幕間.王子の頬に触れるもの
潮の香りが一面に漂う。波を切る音が鼓膜を揺らす。
僕は今、船の甲板で独り多端図んでいた。
行先はミスリア。砂漠の国との戦争で生じる隙を狙い撃つ為に。
「今度こそ、必ず――」
自然と世界を統べる魔剣を握る手に力が入る。
マーカスが持つ総ての技術を注ぎ込んだ魔剣は、日を追うごとに力を増しているのが判る。
この剣で僕は、世界を滅ぼさんとする邪神を討つことになるだろう。
その次は、薄汚い貴族共だ。あれだけの醜いものを生かしておく道理など、存在するはずもない。
たったそれだけのことで、僕は世界から認められるだろう。
世界を破壊せんとする邪神を討ち、悪意に塗れた世界を浄化した英雄として。
その為に仕方がないことなんだ。戦争が起きることは。
腐敗しきった世界には、荒療治が必要だった。痛みが無ければ、きっと何も変わらない。
けれど時折、考えるようになった。
世界を統べることを、自分自身は望んでいるのかと。
「アルマ様は海がお好きですよね」
サーニャの声がして、僕は我に返る。
気付けば僕の身体は影に覆われていて、目線を上げた先には彼女が立っている。
「……サーニャ」
「隣、失礼しますね」
僕が断らないと知っているからか、サーニャはさも当然のように隣へと腰を下ろす。
潮の香りとは違う、彼女の匂いが心臓の鼓動を早くさせる。
「好き……。うん、言われてみれば好きなのかもしれない」
「ご自覚無かったのですか?」
「ああ、あまり意識したことはなかった」
サーニャはやや驚いた風に、口元へ手を当てた。
考えてみれば、確かに僕は何かあると海を眺めていた気がする。
初めは王都が海に面していなかったから、珍しいという気持ちだったのだろう。
水平線の彼方まで広がる青。時間によっては夕陽は反射して、鮮やかな橙色へと変わっていく。
その姿は太陽さえも呑み込んでいるような気がして、自分がいかにちっぽけかを思い知らされた気がした。
日によって表情を変える波。水面で煌めく光の数々。
一度たりとも同じ日は存在していない。だからこそ、無意識に求めてしまっていたのかもしれない。
最も美しいものを、眼へ焼き付けるために。
「それで、サーニャは僕に用があるのだろう?」
「はい。先刻、マーカス様から文書が届きました。彼も今、ミスリアへ向かっているとのことです」
「そうか」
マーカスは『憤怒』の適合者であるコナーと共に、マギアの国王であるルプスを扇動していたはずだった。
戦力を与えたとはいえ、砂漠の国だけでは心許ない。ミスリアを確実に疲弊させるための戦力が必要だった。
そして、それは同時にミスリアの民に不安を与える。
世界一を誇る魔術大国でありながら、他国が次々と侵略を試みる状況。
彼らにとってはある意味では、邪神よりも身近で恐ろしい存在かもしれない。
対応に追われるミスリア。未だ姿を現さない国王に、不安と不満を募らせる。
そんな中、救世主として現れるのが僕。アルマ・マルテ・ミスリア。
多くの不安を抱く中で民を救う僕は、民衆の支持を得るだろう。
ここまでが、ビルフレストが描いた筋書きだった。
「というわけで。アルマ様はミスリアへ到着次第、ワタシと共に行動して頂きます」
「君と?」
「ご不満ですか?」
「いや、そういうわけでは……」
サーニャは含みのある笑みを浮かべる。僕がそういう意図で発したわけではないと、お見通しだ。
「念のため、護衛ですよ。ほら、ワタシは『嫉妬』がありますし」
そう言ってサーニャは、自らの左眼を指差した。
石榴色の左眼が放つ異質な気配を前にして、僕は息を呑んだ。
「……僕はどちらかと言うと、君を護りたいと思っているんだが」
「あはは、アルマ様も男のコですね」
僕の言葉がツボに嵌ったのだろうか。
