343.潜む悪意
「イディナ。ずっと動きっぱなしだろう、少しは休め」
軍医に休むよう促され、イディナはそれほどの時間が経過している事に漸く気が付いた。
意識をした途端に、強い疲労感が彼女を襲う。
「だ、大丈夫です! ぼく、まだ手伝えますよ!」
けれど、イディナは引き下がらない。
軍医や衛生兵の中には、自分より動き続けている者も大勢いる。
自分だけが休憩をする訳には行かないという使命感が、彼女の背中を押した。
そう思うのも、無理はない。
太陽が沈むにつれ送られてくる数は減ったものの、今も救護室は大勢の人で埋め尽くされているのだから。
剣で斬られた者。矢で射抜かれた者。
中には、鈍器で顔面をグチャグチャにされたのだろうか。顔に被せられた布が真っ赤に染まる者さえもいた。
いくら換気をしようとも、咽返るような血の臭いが眩暈を誘発する。
人同士が争う様は、こんなにも恐ろしいのかとイディナは身震いをした。
自分とて血には耐性を持っている方だと思っていた。
定食屋を営む傍ら、猟師が狩った獣を捌く姿を何度も見て来た。
血も、骨も、肉も、内臓も見慣れている。そう、自分へ言い聞かせていた。
けれど、違う。そう簡単に割り切れるはずがない。
同じ命でも、ここで傷付き苦しんでいる騎士達はイディナにとって線引きの内側に立っている。
中には挨拶を交わし、笑いあった者もいる。血塗れの姿を見て、平静さを保っていられる程イディナは大人ではない。
だからこそ、自分に手伝える事はやりつくしたい。
半ば気合が空回りする彼女へ、軍医は優しく諭した。
「休めと言っている。お前は前線にも出ていたんだ。
今のうちに身体を休めておかないと、いざという時に動けないぞ」
「そうそう。イディナが手伝ってくれたおかげで、こっちも随分助かったんだ。
後はおれたちに任せてくれ」
事実、イディナは治癒魔術が使えない立場にも関わらず、献身的に動いてくれていた。
彼女のサポートがあったからこそ、今日を乗り越えられたのは間違いない。
「わかりました……。では、少し休ませてもらいますね」
軍医たちの説得もあり、イディナはペコリと頭を下げる。
足取りが重い中、彼女は救護室を後にした。
……*
「このトカゲ野郎が! しつけえじゃねえかよ!」
「それはこっちの台詞だ! いい加減、諦めろ!」
龍族であるフィアンマと、鬼族であるオルゴの戦いは他者の追従を許さなかった。
一進一退の激しい攻防は砂を巻き上げながら、徐々にカッソ砦から離れていく。
薄暗くなってきた事もあり、カッソ砦からは自分達の姿を確認し辛くなっているだろう。
理解していても尚、フィアンマは退けなかった。
自分がオルゴを抑えているからこそ、人造鬼族による強行突破を防いでいる事を理解している。
オルゴもまた、思い通りの行かない状況に歯噛みする。
自分が居なければ人造鬼族は何も動きはしない。今も最後に下した命令のまま、龍騎士の相手をしているだろう。
人を遥かに超える巨躯による軍勢で砦を攻め込むには、自分がフィアンマを退けなくてはならない。
確かに鬼族の投入により、戦況は動いた。
人為らざる力。ミスリアの魔術に対抗出来うるだけの力が味方に居る。
それだけで砂漠の国の兵は士気を高め、攻め続けている。
ただ、オルゴにとってそれは面白くはない。判り易い武勲が、彼には必要なのだ。
砂漠の国とは違い、自分の力を誇示しないといけない立場の辛いところでもある。
(チッ、このトカゲ野郎が面倒すぎる。だったら、仕方ねえよな)
目の前で自分と攻防を繰り広げるフィアンマに対する苛立ちは、時間に比例して募っていく。
翼を失っているとはいえ、流石は紅龍族の長とでも言うべきだろうか。
出し抜く好機すら、おいそれと生み出す事が許されなかった。
だが、そこは長年偽りの神器を用いて、同胞すらも欺いてきた男。
持前の狡賢さで、勘定を始める。自分が一番得をする結果を得る為には、どう動けばいいのかを。
(オイシイとこだけ頂くのが、一番だろうな)
砂漠の国。というよりも、世界再生の民の次なる一手はオルゴも知っている。
そうなる前に手柄を総て自分の物にしたかったオルゴだが、どうにもそれは叶いそうにない。
彼の思考は徐々に、最終的に利を得る方法へと移動していく。
舌なめずりをするオルゴを前にして、フィアンマは訝しむ。
一体何がおかしいのか。何を考えているのか。彼の心の内が、まるで読めない。
確実に言えるのは、良からぬ事を計画しているであろう。ただそれだけだった。
フィアンマもまた、オルゴとは違う理由で決着を急いでいた。
原因は、ウェルカで聞いた治安の悪化にある。
