345.時を経た因縁
吐き気を催す程に漂う血の臭いも。
変わり果ててしまった仲間の姿も。
その原因となる吸血鬼族も。
全ての恐怖や絶望が、紅に灯る刀身によって焼き尽くされる。
自分を抱えるその腕は逞しく、イディナはまた大粒の涙を流した。
「イルさん……っ!」
密着しているとよくわかる。息は荒く、胸が大きく鼓動している。
彼は自分の居る救護室まで、全力で駆け付けてくれたのだと。
「大丈夫か、イディナ?」
「はっ、はい! 大丈夫……です!」
イルシオンの問いに我を取り戻したイディナは、彼の腕から解放される。
自分の剣は手から離れてしまった。どうするべきか戸惑っていると、ブラドとの間にイルシオンが己の身体を滑り込ませる。
「怪我もしているだろう、無理をするな。ここはオレに任せろ」
「は、はい……」
背中越しから聴こえてくる声は、不思議とイディナに安心を与えた。
ブラドの牙が触れた首筋をそっと手で押さえ、彼の邪魔にならないようにと己の身を引かせる。
(それにしても、一体どういうことだ……?)
紅龍王の神剣の切っ先を向けながら、イルシオンは異様な光景を訝しむ。
気掛かりなのはこの男が侵入していたという点よりも、イディナ以外の人間の状態についてだった。
裂けた皮膚から肉や骨が剥き出しになっているにも関わらず、流れ出る血は異様な程に少ない。
それどころか、目立った外傷はないのにまるで干からびてしまったような者まで存在していた。
極めつけは見覚えのある二人。カッソ砦に所属している軍医と衛生兵だった男達。
瞳孔の開き切った眼はとても正常とは言い難い。犬歯に至っては、まるで獣のように鋭い牙へと変貌しているではないか。
軍医に至ってはイディナのものと思われる剣が骨まで食い込んでいるにも関わらず、気に留める素振りすら見せない。
「イディナ。どういう状況か教えてくれ」
警戒を怠る訳には行かないと、紅龍王の神剣を構えたままイルシオンが問う。
神剣が発する炎か高熱を警戒しているのか。または本能なのか。軍医と衛生兵は間合いにまで近寄ろうとはしなかった。
「その。入ってきた人は、吸血鬼族って……。
それで、軍医と衛生兵の方は眷属にされたって……」
「吸血鬼族だと!?」
よもや相対する事になろうとは、夢にも思わなかった。
500年前の争いでミスリアを震撼させた魔族の純血種。吸血鬼族。
俄かには信じがたい話だったが、イルシオンはイディナの話をすんなりと受け入れる。
眼前に広がる異様な光景を、たった一言で納得させる単語なのだから。
同時にイルシオンは、ブラドの顔を直視しないようにと注意を払った。
他者の精神を魅了する、吸血鬼族の魔眼を警戒してのものだった。
視線は様々な情報を与えてくれる。イルシオンも戦闘中はなるべく、他者の視線から動きを読み取ろうとしている。
イディナが教えてくれなければ、いつ術中に嵌っていたか判らない。
むしろ、ここまで魔眼を使わなかったのが不思議なぐらいだった。
ブラドが魔眼を使わなかった理由は、紅龍王の神剣に在った。
神剣の切っ先は、常にブラドへと向けられている。刀身が発する熱気により陽炎が生まれる。
結果、魔眼の視線は揺らぎ、イルシオンへと届いていない。
その事実に唯一気付いているブラドは、歯噛みをした。
500年経った今でも、神器がいかに忌々しい存在であるかを思い知らされている。
吸血鬼族の王であるブラドにとって、特に辛酸を嘗めさせられた神器がふたつある。
ひとつは自らを氷塊の中へと封印をした賢人王の神杖。
そしてもうひとつが、イルシオンの持つ紅龍王の神剣。
太陽の光にも等しい熱気を発する紅い剣が、憎たらしくて仕方が無かった。
「貴様、名を何と言う?」
「……イルシオン・ステラリードだ」
「ステラリード……?」
イルシオンの返答に、ブラドは眉を顰めた。
ステラリードという名は知っている。昔からミスリアで名の通った家系のひとつ。
事実、過去の大戦でも刃を交えた事がある。奇妙な因縁を感じずには居られなかった。
「何がおかしい!?」
「ふ、いや。時を経ても切れぬものがあると感じただけだ。
我は吸血鬼族の王。ブラド・エルジェベ。
現代のステラリードよ、ここで因縁を断ち切ってくれよう」
刹那、ブラドは蝙蝠のような翼を左右へと広げる。
狭い室内に黒が広がる。イルシオンが翼に気を取られた一瞬のうちに、ブラドが彼の懐まで間合いを詰めていた。
「ぐっ――!?」
けれど、イルシオンとて警戒はしていた。不意を突かれた行動にも、自分の身体はしっかりと反応をしている。
