316.『憤怒』の奥
松明のように握られた紅蓮の刃は、闇夜を斬り裂く灯。
彼女が通り過ぎた証明として、焦げた空気が臭いだけを残していく。
オルテールの操る宝岩王の神槍によって、フェリーは地面と水平に落ちている。
初めての感覚を前にしても、不思議と恐怖は無かった。
「あれが、邪神の分体!」
彼女にとっての奈落の向こうには、傷だらけのシンともうひとつ。
赤黒い外殻を身に纏った異形の怪物。『憤怒』が待ち受けている。
これ以上は傷付けさせないと、フェリーは灼神を掲げた。
「――アアアアッ!!」
『憤怒』もまた、急接近してくる飛来物に身の危険を感じていた。
身を丸め鱗にも似た外殻で紅蓮の刃を受け止める。高熱を帯びた身体は焼石の如く、橙色へ染まっていく。
「ジャマ……しないでっ!」
己が持つ魔力を限界まで注ぎ込むだけではない。
宝岩王の神槍により、自分へ加わっている重力さえもフェリーは利用をした。
小柄な身体からは想像も出来ないような重さのある一撃を以て、『憤怒』の身体を弾き飛ばす。
「なっ!?」
反動をつけた全力の一撃に、ゴロゴロと転がっていく『憤怒』。
適合者であるコナーも、フェリーの一撃には仰天せざるを得なかった。
確かに魔力は尽きかけており、『憤怒』もやや小ぶりに顕現されている。
それでも、決して途中で乱入してきた少女の一撃に弾き飛ばされる様な質量ではないはずだった。
「フェリー、ど――」
「シンのあんぽんたん!」
シンの問いを、フェリーの怒号がかき消す。
聞く耳は持たない。どうせ彼は「どうして?」と訊いた後に「マレットは無事か?」とでも言うに決まっている。
マレットのことは当然として、自分も心配されている事をもっと理解して欲しかった。
「あたしはシンがアブないと思ったから来たの!」
シンが見上げた先には、灼神を持ったフェリーが立っている。
鼻息こそ荒いが、瞳の奥からは不安の様相が隠しきれていない。
こんな顔をさせてしまったのは自分なのだと、シンは我に返った。
「……悪い」
「ホントだよ」
ゆっくりと身体を起こすシンと、口を尖らせるフェリー。
二人の眼差しが、『憤怒』へと向けられている。
「魔女め……っ!」
フェリーの放った規格外の一撃に、マーカスは頬を引き攣らせる。
自分達も満身創痍とはいえ、シンを仕留める絶好の機会が失われた。
思い通りに行かない様は、ピアリーで起きた戦いを連想させる。
贄の血肉を邪神のものとする為に、必要な研究だったにも関わらず彼女の手によって崩壊をした。
自分が投獄されている間、研究を引き継いだビルフレストによって邪神は今の形となった。
より高みを目指せたはずだという後悔と、その時間を奪ったフェリーへ彼が憤るのは無理もない。
「『憤怒』! やれ! その二人を、何としてもここで仕留めろ!」
(……っ! このっ、自分を差し置いて好き放題に!)
