32.フェリーの想い
「はーっ♡ きもちいい~♡」
星空の下、湯煙が空に舞う。
岩に囲まれた窪地が湯舟となり、エメラルドグリーンの温泉が溜まっている。
草木に乗る雪が乙な、立派な露天風呂だった。
冷え込んだ身体に温泉の温かさが染みわたり、旅の疲れを癒していく。
宿に泊まった時でも、こんな温泉に入った事はない。
鼻につく硫黄の臭いが、ここが特別な場所だと感じさせる。
「どう? いいでしょ、ここ。お気に入りなんだ」
顔が緩みっぱなしのフェリーを見て、イリシャが微笑む。
案内したのは成功だったようだ。
「いっつもこんなおフロに入ってるから、イリシャさんはキレーなの?」
「さぁ、どうなのかな?」
その白い肌を見れば見るほど、彼女の美しさがより際立つ。
透き通るように白い肌はきめ細かく、肌触りもとても良さそうだった。
(キズは治らないって言ってたし、不老はかんけーないのかな?)
彼女の美貌が不老による先天的な物なのか、それとも温泉による美容効果なのか。
どちらにしろ、大人の女性が持つ特有の色っぽさと合わせてフェリーは羨ましかった。
自分が望んでも、得られそうにないものでもあるから。
「あーあ。イリシャさんキレーですごい羨ましいぃ……」
「ふふ、ありがとう。でもね、わたしの事より……」
お返しと言わんばかりに、イリシャはフェリーの身体をじっと見つめた。
いやらしさを感じるわけではないが、凝視されると流石にフェリーも恥ずかしかった。
「……成長止まったのって、16歳だっけ?」
「はい!」
湯舟に浮く双丘を見て、イリシャは生唾を飲んだ。
(16歳でそれって……末恐ろしい子ね。もったいなかったわ)
そのまま成長していれば、一体どうなったのかと興味は尽きない。
あの日以降、フェリーの身体が成長していない事が惜しいとイリシャは心から悔やんでいた。
などとイリシャが考えていると、フェリーが顔をまじまじと見つめていた。
考えていた事を気取られたのだろうかと、ややぎこちない笑顔を返した。
「フェリーちゃん?」
「ううん。イリシャさん、やっぱりキレーだなって」
違ったようだ。会った時からずっと綺麗と言ってもらえるのは嬉しいが、こう何度も言われると流石のイリシャも照れる。
自分の夫にだって、こんな短期間に連呼された事は無かった。
でも、「息子が小さい時は言ってくれてたかなぁ」などと、思い出に耽る。
ただ、フェリーは彼女に見惚れていただけではない。
やはり、イリシャに不思議な懐かしさを覚える。
絶対に会った事がないと言い切れるのに、どうしてもその感覚を拭いきれない。
「そんなに見つめられると照れるわね」
「あっ! ご、ごめんなさい。やっぱり、会った事ないのにフシギな感じがして……」
謝りつつも、フェリーは無意識に手を伸ばしていた。
イリシャの頬にフェリーの掌が重なる。想像した通りの、きめ細やかで滑らかな肌だった。
雪で造られた糸のような銀髪と、吸い込まれそうな琥珀の瞳が何だか儚くも感じる。
「フェリーちゃん?」
「……え?」
彼女に言われるまで、フェリーは気付かなかった。
自分の頬を伝う、一筋の涙に。
顎にまで届いたそれは、ポツンと落ちて湯舟の中へと混ざり合っていく。
「あ、あれ? なんでだろ? ヘンなの……」
自分でも、それがどうして流れ出たのか判らない。
「温泉が目に沁みちゃった?」
「そうなのかな……」
違うと判っているのに、生返事をしてしまう。
その正体が解らない、不思議な感覚だった。
イリシャも、彼女が自分に懐かしさを覚える事に心当たりはない。
シンと会った事があるのは本当だが、彼女とは間違いなく初対面である。
「うーん。シンから話を聞いて、会ったような錯覚をしちゃったとか?」
「だって、シンは会った事ないって言ってたもん」
そんな器用な人間ではない事を、フェリー自身が一番理解している。
「ふふ、そうだったわね。
でも、シンが嘘を言っているかもしれないわ」
フェリーはプルプルと首を振った。
水しぶきが水面を跳ねる。
「それはゼッタイないよ。シンはあたしにウソつかないもん。
……たまに、何考えてるのかわかんない時はあるケド」
そう言って、フェリーは「こんな顔の時」と眉間に皺を寄せる。
