344.吸血鬼族の王
「まさか、砂漠の国があんな戦力を持っているとは……」
人間を遥かに超える巨体。そして、その巨体に相応しいだけの膂力。
異常発達した魔物さえも、人造鬼族と比べるとまだ可愛げすら感じる。
戦場へと投入された鬼族の姿を思い出し、指揮官を務めるルクスは声を漏らした。
魔術大国ミスリアへ侵略を試みるのだから、無策ではない事は判り切っていた。
それでも、想像だにしなかった存在を前にして驚きを隠せない。
「父上。どういうわけだか判らないが、人造鬼族は親玉の命令が無ければ動かないみたいだ」
砂漠の真ん中で佇み、動こうとしない人造鬼族。
またいつ動き出すのかは判らないと警戒を緩める訳には行かないが、龍騎士からの情報が確かである事は現状が証明している。
「その頭目はどうしている?」
ならば、人造鬼族を束ねるオルゴは無視できない。
一刻も早く討たねばならないと急ぐルクスの問いに、イルシオンは首を横へと振る。
「視認できる場所には居ない。フィアンマが追ってくれてはいるようだが……」
砂塵を巻き上げ、姿を消したオルゴは未だ息を潜めている。
彼を野放しには出来ないとフィアンマが捜索をしているという連絡を、龍騎士から受けている。
その際に上空から確認をしたが、オルゴの姿は見当たらない。地中に隠れたというのが、フィアンマの見解だった。
戦闘能力もさることながら、彼の命令で人造鬼族が動き始めるのであれば野放しには出来ない。
かといって、無闇に兵を送り込むと返り討ちに遭うのは目に見えている。オルゴの件は、フィアンマに一任された。
「オルゴを叩けば、砂漠の国の勢いも無くなるはずだ。なんとしても……」
では逆に、オルゴを叩けなかったら?
最悪の事態を想定したルクスは、自らの手で口元を覆った。
「どちらにしろ、やるしかないだろう。カッソ砦には、オレだっている」
「あ、ああ。そうだな」
いつの間にか少し大人びた雰囲気を醸し出す息子の姿に、ルクスは息を呑んだ。
神器に選ばれて各地を放浪し始めた時とは、随分と違う。
その間には、耐えがたい悲しみがイルシオンを待ち受けていた。それでも今、彼はここに立っている。
イルシオンの気持ちを思うと、素直に喜ぶ事は出来ない。
彼の気持ちを汲み取りつつも、ルクスは息子を頼もしく思えるようになった。成長をしたのだと、実感できた。
だが、そんな彼に運命は容赦をしない。
またしても、試練が待ち受けている。
「父上。何か様子がおかしくないか?」
「ああ、言われてみれば……」
部屋の外から聴こえた確かな違和感に、イルシオンは訝しむ。
息子に促され耳を澄ませるルクスも、頷き肯定をする。
違和感の正体を探るべく、扉を開けるイルシオン。
幼い少女の悲鳴が響き渡ったのは、直後の事だった。
「……イディナ!?」
何度も、何度も聴きなれた声。イルシオンは声の主を即座に判別する。
次の瞬間、彼は部屋を飛び出していた。彼女の声が反響した方角を頼りに、全速力で砦の中を駆け抜けていく。
「イルシオン!」
ルクスが呼び止めるも、既に彼は視界から消えていた。
ああなってしまえば、もう彼を止められる者など存在しないだろう。
一人取り残されたルクスは、砦の中に漂う不穏な空気を感じ取っていた。
喉を絞めつけるような、妙な静けさ。イディナの悲鳴と合わせて、砦の中で何かが起きている。
「これは……」
耳を澄ませると、イルシオンが向かった救護室以外の様子もおかしい。
原因がまるで分らない。だが、一刻も早く対処しなくてはならないと、自らの本能が訴える。
「ここからだと、一番近いのは食堂か……」
救護室はイルシオンへと任せ、ルクスは食堂へと向かう。
慣れたはずの自分の拠点が、まるで違うものに感じられた。
……*
「娘よ、丁度良い所に来たな」
青白い肌をした男は、嘗め回すかのような視線でイディナの隅々を確認する。
幼い子供だが、それだけに肌の艶も張りも申し分ない。
怯えで泳ぐ視線もまた、心地良い。自分が上位の存在であると、改めて確認が出来る。
