312.救出作戦開始
木枯らしが容赦なく体温を奪っていく。
服が枯れた枝葉に触れるだけでも天然の鳴子となり、相手に知られる恐れがある。
慎重に、しかし可能な限り迅速に。シンはただ前だけを見ていた。
夜の森でシンが辿り着いた場所は、暗闇の中に聳え立つ古ぼけた小屋。
自分が子供の頃から所有者の判らないこの小屋は、隠れ家として利用するにはうってつけだった。
(中の様子は分からないか)
森の西だと当たりを付けた時に、シンは真っ先にこの場所が思い浮かんだ。
灯りが外に漏れている様子は無い。けれど、周囲をぐるりと確認している間に確信を得た。
間違いなくマレットは、この中で囚われているのだと。
根拠はあくまで自然を装っているが、小屋を見張るかのように彷徨う獣の群れにある。
獣は小屋を中心として、仕切りに外だけを警戒している。小屋の中身を知られたくないのは明白だった。
マレットを攫った男達により、見張りを命じられている。この点については、疑う余地がない。
問題はこの獣が生きているのか、死んでいるのか。
死んでいるのであれば、問題はない。
カランコエで遭遇した『憤怒』の男が、操っていると推測できる。
もしも生きているのであれば、相手の戦力が読み切れない。
マレットを連れ攫った小太りの男によるものなのか、他に魔物を操る術を持っている人間が控えているのか。
(確かめるしかないな)
自分の存在を気取られぬよう、シンは一度引き返す事を選択した。
マレットを救出する可能性を、ほんの僅かでも上げる為に。
……*
獣達は活動範囲を広げようとはしない。
課せられた目的は見張りだけなのだろう。この時点で、シンはまだ自分が発見されていないと確信を持つ。
警戒を怠らなければ、突発的な戦闘には発展しない。先手は十分に取れるだろう。
ギルレッグに用意してもらったものは投擲用のナイフの他に、杭とワイヤー。
森に潜伏していると考えた頃から、マレットを救出した後に備えて逃走用の罠を設置するつもりだったのだが状況は変わった。
まずは攻め込まなくは意味が無い。
こうなると、気になるのは解放軍の動向だった。
小屋に潜んでいるであろう一行は動く気配を見せない。
まだ、きっと間者を見つけてはいないのだろう。
シンの考えでは間者を見つけ次第、それは世界再生の民にも伝わる。
潜伏から逃走へ思考が切り替わる一瞬。間違いなく自分への警戒が薄れる。
一番狙いやすい瞬間ではあるが、現状では周囲の獣が障害だった。
思考が切り替わる瞬間にマレットを奪還、用意した罠を利用して逃走を図る。
最初に描いていた計画からの修正を余儀なくされた。
獣を盾に使われてしまえば、次に襲い掛かってくるのは『憤怒』だろうか。
マレットへ接触できるタイミングは限られてくる。
イリシャとフェリーが間者を見つけるよりも先に、シンは行動を起こす必要が出てきてしまった。
(迷ってる暇ない、か)
こうなってしまえば、一分一秒が惜しい。シンは急ピッチで戦略を組み立て直す。
マレットを奪還する為。そして、奇襲を仕掛ける為。シンは魔硬金属で造られたワイヤーをゆっくりと伸ばしていく。
……*
獣の目に留まらぬよう距離を置きながらも、シンは小屋の後ろまで回り込んでいた。
その手に握られているのは、魔硬金属によるワイヤー。
森の中で張り巡らされたそれは、設置した罠へと繋がっていた。
(……やるか)
シンがワイヤーを引くと同時に、先に取り付けられた杭が抜ける。
抑えつけられた振り子が解放され、魔導弾の雷管を強く打ち付ける。
刹那、魔導弾は自身に与えられた役割を全うする。
風撃弾による風の塊が、小屋の屋根によって解き放たれた。
屋根へ衝撃と轟音が与えられた一瞬、小屋へ起こる異変は全て風撃弾によるものだと誤認する。
反対側からシンの投げたナイフが刺さろうとも、別のものだとは認識できないだろう。
或いは、灯りが漏れないように暗幕をしていなければこの策は使えなかったかもしれない。
ナイフの柄尻には、簡易転移魔術の魔導具が括りつけられていたのだから。
「やはり、あの男は来るか!」
マーカスとは違い、『憤怒』の男は半ば予測をしていた。
自爆すらも厭わない男が、単独を攻め込む事に躊躇するはずもない。
ましてや彼は、少年の身でありながら人殺しの責務を一人で負っていた。
危険を省みるような人間ではないと、よく知っている。
放たれた風の塊は、森の奥から狙撃をされた。
追撃の弾を放たれるよりも先に、コナーは獣の躯を現場へと急行させる。
獣は日括り乗り出した身で、夜の森を駆け抜ける。
二足歩行の人間とは訳が違う。彼らから逃げられる道理はないと、人間の姿を追い求めた。
それがシンの狙いだとは、気付いていなかった。
「――ギャオオオン!?」
刹那、先頭を走る獣の身に異変が起きる。
急激に重くなる身体に、戸惑いを見せる。獣を通じて視界を共有したコナーは既視感を覚える。
重力弾による、重力の加算。
土塊で創られた躯は、ボロボロとその身を崩していく。
(シン・キーランドの奴、一体どこにいるというのだ!?)