イリシャが「それ、しょっちゅうしてない?」と訊くと、フェリーは少し拗ねてしまった。
信頼されているのだと、イリシャは改めて感じた。
自分がかつて夫と居た時の事を思い出して、懐かしくもあり、羨ましくもある。
「フェリーちゃんは、アンダルに引き取られたのよね」
「うん。魔物に襲われたとこを助けてもらったみたい!」
フェリーが「みたい」と言うのは、その当時に自分が襲われている自覚が無かったからに由来している。
思い出にあるのは、差し伸べてくれたアンダルの手が暖かかったという事だけ。
他の出来事は記憶こそあるが、なんとなく他人事のように思ってしまうのだ。
当時はまだ『フェリー』ですら無かった記憶だから、あまり重要視していない節が見受けられた。
もっと必要なものは、その後に沢山見つけたからだ。
「アンダルが子育てなんて、想像できないわね。
ちゃんとできてたのかしら」
「おじいちゃんはいっぱい教えてくれたよ!」
そう、大切な事をたくさん教えてくれたのだ。
「でもね、あたしがワガママばっかり言うからよく困ってた!」
「ふふ、それは見たかったわね」
イリシャの知っているアンダルは自信満々で頑固。居丈高という言葉がぴったりだった。
それでも巧みに魔術を操り、決して仲間を見棄てる事もない。とても頼れる仲間だった。
そのアンダルが子育てに奮闘して、しかも苦戦していたというのだから面白い。
「おじいちゃん、あたしには怒らないからいっつもシンを怒ってたの」
「どうしてシンを?」
その話は初耳だし、とても興味深い。
イリシャは食い気味にフェリーへと訊く。
「あたしも魔術がヘタだったけど、シンはゼンゼンできなかったから!
おじいちゃんはあたしに甘かったから、代わりにシンを怒ってたの!」
「シン、よくひねくれなかったわね……」
少しだけシンに同情するが、アンダルならやりかねない。
彼は女性には甘かった。こんなに可愛い孫娘が出来れば尚更だろう。
「でもね、シンは怒られても魔術を教わりに来てたよ。
おじいちゃんも、いっつも怒るのに『シンを呼んできてくれ』って言ってたもん」
アンダルほどの魔術師なら、シンに魔術の才能がない事は早い段階から察していただろう。
無茶苦茶だと思いつつも、フェリーやシンに出来る彼なりの気遣いなのかもしれない。
いくらなんでも、子育ての八つ当たりではないだろう。……多分。
もしくはシンが諦めなかったか、フェリーに会う口実が欲しかったか。
どっちにしろ微笑ましい光景なのが容易に想像できる。
「フェリーちゃんと仲良くして欲しかったんじゃないかな?
ほら、年頃のお友達が居てくれると楽しいだろうし」
「……そうなのかなぁ?」
「そ・れ・に~」
イリシャは悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「フェリーちゃんも、シンが来てくれた方が嬉しかったんじゃない?」
フェリーはおもむろにイリシャへと背を向ける。
そのまま肩まで湯舟に浸かると、耳まで真っ赤にして頷いた。
「……うん」
(あらあら、これはこれは……)
思いがけない初々しい反応に、イリシャは嬉しくなった。
かつて自分も経験した事がある、あの感覚と同じものを彼女は経験しているのだろう。
「シンにそれ、伝えないの?」
フェリーの身体が硬直した後、彼女の首が横に振られた。
「……ダメだよ」
その声は弱々しく、天真爛漫な彼女のイメージとはかけ離れたものだった。
「どうして?」
辛い事を語らせてしまうと分かっていた。先刻も故郷の話になると俯いている。
それでも、シンが居ない時に吐き出させてあげようと思ってしまった。
きっとシンの前では、言えない事だから。
「おじいちゃんが死んだとき、あたしはずっと泣いてたの。
シンはそれでもずっと手をつないでくれれたのに、あたしは――」
フェリーが徐々に涙声になっていく。
「シンが冒険者になった時ね、あたしも連れて行ってってワガママ言ったの。
でも、シンはダメだって。だから、魔術が使えたら一緒に行けると思って……」
それから先は、嗚咽混じりに言葉が途切れていった。
「全部、あたしが全部、燃やしたのに……なにも、おぼえて、なくて……っ!
