33.『罪』
戻ってきたイリシャに促され、入れ替わるようにシンが温泉に浸かる。
成程、これは疲労回復にはよく効きそうだと感心をする。
静穏な世界で疲労回復に努めたかったのだが、胸の内は逆だった。
フェリーの様子がおかしかった。
戻った時にそれとなく目を逸らされたのが気になる。
拒絶という感じではないのが余計に気になった。
彼女と喧嘩する事は珍しくない。
しかし、心当たりがないのに避けられる経験は殆どなかった。
「……訊くしかないか」
シンは、眉間に皺を寄せながら野湯を後にした。
……*
「おかえり、シン。温泉はどうだった?」
「ああ、疲れが取れたよ。ありがとう」
戻ってきたシンを出迎えたのは、イリシャだった。
彼女の家なので居るのは当然と言えば当然なのだが、辺りにフェリーの姿は見当たらない。
昼間に茶を飲み交わした場所で、イリシャが一人で座っていた。
「フェリーはどうしたんだ?」
イリシャはクスリと笑い、答えた。
「フェリーちゃんなら、温泉に入って眠たくなっちゃったみたい。
先に部屋へ戻って眠っちゃった」
「……そうか」
様子がおかしかった事を確かめたかったのだが、寝てしまったのなら仕方がない。
それに、イリシャにも訊きたい事がある。
「イリシャ――」
「シン、わたしとお話しない? 待ってたんだ」
シンが言い終わるより先に、イリシャが切り出した。
虚を突かれた形になるが、話す場が出来るのは願ってもいなかった。
「ああ、俺もだ」
彼女に促されるまま、再び席に着いた。
差し出された紅茶は昼間とは違うようで、ハーブの匂いが鼻腔を擽る。
お互いがそれぞれカップに口をつけ、沈黙が流れる。
「……シンはさ」
先に口を開いたのはイリシャだった。
彼女は少し躊躇って、それでも真っ直ぐにシンの瞳を見ながら言った。
「フェリーちゃんの事、怨んでる?」
思いがけない質問に、シンは目を見開いた。
言っている意味を理解するのに、時間を要する。
シンはまず何故その事を知っているかを考えようとしたが、止めた。
フェリーが話したのかもしれない。あるいは、彼女が『逢った』と主張する自分から聞いたのか。
何かカマを掛けている可能性だってあるが、自分から聞いたと言われればその話は終わるのだ。
むしろ疑問は、イリシャがそんな事を訊くのだろうかという方へ移る。
彼女から漏れた躊躇いと、真っ直ぐに向かってくる眼差しが真剣な問いである事を証明している。
興味本位で触れて良い話題ではないと、彼女もきちんと理解している事が伝わってくるのだ。
「怨む理由がないだろう」
彼女の眼差しに導かれるように、シンは本心で答えた。
今度は、イリシャが少し驚いた顔を見せる。
「理由って……。フェリーちゃんは、貴方達の故郷を燃やしたんでしょう?」
両親も、妹も、友人も。フェリーの炎は全てを焼き尽くした。
残されたのは、シン唯一人。
フェリーは、そう信じている。
イリシャも、状況からそう想像している。
「フェリーがそう言っているだけだ。俺は何も見ていない。
それなのに、フェリーを怨むなんてできるわけないだろう」
だが、シンはそう考えてはいなかった。
シンの記憶にあるのは、炎に包まれた故郷。
景色が歪む程に揺らめいた火柱。舞い上がる灰。
歪んだ世界の中心に立っていた、涙で頬を濡らすフェリーの姿。
それが、シンの知っているあの日の全てだった。
「……そっか」
眼を逸らす事なく言ったシンに、イリシャはふたつの安心をした。
ひとつは自分が逢った時と彼の眼差しが同じである事。
もうひとつは、フェリーへ怨恨を向けていない事に。
先刻、彼女の素直な気持ちを聞いた。
想い人から怨まれるのは辛い事だと思う。だからこそ、心から良かったと思う。
同時にこうも思う。
彼は自分の故郷を灰燼に帰した者を探しているのだろうか。
もし、本当にフェリーが犯人だった場合は――。
彼女の気持ちを考えると、イリシャはその続きを問う事が出来なかった。
今はただ、怨んでいないという事実だけで良い。
「今度は俺が訊きたい」