突き上げるように伸びるブラドの爪を、紅龍王の神剣の刀身が受け流す。
「貴様が勝手に決めた因縁に、興味などない!」
フィアンマにも淀みが無いと評された魔力による身体操作を、イルシオンは遺憾なく発揮する。
紅龍王の神剣に込めた魔力が、ブラドの爪を灼き斬る。
続けざまに軸足へ魔力を込め、自分の間合いにするべくブラドの身体を肩で押しのける。
「ぬうっ……!」
右手の爪は確かに斬られた。けれど、まだ左手が残っている。
警戒して然るべきなのに、イルシオンは怯まない。自分が攻める事のみを追求した行動に、ブラドは警戒心を強めた。
完全に復活しているならいざ知らず、現状でこの男を正面から相手取るのは少々厄介かもしれない。
ならば自分の取るべき行動はと、ブラドは左手を突き出した。
「当たる……かァ!」
顔面に向かって伸びてくるブラドの爪を、イルシオンは紙一重で躱す。
頬が裂け、燃える炎のような紅い髪が散る。危うい瞬間ではあったが、これでブラドの両手は迎撃の手段を失った。
開いた空間は紅龍王の神剣の通り道となる。
右手の爪を斬り落とした神剣の刀身を切り上げようとした瞬間。ブラドの口角が、不気味に上がっていくのが見えた。
「いいのか?」
刃を振り上げるまでの時間は、一秒にも満たない。
それでも、イルシオンの脳はブラドの言葉の意味を導き出そうと回転をしていた。
斬り落とした右手の爪。躱した左手の爪。
自分に致命傷を負わせる事は叶わなかった。一体何が問題なのか。
嘘であるとは思えなかった。襲い掛かってくる刃を鈍らせるにしては、相手に判断を任せ過ぎている。
「――ッ!」
紅龍王の神剣の刀身がブラドに触れようとした瞬間、イルシオンは気付いてしまう。
左手の爪は躱した。伸びる爪を、躱してしまった。
自分の背後に誰が立っているのか。ブラドが真に狙っているものに、気付いてしまった。
「えっ?」
首元を抑えながらイディナは、思わず声を漏らした。
ブラドの攻撃をイルシオンが躱したと思えば、一直線に自分へと襲い掛かってきている。
手に剣は握られていない。イルシオンのように反応をする事も、ままならない。
「くっ、そおぉぉぉぉ!」
自分から離れているイディナを狙うと思ってもみなかった。
明らかな失敗を前に、イルシオンは歯を食い縛る。
半ば強引に身体の重心を変え、崩れ込むようにしてブラドへ体当たりを試みる。
済んでのところで軌道を変えたブラドの爪は、イディナへ触れる事は無かった。
「やるではないか、ステラリードの者よ」
しかし、ブラドにとってはイルシオンと密着する事が真の狙いだった。
神器の継承者たるイルシオンと、騎士とはいえ一介の少女に過ぎないイディナ。
どちらが脅威であるかは明白なのだから。
ブラドにとって、人間は理解しがたい生き物だった。
仲間意識が強いと思えば、魔族のように主従関係がはっきりしている場合もある。
無駄に数だけは多いからか、人間同士で争う事も珍しくない。
幼気な少女を救ける為に現れたこの少年は、仲間意識が強い性質を持っているに違いない。
ブラドの読みは当たっており、事実イルシオンは彼の思うがままに行動を促されている。
紅龍王の神剣を振り切る事が出来ない、密着した間合いに。
「おかげで、労せず貴様を葬ることが出来そうだ」
密着したイルシオンの腹部に、ブラドは己の右手。その指先を当てる。
イルシオンに斬り落とされたと言っても、所詮は爪。再び再生させる事は容易だった。
「……っ」
「ほう、悲鳴を堪えたか。大したものだ」
腹を貫かれたにも関わらず、イルシオンは苦痛の声を一言も漏らさない。
鋭い眼光は、自らが討つべき敵だけを見ていた。
並の者であれば、彼の気迫に気圧されていたのだろう。
だが、吸血鬼族の王にとっては慣れた光景だった。
精神力が苦痛を抑え込む輩等、嫌と言う程見て来た。
そして、ブラドは決してそう言った手合いが嫌いではない。
復活したばかりの自分には、まだ力が足りない。蘇らせた人間も、腹の内では何を考えているか解かったものではない。
ブラドには力が、手駒が必要だった。それも、手練れの。
「気に入ったぞ、ステラリードの者よ。我が配下にしてやろう。
共に新たな吸血鬼族の帝国を築こうではないか」
イルシオンを自分の手中に収めようと、ブラドは牙を剥き出しにする。
剥き出しとなった鋭い牙が、イルシオンへと襲い掛かる。
「イルさんっ!」
自分の名を叫ぶイディナの声が、イルシオンの耳へと届く。
辛そうな声だった。心から自分の身を案じている声だった。