「ちょ、ちょうどいいって……」
歯の根が噛み合わないまま、イディナは声を振り絞る。
異質な光景に呑まれてはいけない。そう思う事が既に呑まれているのだと、気付いている様子では無かった。
「いや、なに。救護室に居る人間どもはどれも不味い血をしていてな。
こんなに大量には喰いきれんから、眷属にくれてやることにしたのだ」
男が顎で示したのは、犬歯を尖らせた軍医と衛生兵。
救けを求めた者の血肉を貪り、涎と共に血を顎から床へと垂らしている。
「せ、せんせい! ダメです、離れてください!」
自分が何をしているのか、彼ら自身は理解しているのだろうか。
懸命に止めるよう訴えても、彼らは決して耳を傾けない。
イディナには意味が解らなかった。
先刻まで、軍医も衛生兵も負傷した兵士を救うべく懸命に動いていたのに。
自分が眠っている数時間の間に、どうしてこんなに変わり果ててしまったというのか。
「無駄だ。そやつらは既に我が眷属と成り果てた。既に人間ではない」
「い、意味がわからないですよ……!」
必死に訴えるイディナを鼻で嗤うように、男が言い放つ。
身を震わせながらも気丈に振舞うイディナへ、男は名乗りを上げる。
「判り易く言えば、この者達は吸血鬼族となった。我の手によって。
我が名はブラド。由緒正しき吸血鬼族の王ぞ」
「吸血鬼族の、王……」
イディナとて、その名を知らない訳ではない。
御伽噺で耳にした事がある。かつて人間とこの地で争いを繰り広げた、純血の魔族。
特に、その王の存在は御伽噺でも鮮明に語られている。
他者を魅了する魔眼を持ち、真祖と呼ばれる王の一族はその牙を以て他種族を眷属へと変貌させる。
目の前の男は自分が王なのだと、名乗った。確かに、そう言ったのだ。
「で、でも! 吸血鬼族はずっと昔に滅んだって……!」
やはり、イディナには意味が解らなかった。
その伝説上の存在がどうして生きているのか。生きているとしても、どうしてカッソ砦に居るのか。
あんなに一生懸命に兵士を救おうとした軍医や衛生兵を、醜い姿に変貌させてしまったのか。
頭の中がぐるぐると回っているだけで、決して答えには辿り着かない。
「ハッ、人間どもの伝承ではそう伝わっているようだな。
だが、実際はどうだ? 我はここで生きている。それが全てではないのか?」
「じゃ、じゃあどうしてカッソ砦に!? いつから……!?」
一体いつの間に入ったというのか。
正面から突破を試みようものなら、騎士との接触は免れない。
少なくとも救護室がこのような有様を迎える前に、誰かが気付いたはずだった。
「おかしなことを訊くのだな、お前は」
ブラドはため息を吐きながらも、決して機嫌は悪くなかった。
世界再生の民の力添えもあり、500年の時を経て復活を果たした。
その際に敵対していた鬼族の血と魔力が注がれた事は屈辱の極みであるが、復活の喜びに比べれば些細な問題だった。
彼を復活させた黒衣の男は、人間とは思えない圧迫感を放っていた。
吸血鬼族が再び繁栄する日を望むのであれば、自分に従えと。
復活したばかりで力を取り戻せないという点を差し引いても、自分に拒否権はないと感じていた。
黒衣の男によって与えられた使命は、魔術大国ミスリアを墜とすというもの。
それは、ブラドが500年前に果たせなかった悲願でもあった。
「貴様等が、素直に受け入れてくれたのではないか」
ブラドは一枚の布切れを摘まみ上げ、指から離す。
ひらひらと舞い落ちる布には、べったりと血が付着していた。
イディナには見覚えがある。その布は、負傷者の顔を覆っていたものだった。
吸血鬼族の王といえど、太陽の光を直接浴びる訳には行かない。
可能な限りその身を衣類で纏い、顔は真っ赤に染まった布を被せる。
鬼族によって顔面を潰された負傷兵を装い、ブラドはまんまとカッソ砦への侵入を果たした。
「王である我がこのような狡い真似をするのは気が引けたがな」