「うん、いいよ」
イリシャが頷く。
訊きたい事は大体解っていると言わんばかりの返事だった。
「アンタ……イリシャが旅をしたっていうのは、本当に俺なのか?」
「やっぱり、その話なのね」
正直言って、彼女が自分に「逢った」と主張している内容をシンは真に受けてはいない。
疑ってはいても、妙に自分について詳しいのは間違いないのだが腑に落ちない。
持っている情報の時系列がおかしいのだから、当然の疑問だった。
結局、シンから見て彼女と自分の関係が一切判らないのだ。
イリシャは顎に手を当て、天井を見上げる。
答えてもいいのだが、あの時の自分は知らなかった。
つまりはそういう事なのだ。と、一人で納得をする。
「旅をしたのは本当よ。その時にフェリーちゃんが居なかったのも本当。
ただ、シンがフェリーちゃんを大切に思っていたのは見ていればすぐに判ったわ。以上っ」
「……なんだよ、それ」
結局、シンからすれば的を射ない返答だった。何も解らない。
歯痒くなるが、イリシャは「それ以上答えるつもりはない」とカップに口をつけた。
「それじゃ、今度はこっちの番ね。
シンは、どうしてフェリーちゃんを殺そうとしているの?」
シンは奥歯を噛みしめる。
さっきと同じはずのイリシャの視線が、今度は痛々しく感じた。
自分は真面目に答えるつもりはないが、反対は許さないと訴えられているようだった。
理不尽を感じつつも、シンは口を開く。
「……約束、したからだ」
「本当にそれだけ?」
次の言葉が出せなかった。
あの時、フェリーに「殺して」と頼まれた時、自分は頷いた。
フェリーは自分を産んだ人間に売られた。
アンダルに引き取られ、初めて逢うまでの事はシンもよく知らない。
ただ、アンダルと過ごすにつれて段々とフェリーの笑顔が増えていったのは知っている。
大好きだったアンダルが死んだ時、ずっと泣き叫んだ事も知っている。
孤独になった彼女を、自分の両親が引き取った。
妹とも仲が良かったし、家族が一人増えたような感覚だった。
それでも彼女は、たまに独りで無人となった家へ帰っていた。
住処ではなく、かつて大好きだったアンダルと居たあの家へ。
ぽつんと、人も物もなくなった部屋で彼女が立ち尽くしていた事を知っている。
悲しくて、彼女が独りで涙を流していた事を知っている。
一日でも、一回でもそんな日が減るようにと思って冒険者になった。
土産や、冒険の話をするとフェリーは笑ってくれた。それが嬉しかった。
フェリーが「自分も行きたい」と言うまでにそれほど時間は掛からなかった。
でも、断った。彼女を護る自信が無かったからだ。
彼女は何を思ったのか、魔術の鍛錬を再開していた。
教えてくれるアンダルが居なくなってから、決して魔術を使おうとはしなかったのに。
本当は自分と冒険をする為だと気付いていたのに、口には出せなかった。
それから故郷が灰になるまでに、左程月日は要さなかった。
フェリーを笑わせたいと思っての行動が、彼女をまた孤独にしてしまった。
彼女の願いを聞き届けなかった報いなのだと思った。
そんな負い目が、彼女が「殺して」と懇願した時に拒めなかった。
人を殺したのは、その時が初めてだった。
彼女の身体へ、自分の剣を飲み込ませていく。
肉を裂く感触が掌へ伝わる。手首から先が、自分の物とは思えなかった。
ただただ気持ち悪くて、でも逃げる事も許されなかった。
小刻みに息を震わせながら犯した最初の『罪』は、失敗した。
また、彼女の『願い』に応える事が出来なかったのだ。
絶望するフェリーに「殺してやる」と言ってしまった。
皮肉な事に、それが彼女の瞳に光を灯らせた。
だから、自分は彼女を殺さなくてはならない。
フェリーの『やりたい事』や『やって欲しい事』は叶える。それがシンの誓いとなった。
「……それだけだ」
シンはイリシャから目を逸らし、頷いた。
彼女の目から見ても、シンが動揺しているのは明らかだった。
それがおかしいという事も。
「じゃあ、お金を貰うっていうのも払うって言われたから?
