくれていた。だから自分は、無事だったのだ。
「紅龍王の神剣がオレを護っていてくれたのか……」
鞘から抜かれた紅龍王の神剣は、刀身を紅に灯す。
数舜の沈黙の後を経て、彼が言おうとしている言葉を読んでいるかのように。
これまで紅龍王の神剣は、イルシオン・ステラリードを間近で見ていた。
初めは彼を神剣の継承者として認めた時。継承者となった彼は浮かれていて、紅龍王の神剣は勲章ぐらいにしか思っていなかった。
それでも、紅龍王の神剣はイルシオンを認めていた。
クレシア・エトワールと共に困っている人々を救ける姿は子供っぽい振舞いとは裏腹に、どこか気高くもあったからだ。
シンを殺そうとした時も、彼が抱いた哀しみを間近で感じていたからこそ見棄てる事は無かった。
転機が起きたのは砂漠の国での一件。
宝岩王の神槍の継承者であるオルガルの助言を得たイルシオンは、その行動を実行へ移す。
今まで神器が感じていた思いを、正式に彼の口から聴く事となった。
それからイルシオンは事あるごとに紅龍王の神剣へ懺悔を口にしていた。
神器を通して、彼の思いは焔と清浄の神へと届いていた。
いつしかその行為は、祈りにも等しい尊いものへと変わる程に。
紅龍王の神剣。そして焔と清浄の神はイルシオンを理解している。
次の言葉を聞かずとも、何を言おうとしているのかは伝わっていた。
――イディナを救って欲しい。
きっとそれは、自分が神器の継承者でなくなってもいいという覚悟の下に発せられるだろう。
紅龍王の神剣が自分を護ってくれているのなら、今度はイディナを護って欲しい。
今のイルシオンならば、そう願うに違いない。
あれだけ神器の継承者である事に拘っていたにも関わらず、手放す事を厭わない。
そんな男に成長をしたからこそ、紅龍王の神剣は力を貸す。
もう少し、イルシオンの行末を見届けたいが為に。
「……これは」
紅に灯った刀身が、眩い光を放つ。熱を持っているが、不思議と怖くない。
命の煌めきを感じる、暖かい光だった。
イルシオンは本能的に理解をした。この光が、自分を護ってくれていたものの正体だと。
そして、この輝きをどう扱うべきかは改めて考えるまでもない。
「イディナ。オレを、紅龍王の神剣を信じてくれ」
「しんじるもなにも……。うたがったこと、ないですよ」
「そうか……。ありがとう」
弱々しく微笑むも、決して嘘ではないというのがよく解かる。
彼女は本気で命を託してくれているのだ。ここで応えなければ、自分が存在する意味は無い。
「行くぞ、イディナ」
イルシオンは煌めく紅龍王の神剣を、イディナへと翳す。
彼女の身体に光が灯り、間も無くして炎に包まれる。
けれど、イルシオンにもイディナにも焦りはない。
その炎は身を焦がすものではなく、生命の灯を感じさせるものだったから。