救けに来たのに、心配をさせてしまっている。
そんな事はあってはならないのにと、イルシオンは無意識に己の手を差し出していた。
「な……!?」
ブラドの顔面を、イルシオンの左手が抑え込む。
牙が左手に食い込んでいるが、痛みなど一切気にしてはいない。
「誰が……。貴様の帝国になんか、入るものか!」
イルシオンはそのまま魔力を放出し、左手から魔術を放出する。
紅炎の槍。ゼロ距離で放たれた炎の矢は、自らの左手を代償にブラドの顔を焼け焦がした。
「ぐっ……! キ、サマ……ッ!」
「吸血鬼族の帝国など、お断りだ。オレはイルシオン。イルシオン・ステラリード。
ミスリア五大貴族の一家、ステラリード家の次期当主だ! 貴様などに、構っている暇はない!」
至近距離からの魔術。自らの左手すら犠牲にする一撃を前に、流石のブラドも身を仰け反らせる。
次の瞬間、右手に握られた紅龍王の神剣は吸血鬼族の王の胸を斬り裂いていた。
「ぐううううううっ!」
顔面から。そして斬られた胸から焦げた臭いを発しながら、ブラドは後ずさりをする。
人間はいつもこうだ。脆弱な種族でありながら、いつも魔族である自分達に抗う。
時を経ても変わらない習性は、本質的なものだろう。きっと、未来永劫変わる事はない。
けれど、ブラドにも吸血鬼族の王としても矜持がある。
このままおめおめを引き下がるつもりは無かった。
何より、既に布石は打たれている。
後は蒔いた種が芽吹くのを、待つだけだった。
「く、くく……」
「何がおかしい?」
呼吸を整えながら、イルシオンは紅龍王の神剣を構える。
自らの炎で焼けた左手と、ブラドによって貫かれた腹部。イルシオンも決して軽傷ではない。
一刻も早く決着を付けたい所だったが、それはブラドの望みとは相反するものでもあった。
「いや、素直に感服しているのだよ。傷だらけになっても尚、戦おうというその意思を」
――もうすぐ、その想いすらも消えてしまうというのに。
続く言葉を、ブラドが発する事は無かった。
代わり彼は、自らが採る事の出来る最善策を選ぶ。
イルシオンとイディナにとっては、最も避けたかったものを。
両の手を掲げ、左右から十本の爪が際限なく伸びる。
鋭い刃にも劣らない爪は救護室のあらゆる者を斬り先、イルシオンが破壊した石壁も合わせて部屋の垣根を総て取り払ってしまう。
「我も敬意を表するからこそ、この場は退却を選ぶとしよう。
また逢う時は、じっくりと話が出来そうだな」
「待て!」
不敵な笑みを浮かべながら、ブラドは闇の中へと消えていく。
追い縋るイルシオンだったが、眷属と化した軍医と衛生兵が行く手を阻む。
「くっ……。すまない!」
伝承では、吸血鬼族の眷属となった者は戻る事が無い。
申し訳なさを感じながらも、イルシオンは紅龍王の神剣を用いて二人を斬る。
ボロボロと崩れた身体が灰となる姿は、とても見ていられなかった。
「吸血鬼族は……」
眷属を利用して足止めを行っている間。ブラドの気配は完全に消えていた。
敵地のど真ん中で身を隠す理由など、限られている。
再び眷属を増やすか、血を吸って自らの回復に充てるか。
どちらにしろ、これ以上の犠牲を増やす訳には行かない。
「イディナはどこかで身を隠していろ。オレは――」
吸血鬼族を追う。
イルシオンが、そう告げようとした瞬間だった。
イディナの身体がその場に崩れ落ちる。
「イディナ!?」
慌ててイディナの元へと駆け寄るイルシオン。
呼吸は浅く、荒い。額に触れると、信じられないような高熱が掌に伝わってくる。
「お前、こんな身体で動いていたのか!?」
「ち、ちが……。なんだか、急に……」
急に苦しくなったと訴えるイディナ。
何が何だか分からず、彼女自身も混乱しているようだった。
「くび……あつ、くて……。きぶん、わるく……」
発生源はここだと言わんばかりに、そっと首筋に手を触れるイディナ。
彼女の指先が首のある部分に触れた時、二人は原因が何なのかを察した。
「これ、ヴァン……パイアの……」
イルシオンの眼には、はっきりと眼に映っている。
ブラドの牙が触れたその部分から、彼女の身体が青白く変色していこうとしている様を。
眷属となった者は、もう戻る事が出来ない。
己が知っている吸血鬼族の伝承を前に、イルシオンは狼狽える。
「まだだ、まだ間に合うはずだ……」
それはイディナではなく、自分を励ます為に投げかけた言葉だった。
また近しい人を失うかもしれない。その事実から、目を背ける為のもの。