妖艶な雰囲気から一転、サーニャは太陽のようにカラッとした笑顔を見せる。
普段は飄々とした態度を見せながら、その奥では貴族に対する憎悪を滾らせている。
かと思えば、最近はこんな風に屈託のない笑顔を見せてくれる時もある。
僕はそのことを単純に嬉しく思っていた。
「お気持ちだけ、頂いておきますよ」
「僕は本気で!」
「いえいえ、言葉通りに受け取ってしまうわけにはいきませんからね。
そんな事態になったら、ワタシの立場がないじゃないですか」
苦笑するサーニャに、僕は何も言い返せなかった。
彼女の言う通りだった。自分がいくらサーニャを護りたいと思っていても、僕が倒れてしまえば本末転倒だ。
サーニャの立場だって危うくなるだろう。無事でいること自体が、彼女を護ることへ繋がっている。
「けれど、嬉しいです。ワタシを護ってくれる人なんて、今まで居ませんでしたからね」
「フォスター家もか?」
僕の質問に、サーニャは首を捻る。懸命に記憶を紐解いているようにも見えた。
僅かな沈黙の後、彼女が下した判断はノーだった。尤も、悪い意味ではないようだったけれど。
「フォスター家は違いますね。というより、あの人たちは良くも悪くも真面目でしたから。
ワタシをどうこうしようという発想自体、無かったでしょうね。
アメリア様やオリヴィア様には、良くしてもらったとは思いますけど。護ってもらっていたかと言われれば……」
最後に彼女は「侍女を護る必要もないですし」と呟いた。
不意に零れたその言葉にこそ、貴族達への恨みが込められている。そんな気がした。
ともあれ、フォスター家では彼女を苦しめるようなことは起きなかったという。
堅物で愚直なイメージそのままで、少しだけ安心をした。
だからこそ、彼女たちと剣を交えることは避けられない事態ではあるのだが。
「サーニャは、アメリアやオリヴィアと戦えるのか?」
「もう実際にやっちゃってますからね。今更ですよ」
間髪入れずに返答をされて、僕が目を見開いてしまう。
何の迷いもなく、サーニャは戦うと言ってのけたのだ。
「フォスター家に個人的な恨みはないですけど、ミスリア側に立っている以上は仕方ありません。
それに、ワタシたちのやり方を受け入れられる人たちでもないでしょうからね」
フォスター家に対する認識は、僕と同様のものだった。
アメリアは勿論、オリヴィアもあれで忠誠心は高い。堅物揃いの第三王女派でも、指折りだ。
だからこそビルフレストも、第三王女派の勧誘は最小限に留めた。
現にリシュアンも、結局ミスリアへと再度寝返ったのだから。
けれど、同時に僕はある確信を得た。
サーニャは決して、フォスター家を嫌ってはいない。
むしろ、アメリアとオリヴィアに関しては好意を抱いているだろう。
「まあ、でも。ビルフレスト様の『強欲』に食べられるぐらいなら、ワタシがとは思ってしまいますよね」
そう漏らしたサーニャの意図を、僕には汲み取れきれなかった。
歪んだ愛情の形なのか。ビルフレストに渡したくないという独占欲からなのか。
どちらにしろ、『嫉妬』の適合者故の感情のようにも思えた。
「まあ、ワタシの話はこれぐらいにしましょう。
とにかく、アルマ様はワタシと行動を共にしてください。
状況に応じて、民の信頼を得ていきましょう」
「ああ」
それはつまり、侵略を試みる砂漠の国や異常発達した魔物を討伐するということ。
続けざまにマギアも攻めてくるだろう。そうなれば、必然的に僕はミスリアの東部を目指す形となる。
王妃や第二王女が居る以上、王都周辺で行動を起こすのは危険でもある。
まずは東部の人間から、信頼を勝ち取る。
「ビルフレストはどう動くんだ?」
「ビルフレスト様は、フィロメナ様とイレーネ様の暗殺を。