「だ、だったら! 早くここから出ていってください! みんなを、元に戻してください!」
「無理だな。一度我の眷属に堕ちた者が、人間に戻ることは無い」
イディナの顔から、血の気が引いていく。彼女にとって、それは死亡の宣告にも近かった。
今まで以上に奥歯が噛み合わない。剣を持つ手が震える。真っ直ぐに伸びているはずの刀身が、揺れて見える。
「そう悲しむな。すぐに貴様も、我が同胞にしてやろうではないか」
ブラドが指を鳴らすと、眷属と化した軍医と衛生兵が貪る動きを止める。
意思を持たない人形のようにぐるんと首を回して、見開かれた眼でイディナを見つめた。
「ひっ……」
本当に人間ではないのだと実感したイディナは思わず声を漏らす。
恐怖に染まる瀬戸際。ブラドにとって、食事を楽しむ前のデモンストレーション。
「やれ」
もう一度指を慣らすと、吸血鬼族の眷属はイディナへと襲い掛かる。
剣を振り抵抗を試みるイディナだが、剣筋にいつものキレは存在しない。
見知った顔に刃を向けるという行為が、無意識の彼女の剣先を鈍らせた。
それでも刃は軍医の腕に食い込み、だらんと垂れていく。
だが、痛覚を失っているのか彼らが怯む様子はない。むしろ、思わぬ負傷を与えてしまったイディナの方が怯んでしまう。
必死に剣を抜こうとするが、食い込んだ刃は軍医から離れない。
それよりも早く、軍医と衛生兵がイディナの両腕を捕らえていた。
「はっ、離してください!」
振りほどこうと抵抗を試みるイディナだが、眷属達はびくともしない。
自分もかなり鍛えているはずなのに、羽交い絞めにされてしまう。
「そのまま抑えておけ」
ブラドの声に、眷属は特に反応を示さない。ただ、命令ははっきりと通じているようだった。
一歩ずつ近付いてくる吸血鬼族の王に、イディナの唇はカタカタと震えている。
「こ、来ないでください!」
「やれやれ、元気な小娘だ」
魔眼を使って鎮める事もブラドには出来たが、敢えてそうしない。
じきにこの娘も自分に従う傀儡と変わる。こんな生きた表情を見るのは、これが最後だ。
何より、人間の血は感情が乗っていた方が旨い事をブラドは知っていた。
「光栄に思え。我が復活して最初に吸う、女の血だ」
頬を掴み、口を無理矢理閉じさせる。
イディナの瞳から、大粒の涙が零れ出る。頬を通して、それらはブラドの手にも伝って行く。
間違いなく極上の味がすると、ブラドは確信をした。
顎へ掛けた小指に力を加え、首元を開けさせる。
頭を振って逃げようとするイディナだが、ブラドの力に抑えつけられていた。
ブラドの牙が、イディナの首元へ触れる。
尖った先端が彼女の柔肌をゆっくりと裂く。ぷつりと避け、血の球が表面へと現れた。
刹那、救護室を囲っていた壁に水平の切り込みが入る。
炎を纏った剣による強烈な斬撃は、石の壁をバターのように斬り裂いた。
斬撃の主は、紅龍王の神剣の継承者。イルシオン・ステラリード。
力業で壁を斬り裂いた彼は、異様な存在に捕らえられているイディナの姿を確認した。
「イディナっ!」
何かを考えるよりも早く、手が動いた。
魔力を込めた渾身の一撃が、彼女の顔を掴む悪鬼へと放たれる。
イディナを抑えつける力が弱まった一瞬のうちに、イルシオンはイディナを自らの元へと強引に引き寄せる。
「……イルさんっ!」
イディナの首筋から流れる血、ぽろぽろと零れる大粒の涙を目の当たりにしたイルシオンは、それ以上言葉を必要としなかった。
剣閃から放たれた一撃を遥かに超える熱気が、自分自身から湧き上がるのを感じる。
「貴様が何者だろうと、何を企んでいようと関係ない! 絶対に、赦しはしない!」
啖呵を切るイルシオンだが、吸血鬼族の王はその程度で怯みはしない。
そんなありきたりなものよりも遥かに興味を引くものが、彼の手に握られていたのだから。
「貴様。その剣は……」
熱を帯びた赤い刀身。向けられた剣先を、ブラドは知っている。
忘れるはずもない。人間の世界を征服せんとした自分を阻んだ、忌々しい神器のひとつなのだから。