紅龍族が正式にミスリアの騎士団に組み込まれた事により、招いてしまった副次的な被害。
平穏を護るつもりが、逆に蝕んでいた。ヴァレリアを初めとする騎士団が対策を練ってはいるが、折り合いが付くのはまだ先の事だろう。
だからこそ、ここで自分達の存在を認めてもらう必要がある。
決して敵意はない。威圧するつもりもない。ただ共存をしたいだけなのだと。
種族の違いから折り合わない部分もあるだろう。
けれど、畏れられたくない。頼られたい。信じられたい。
自分とミシェルのような関係をあらゆる場所で構築して欲しい。
紅龍族の王としての、切なる願い。
かつて先祖が結んでいた同盟を継いだだけではない。
自分自身の願いを込めて、フィアンマはミスリアを守護する。
「お前が人間に何の思い入れもないのであれば、退け!」
「テメェに指図される謂れはねえが!」
オルゴは己の持つ合金の鎖へ魔力を流し込む。
同じく魔力を宿し、肥大化した巨腕を以て地面へと強く叩きつけた。
「ぐっ……」
魔力を帯びた鎖は砂漠に触れると同時に爆ぜ、砂によるカーテンを生み出す。
目眩ましの隙に、強烈な一撃が放り込まれるに違いない。フィアンマは攻撃に備えるべく、その身を強張らせた。
「……あれ?」
しかし、何も起きない。
鎖による攻撃も、彼の硬く握られた拳も、フィアンマへ届く事は無かった。
巻き上げられた砂のカーテンはやがて、重力に誘われその役目を終える。
再びフィアンマの眼へ広がる景色に、鬼族の姿は見当たらなかった。
「まさか!」
初めに思い浮かんだのは、人造鬼族と龍騎士による戦闘。
自分との戦いを放棄して、彼らの援軍へ向かったのでないかと考えたフィアンマは振り返る。
オルゴは手強い。加勢されてしまえば、龍騎士とてただでは済まないだろう。
「あれ……?」
しかし、フィアンマの心配は杞憂に終わる。
龍騎士は人造鬼族と交戦中だが、そこに加わろうという影は存在していない。
「どこ行ったんだ、あの鬼族……」
周囲を見渡しても、オルゴの姿は見当たらない。
忽然と姿を消してしまった鬼族に、フィアンマは首を傾げる。
フィアンマが理解できないのも、無理はなかった。
彼が持っている情報ではオルゴの狙いも、カッソ砦で起きようとしている事も。
何ひとつとして、知る由は無かったのだから。
……*
「ふう……」
部屋の隅に体重を預けた途端。思わず漏れたのは、深いため息。
がっくりと項垂れた肩が上がらない。壁にもたれかけた頭はそれ以上に、重く感じた。
イディナは独りになって漸く、自分がどれほどまでに披露していたのかを自覚する。
神経が研ぎ澄まされていく一方で、剥き出しのまま痛みを刻み込まれているようだった。
「あれ? おかしいな……」
今更になって、手が震え始めている。
味方だけではない。砂漠の国の兵士からも伝わってくる、必死の形相。
まるで流れ作業のようになだれ込んでくる、負傷した顔見知りの数々。
高い志を持って騎士を目指した。その気持ちは今も揺らいではいない。
むしろ実状を知れば知るほど、自分も何か力になれないだろうかと考えてしまう。
イディナに足りなかったのは、知識と覚悟。
それも、彼女自身は理解しているつもりでいた。
実家を訪れる冒険者の話から、どれだけ過酷な状況に追い込まれるかを想像もした。
訓練の過程で、ヴァレリア達から嫌と言う程心構えを聞かされた。
何より、砂漠の国の経験を経て自分は戦えるのだと思ってしまっていた。
けれど、そのどれも違う。必要となる覚悟の種類が、まるで違う。
イディナの周囲には、常に彼女よりも遥かに強い人間が立っていた。
故に彼女は、自分が足を引っ張らないようにだけ注意をしていればよかった。
弱いと自覚しているからこそできる立ち回りが、そこにはあった。
今は違う。敵も味方も、強いだとか弱いだとかを気にしている暇はない。
刃により鮮血が舞い、魔術により身が焦がれる。地に伏していく人間の上を、人間が踏みしめていく。
次に這いずり回るのは自分ではないと、言いきれない。弱さを自覚しているからこそ、一層強く思えてしまう。
敵対する者もイディナ・コンサンスではなくただ一人の敵としか見てこない。
だからこそ、救護室でも何とかしなくてはならないと思った。
もしかすると自分だったかもしれない人を、一人でも多く救う為に。
「ぼくも治癒魔術、使えたらな……」
冬場などお構いなしに何度も洗った自分の手を、イディナはぼんやりと見つめる。
剣は好きだけれど、魔術は決して得意ではない。そうやって、自分は剣の修行に重きを置いてきた。
その事を、少しだけ後悔する。
もしも、自分が治癒魔術を使えていたならば。