マーカスは指輪を通して、『憤怒』へ命令を下す。
本来の適合者であるコナーを差し置いての指示は、彼に頭痛を齎す。
同時に『憤怒』が行動に移すまでの間、若干のライムラグを生んだ。
コナーとしてマーカスの心情が理解できない訳ではない。
自分とて立場を奪った原因のひとりに、フェリーの名が挙がるのだから。
だが、『憤怒』は自分の魔力を依代に顕現している。
その点では、彼はマーカスよりは幾分か冷静だった。限界が近いのは、自分達も同じなのだと理解している。
瀕死のシンは兎も角、不老不死であるフェリーを無力化するには手札が足りない。
アンダルやシンの家族を躯として呼び出そうとすると、恐らくは『憤怒』を維持できない。
そして呼び出した瞬間、シンの逆鱗に触れるのは間違いない。
この二人を同時に制圧できる状況は、整っていないのだ。
「――――!!」
マーカスとコナー。相反する思考を抱えながら、『憤怒』は外殻に覆われた身体を起こす。
適合者の魔力と我慢比べにはなるが、『憤怒』自体にはまだ切り札が残されている。
堆積。
それが『憤怒』に備わった邪神としての能力だった。
自身へ与えられた魔力や痛みを蓄積していき、臨界点を迎える事で形として放出される。
外殻を弾いて解放軍を一網打尽にした他にも、魔導刃の如く尾を硬質化させる事も、魔導弾のように息吹として放出する事も可能となる。
魔導大国マギア出身であるコナーは、邪神の『核』を一種の魔導具として認識をしていた。
故に、邪神としての性質もより魔導具に近いものとなっていた。
「来るぞ、フェリー!」
「シンはケガしてるから、下がってて!」
咆哮を上げながら、『憤怒』はシンとフェリーへ突進する。
銃を構えるシンだが、彼を庇うようにしてフェリーが『憤怒』と向き合った。
魔力で構成された尾と、灼熱の刃が交差する。
灼神によって灼かれた外殻からは、煙が立ち昇っていく。
熱された痛みは外殻を通して、堆積の糧となっていく。
何れはフェリーの持つ膨大な魔力が、邪神を通して牙を剥きかねない。
コナーがいつまで『憤怒』を顕現できるかという我慢比べも、同時に始まる。
「てえぇぇぇぇいっ!」
鞭のように払われた尾を、フェリーは灼神を用いて立ち向かう。
宝岩王の神槍による重力の操作はとうに終えている。大地を踏みしめ、歯を食い縛る。
小柄な邪神の尾を受け止める事は、決して不可能ではない。
チリチリと空気が灼け、尾の関節部分から熱されていく。
邪神の身に伝わる激痛は、堆積により攻撃力へと転化されていく。
「やれ、『憤怒』!」
残り少ない魔力を絞り出すコナーや、痛みに耐える『憤怒』よりも先に痺れを切らせたのはマーカスだった。
いくら不老不死と言えど、身体を消し炭にしてしまえば。浅はかな考えが蓄積された痛みを解放させようとする。
(この、何も理解していない阿呆が!)
コナーはマーカスの先走った行動に歯噛みする。
本来なら、彼の命令は適切ではない。
『憤怒』の怒りは、『憤怒』自身のもの。いくら邪神に備わった能力とはいえ、使いどころは分体自身が選択するべきもの。
他者に「怒れ」と言われる事自体が負荷になるという考えが及んでいない証拠となる。
それでも『憤怒』は、自分へ下された命令を全うしようとする。
自身の尾と一進一退の攻防を繰り広げるフェリーへ、蓄積された魔力を放たんとしている。
「させるか」
尤も、この戦いは一対一ではない。傷だらけになりながらも、シンは銃を構えている。
銃口から放たれるのは、凍結弾。
着弾先を凍らせる一撃が、魔力を吐き出さんとする『憤怒』の口を氷漬けにした。
「――――!?」
フェリーが背後から撃たれるよりも早く、シンは無理矢理その口を閉じた。
放出しようとした魔力を呑み込む事は出来ない。龍族のように象られた『憤怒』の顔は、己の魔力によって爆散する。
怒りを放出するも、それが失敗に終わる。
状況が受け入れられず、『憤怒』の身体が弛緩した瞬間。
均衡を保っていたはずの灼神と尾のパワーバランスはいともたやすく崩れ去る。
「せいっ!!」
紅蓮の刃が赤黒い皮膚へと食い込む。魔力で構成された尾は、より強い魔力に抗えない。