そんな理由で、ずっと一緒にいるフェリーちゃんを何回も殺せるの?
シンはそれで平気なの?」
イリシャは知っている。
シンがフェリーを大切に思っている事を。
そして、フェリーがシンを特別に想っている事を。
だからこそ、シンの回答に納得がいかないのだ。
余計なお世話だという事は判る。それでも言わずには居られなかった。
「――なわけないだろ」
絞り出すように、シンが言った。
「平気なわけないだろ。必要なんだ、理由が。自分に嘘をつくだけの理由が!
何度も、何度も好きな女性を殺して、それで平然としていられるわけないだろう。
自分に言い聞かせないと、気が狂いそうになるんだよ。
必死に、自分に言い聞かせてるんだよ! 殺したいと思った事なんて、ただの一度もあるわけないだろう!」
シンは、イリシャに顔を向ける事が出来なかった。
おかしい事も、歪んでいる事も承知の上だった。
一緒にいて、一緒に育って、ずっと一緒に笑っていて欲しいと思っていた。
現実は願っていた事とは逆で、苦しくて息が出来ないと思った事さえある。
それでも、段々と彼女を殺す事に慣れていく自分に辟易する。
どうして自分は、あの時彼女に手を差し伸べられなかったのだろうか。
他の手段を示してやることが出来なかったのだろうか。
いくら後悔をしても、もう遅かった。
シンにとって、ふたつ目の『罪』だった。
「……ごめん、無神経だった」
シンは首を振った。
イリシャも自分が想像していた以上に、シンが苦しんでいる事を知ってしまった。
「シンはさ。もし、フェリーちゃんを殺したら……どうするの?」
数秒の沈黙を挟んで、イリシャが問う。
同じく数秒の沈黙を経て、シンが答えた。
「フェリーが死んだら、俺も死ぬよ」
「……っ」
血の気が引くほど簡単に、その言葉は発せられた。
フェリーには絶対聞かせられない。
「何度も殺しているんだ、それぐらいはしないとアンダルじいちゃんにも顔向けできないしさ」
息を吞んだイリシャの傍で「でも……」とシンが続けた。
「フェリーには、生きて欲しい。
ちゃんと年取って、たくさん笑って、満足して死んでほしい」
彼が口にした言葉は、彼がしている事とは真逆だった。
「シン、貴方……」
イリシャは薄々と彼がやろうとしている事に勘付く。
「俺はフェリーの『呪い』を解きたい。
そうすればフェリーは死ぬ事が出来るだろ?」
いつしか、シンの顔は再びイリシャへ向いていた。
「俺が『呪い』を解いたなら、俺が『殺した』ようなものだろう?」
(そっか……)
フェリーが言っていた「シンは優しい」の意味が判った気がする。
不器用だけど、確かな優しさと愛情がそこにはある。
「それは素敵な屁理屈だね」
「だろ?」
イリシャは知っている。
彼はこれからも変わらずフェリーを大切に思い続ける事を。
いや、正しくは知る事が出来た。
逢った時と同じ気持ちだという事を、確認できたのだ。
それが嬉しくて、ふたりにハッピーエンドを迎えて欲しいと心から願う。
だから、シンにも死んでほしくはない。
「ありがとう、色々言い辛い事を訊いてごめんね」
「いや、俺の方こそ熱くなったり、疑ったりして悪かった」
結局イリシャは、二人が出逢った時の事をイリシャは語らなかった。
それでも、ずっと抱えていた物を少しだけ吐き出せて気が楽になった。
その点だけでも、シンは彼女に感謝をした。
「ねぇ、今の話フェリーちゃんにするのは――」
「絶対やめろ」
イリシャは「ちぇー」と口を尖らせる。
前言撤回。
心境を吐露したのは間違いだったのかもしれないと、シンは後悔をした。