もっと救えた人間が居たのではないだろうかと、考えずには居られなかった。
同時に、こうも考えてしまう。
剣に費やす時間を減らしていたならば、戦場で命を散らせていたかもしれないと。
結局、何が正解であるかを提示できる者など存在はしていない。
自分の能力と適正と、心のままに従うしかない。不意に訪れる、運命に立ち向かう為には。
「そうだ。イルさんに、お礼……言わなきゃ……」
想像を絶する緊張感を経験した。
こうして無事で居られたのは、運が良かった以外の表現が出来ない。
イルシオンが下がるように言ってくれたから、自分はこうして一日を終える事が出来る。
彼に気遣うような意図はなかったのかもしれない。ただ足手まといだっただけなのかもしれない。
それでもイディナは、礼を言わなくてはならないと思った。
どんな風にお礼を言うのが正しいのだろうか。
あれこれと考えているうちに、イディナの瞼が重力に抗えなくなっていく。
ほどなくして、彼女の意識は深い眠りによって失われていった。
……*
数時間後。
寒気により下がり切った部屋で、イディナは目を覚ます。
「……ん」
冷え切った身体を起こすように、身震いをする。
氷のように冷たい己の手を揉みながら、イディナの脳は徐々に覚醒を果たしていく。
「そっか。ぼく、いつの間にか寝ていたんだ……」
イディナは小さな身とは裏腹に、訓練ではいつも明るく元気を振りまいていた。
そんな彼女が壁にもたれ掛かったまま寝てしまうのだ。余程の疲労が蓄積していたのだろう。
立ち上がって、強張った身体を解していく。
窓を覗き外の様子を確認すると、流石に真夜中にまで戦闘が繰り広げられている事は無かった。
陽が昇れば、また戦闘が始まるのだろうか。
だったら、このままずっと夜でもいいのに。
「……関係ないよね」
けれど、そんな妄想は意味を成さないと知っている。
朝が訪れないのであれば、砂漠の国は夜に攻めてくるだけだ。
お天道様の機嫌に合わせて、戦争をしている訳ではないのだから。
強張っていた身体が解れ、暖まってきた頃。
次に求めるのは栄養だと言わんばかりに、イディナの胃袋が悲鳴を上げる。
思わずお腹に手を押し付け、声を殺そうと試みる。
次に視線を左右へ動かし、誰にも聴かれていない事を確認すると安堵のため息を漏らした。
「そっか、まだゴハン食べてなかったんだった」
今は何時だろうか。まだ残っているのだろうか。
イルシオンやフィアンマ。軍医や衛生兵も。きちんと食事を摂っているのだろうか。
「まだだったら、差し入れとかした方がいいよね」
体勢は兎も角、ぐっすりと熟睡をした事によりイディナはすっきりとしていた。
些細な事でも何か力になろうという献身的な想いを持ちながら、彼女は救護室へと向かう。
自分が眠っている間に起きた異変を知らないまま。
……*
夜の砦は冷たく静かで、妙な緊張感を発している。
滞在して数日。もう慣れたものだが、初日は夜更けにうろつくなど以ての外だった。
「あっ。やっぱりまだ頑張ってるんだ」
救護室から漏れる灯りを見て、まだ治療は終わっていないのだとイディナは認識をする。
軍医や衛生兵の様子を見て、必要ならば食事を。終えているなら、自分が食べた後で手伝いをしよう。
自然と速足になるイディナ。一切の疑念を抱かず、彼女は救護室の扉を開けた。
「あの、すっかり休みましたので! ぼくにお手伝いできること――」
明るく溌溂とした声のトーンが、徐々に下がっていく。
最終的には喉にまで込み上がっていた言葉を、出し切る事は出来なかった。
眼前に広がる異様な光景を前に、後ずさりをする。
込み上がってくる吐き気を押し戻すように、口元へ手を当てた。
「な……」
理解も、言語化も追い付かない。
イディナはただただ「どうして?」「これはなに?」という言葉を、頭の中で反芻し続ける。
知っている顔は確かに立っている。軍医も、衛生兵も、そこに居る。
ただ、彼らは一心不乱に貪っている。治療を受ける為に訪れた、兵士の血肉を。
「せ、せんせい……?」
漸く振り絞った言葉は「信じられない」というものだった。
イディナの声に反応をしたのか。軍医達は動きを止め、首から上だけを彼女と向けた。
見開かれた眼光。そして、異常に伸びている犬歯。
口元に纏わりついた血が猟奇的で、常軌を逸している事だけは伝わってきた。
「ほう、女か。それも若い。柔らかそうな肉をしている」
初めて聴く声に、震える唇を噛みしめるだけだったイディナは我に返る。
声の主を探すと、救護室の中に見知らぬ人物が佇んでいる事に気が付いた。
真っ白な髪をかき上げた、青白い男。
軍医達同様に鋭く伸びた犬歯と、金色の瞳が印象的だった。