シンのおとうさんも、おかあさんも、いもうとも……ぜんぶ……。
ううん。村のみんな……あたしが……っ!!」
フェリーには故郷を燃やしたという記憶がない。
シンはずっとそこが引っ掛かっていると言っていた。
それを聞かされていたイリシャも、当然ながら疑念を抱く。
それでも、状況が彼女以外居ないと証明してしまうのだ。
村の生き残りは、事件当時に冒険へ出かけていたシンだけ。
村を失った代償として、フェリー・ハートニアは不老不死と莫大な魔力を得た。
その能力が暴走したと考えるのが、自然と導き出されるだけの状況が残っている。
イリシャは考える。
もし、その時に自分が二人の故郷に居れば――。
いや、よそう。きっと焼死体がひとつ増えていただけだろう。
自慢ではないが、イリシャは戦闘能力に自信があるわけではなかった。
「ほんとは、あたしが……あたしだけが、死ぬべきだったのに。
シンに『殺して』って……。でも、あたしだけ……、死ねなくて……」
さっきより大きな雫が、エメラルドグリーンの湯に溶けていく。
「そんなコト、言わなかったら……よかった。
死ねない……なんて、思って、も……なくて……っ」
感情が溢れてしまったフェリーは、もう自分で止められない。
「シンが頷いてくれて……。あたしは、救われると思った……。
でも、シンを苦しめてるだけで……っ」
あの時に自分が簡単に言ってしまった言葉を、シンは受け入れた。
それが自分にとっての『救い』であり、彼にとっての『呪い』となってしまった。
ずっとフェリーが後悔していても、誰にも吐露できなかった本心。
「でも、あたし……シンがいないと、ぜんぜん、ダメで……。
いっしょに……いてくれて……!
嬉しいのに、ずっとずっと謝りたくって……」
「フェリーちゃん。無理しなくていいよ」
泣きじゃくるフェリーを、イリシャは背中から抱きしめた。
人の温もりが、先日の記憶を呼び戻す。
「シン、あたしのために……いろんな、ムチャ……してっ。
この間も、死にそうになって……。でもいっつも『自分が選んだ』って……!
違うのに、あたしなのにっ! あたしが、あの時、ワガママ言わなかったら……!」
ウェルカでの戦い。
腕の中で段々と体温が下がっていくシンを見て、血の気が引いた。
本当はそうなるべきは自分なのにと、これまでに何度後悔をしたか分からない。
背中の傷跡だって、本当は残るはずがなかった。
自分が傷つけたのだと、責任を感じる。
「シンは、いっつも……自分をあとまわしに、するの。
あたしのやりたいこと、優先してくれて……」
イリシャは気付いていた。
決して、シンがやりたい事を後回しにしている訳ではないと。
彼女のやりたい事が、彼の優先順位で一番に来ているだけなのだと。
「あたしが……いなくなっても、きっとシンは……あたしを、殺そうとしてくれる……。
やくそく、したから……っ。シン……あたし、殺してくれたら……。
シンも自由に、なる、よね……っ」
「フェリーちゃんは、それでいいの?」
「え……?」
イリシャは問う。
ずっと一緒に居た幼馴染との最期が、そんな結末で良いのか。それを本当に願うのかと。
「フェリーちゃんは、それでいいの?
シンがフェリーちゃんを殺して、それで終わっていいの?」
沈黙の中、湯煙だけが舞う。
フェリーの視線が煙のように揺らめいている事は、イリシャからは判らない。
しばらくして、彼女は下唇を噛みながら頷いた
「ずっと、シンはいっしょにいてくれたから。
あたしを殺していいのは、シンだけ。その時まで、いっしょにいたいって思ってる。
でも――」
声の震えは収まっていたが、その言葉が喉を通るまでには小さくすぼんでしまっていた。
「ほんとうは、もっとなかよくしたい。
ずっといっしょにいたい。
……好き……だから」
「……そっか」
微かな声だが、それを聞けてイリシャは安心した。
さっきより強い力で、フェリーを抱きしめる。
彼女はシンの大切な物を、全て奪ったのかもしれない。
それ故の苦悩を、イリシャは取り除いであげる事は出来ない。
ここから先は、当人同士の問題なのだから。
ただ、願わずにはいられなかった。
彼女が、真っ直ぐにその想いを向ける事が出来る日を迎えて欲しいと。