運が良ければ、『傲慢』も覚醒出来るでしょうし」
『傲慢』。七つに分けた邪神の分体。最後の一柱。
マーカスの話では、彼女はまだ覚醒を果たしていない。
その日、その時。ミスリアに居る保証すら存在しない人間。
「本当に覚醒するのだろうか……」
僕自身が種を蒔いたとはいえ、半信半疑だった。
今も生きているのだから適合する素質はあるとはいえ、これまでの移植とは違う方法での適合となる。
「そこはまあ、ビルフレスト様やマーカス様に従うしかありませんよね。
覚醒さえしてしまえば、色んな意味でこちらに有利ですし」
「そうだな」
サーニャの言う通りだ。『傲慢』が覚醒をすれば、あらゆる意味で戦況が覆りかねない。
世界再生の民を統べる者としては、どうしても欲しい人材だった。
彼女が目覚めてしまえば、総てが片付く。
そうすれば――。
「サーニャ。この間の話だが――」
不意に僕は、自分の顔が紅潮していくのを感じた。
思い出されるのは、一糸纏わぬサーニャの姿。
悪気はない。不可抗力だ。けれど、刺激が強すぎた。脳裏に浮かぶのは仕方がないとも言える。
言葉にしていないにも関わらず、僕はつらつらと言い訳を頭の中で述べ続けていた。
「お妃様にしてくださるという話ですか?」
「っ……。そうだっ!」
彼女の眼を真面に見ていられないと、目を背ける。
その隙を狙って、サーニャは僕の手の上に自分の手を重ねた。
「サー……ニャ……」
手の甲からでも、彼女の温もりが伝わる。やや荒れた指先が擦れて、くすぐったい。
硬さを感じさせる皮膚とは裏腹に、その奥にある彼女の肉感は柔らかく、とても心地が良い。
彼女の美しさと、今まで重ねてきた苦労。その両方が感じ取れる手だった。
「前にもお伝えしました通り、アルマ様に相応しい人間ではないですから」
「そんなことはない。美しいと、僕は言ったはずだ」
顔を見合わせられないまま、僕は会話を続ける。
サーニャがどんな顔をしているかは判らない。重ねられた指先の強さと、声色だけで彼女の姿を想像するしかなかった。
「……それに、ほら。ワタシは『嫉妬』の適合者でしょう?
アルマ様が王となられた後、お傍にいては迷惑が掛かるかもしれません」
「ビルフレストだって、『暴食』の適合者だ。彼が上手く取り計らってくれる。
あまり断る口実を並べないでくれ。僕は無理矢理君を手籠めにするつもりなど、ない」
偽りのない本心だった。片恋慕なのは重々承知している。
穢れているだとか、邪神の適合者だからだとか。そんなことを理由に断られたのであれば、諦めもつかない。
本気で彼女に惹かれているからこそ、彼女の本心も教えて欲しかった。
「……そうですね。使いやす口実を使うのは、卑怯ですよね」
サーニャの言葉に、僕は断られるのを覚悟した。
けれど、仕方ないと思えた。彼女から見れば僕はまだ子供だ。
彼女の心からの答えを聞かせてもらえれば、僕も納得が出来る。
込み上げるものをグッと抑え込みながら、彼女が言葉を紡ぐのを待った。
そんな覚悟をした僕の気持ちとは裏腹に、彼女は僕の手に指を絡める。
思わず背けていた顔を動かすと、彼女の顔が近くにまで迫っていた。
「ワタシ、『嫉妬』の適合者ですけど。今まで色々ありましたから。
きっとアルジェントさんぐらい欲も強いと思うんです」
「構わない。いくらでも、好きなものを望んでくれ」
互いの吐息が触れそうになる距離での会話。
サーニャの言葉に、僕は間を置くことなく応えた。
「――では、手付代わりに頂きますね」
言葉の意味を僕が理解するよりも早く。
彼女の唇が、僕の頬に触れた。
「先のことは、終わってからにしましょう」
そう言うと彼女は立ち上がり、船内へと姿を消す。
僕の頬には、まだ熱が残っていた。