蜥蜴が尻尾を斬り落とすが如く、フェリーの刃は『憤怒』の尾を灼き斬っていた。
「な……っ。『憤怒』が……!」
頭部と尾を一度に破壊され、マーカスが目を見開く。
自身の技術の粋を集めた邪神の分体が、見るも無残な姿に変えられてしまった。
戦闘に於いて素人である彼に、的確な判断が下せるはずもない。
コナーもまた、同様だった。マーカス程ではないにしろ、元々は裏で他人を操る立場の人間。
精根尽き果てようとしている中で冷静な判断を下せる程の経験は、積み上げられていない。
(ここは、『憤怒』の外殻を――)
斯くなる上は。
今のフェリーによって堆積に痛みは蓄積された。
『憤怒』は顕現を解けば、姿を消す事が出来る。
残る外殻を弾けさせ、その隙に離脱する事が最適解だと思われた。
コナーの考えは間違ってはいない。ただ、判断が遅かっただけ。
更に言えば、視野をもっと広く持つべきだった。
凍結弾を撃った直後から、シンは己の身体に鞭を打っているのだから。
「フェリー! 身体を思い切り斬り裂いてくれ!」
「分かった!」
後方から聴こえるシンの声。
意図を確かめようともせず、フェリーは彼の要望に応えた。
無理も無茶もするけれど、きっと意味がある。
彼の言葉を疑った事はない。シンの願いに応えるが如く、フェリーは灼神で『憤怒』の皮膚を裂いていく。
これまでの『憤怒』との戦闘で、シンなりに気付いた事がある。
邪神の分体が魔力で構成されている事は勿論、四つん這いの子供が鎧を覆ったような状態となる。
どれだけ外殻を攻撃しても、解放軍や先の息吹のように反撃の材料と成り得る。
斃すには『核』ともいうべき、中に潜んでいる存在を討つ必要があると判断をした。
その点を考慮した結果、魔導砲は『憤怒』へ対しての優位な立場にある。
尾を介して充填した際、彼の身体を構成する魔力を吸着してみせた。
この場に於いて魔導砲は、自身が持つ魔力を相手へ攻撃として反射させる攻防一体の魔導具。
外殻の魔力を奪い、中へ撃ち込むというのがシンの計画。
一方で、尾から魔力を吸着をしても形状に変化は起きなかった。
シンには外殻の内側へと潜り込む術が無い。だからこそ、フェリーにその身を裂いてもらった。
そして、もうひとつ。
(あとは、この石を試す――)
シンがポケットの中へ忍ばせている物。
それは、マレットの白衣に収められていた石ころだった。
ミスリアにては転移魔術を設置する際に、彼女は魔力を隠す事に苦心をした。
ピースの案によって解決したそれは、彼がカタラクト島から持ち帰った石ころがヒントとなった。
石ころの正体は、『怠惰』の欠片。
魔力を消失させる破棄は、この欠片でも果たして有効なのか。
指先に挟んだ『怠惰』を、シンは『憤怒』へと触れさせた。
「――――!!!!!」
「なっ、なに!?」
刹那、『憤怒』から声にならない悲鳴が上がる。
フェリーが思わず耳を塞ぐほどの甲高い声は、三半規管を狂わせそうになる。
「何が起きている!?」
マーカスも、コナーも想定外の事態だった。
結論から言えば、『怠惰』の破棄はまだ生きていた。
元々が残り香だったのか、シンが適合者ではないからか。己の許容を越えた『怠惰』の欠片は瞬く間に砂となって崩れ去る。
それでも僅かな欠片は、魔力で構成された外殻を分解した。
奥に隠れていた『核』。その一部が、露わとなる。
そこから先は、シンでさえもどうしてそんな行動を取ったのか解らない。
怯える子供のように、邪神の『核』となる白い人形は顔を上げた。
のっぺりとした面にも関わらず、何かを訴えているような気がした。
「……っ」
「シン……?」
無垢な子供を、虐げられている子供を救おうとしているかの如く。
気付けばシンは、手を伸ばしていた。
「貴様、なにを企んでいる!?」
シンが子供の手を取ろうとする姿を見て、マーカスは心中穏やかでは無かった。
自分が得ようとした転移魔術の鍵を破壊されただけではなく、邪神の『核』まで奪われてなるものかと感情的に『憤怒』へ命令を下す。
「『憤怒』! やってしまえ!」
蓄積された痛みを解放せよという命令を、『憤怒』は拒絶出来ない。
『憤怒』の身に残っていた外殻が、シンを撃ち抜くべく四方八方へと弾き飛ばされた。