獣の視界を通じて監視を続けているコナーは、今の状況に納得がいかない。
重力弾を放たれた事はまだいい。だが、肝心の狙撃地点が判らない。
それもそのはずだった。シンは決して、重力弾を撃ってはいない。
地面へ張り巡らせたワイヤーに、獣が触れた結果なのだから。
先刻の風撃弾とは違い、シンは地面に隠すようにワイヤーを引いていた。
獣のうちどれか一体でも踏めば、同じ要領で重力弾が放たれる。
欲を言えばもう数匹は巻き込みたかったが、運悪く戦闘の獣が引っ掛けてしまったようだ。
だが、これで分かった事がある。重力弾を受けた獣は、土の塊だった。
よってシンは監視を『憤怒』による躯だと断定をする。敵に、想定した以上の戦力が備わっている訳ではない。
躊躇う理由は全て消えたと、シンは転移魔術の魔導具を起動した。
奇しくもこの時、フェリーが間者であるエルガーの首を斬り落としていた。
今際の際を続けざまに見せ続けられたコナーの意識が、僅かに逸れた瞬間でもあった。
……*
「――マレットを、返してもらうぞ」
冬の森。乾いた空気に響く男の声は、マーカスにとって脅威でしかなかった。
ピアリーで突如現れた男の姿を思い返すよりも先に、小屋の壁が爆裂弾により強引に破壊される。
「き、貴様……ッ!」
焦げ付いた壁。立ち昇る煙の臭いで、マーカスは咽そうになる。
一体コナーは、見張りの獣は何をしているのか。
そう言いたげだったが、マーカスは言葉を上手く絞り出す事さえ憚られる。
隔てる物が無くなった先で、鋭い眼光を向ける男にただ呑まれていた。
俄かには信じ難かった。発信機による追跡は途中で終えたはず。
それでもこの男は辿り着いた。ベル・マレットの元へ。
ゼラニウムの街へ、マギアの王都へ逃げた可能性を考慮しなかったというのだろうか。
全てはベル・マレットの掌の上だったというのだろうか。
いや、断じて違う。解放軍は『憤怒』の前に、成す術を持たなかった。
上手く行っていたのだ。この話の通じない女だって、時間さえあれば心変わりさせる方法はいくらでもあった。
必要ならば、尊厳さえも破壊してやればよかっただけだった。
「よう、シン。あまりにタイミングが良かったから聞き耳でも立ててんのかと思ったぞ」
あっけらかんとして見せるマレットに、シンは眉を顰めた。
彼女が何を言っているのか、さっぱりわからない。けれど、眼に見えた外傷は無さそうでまずは安心をした。
「マレット、無事か?」
とはいえ、見えているのはあくまで彼女の顔に過ぎない。
何かあってからでは遅いと、シンは問う。
「ああ、服を脱がされるはガン見されるわ。そこんとこは気持ち悪かったな。
まあ、後は楽しくお喋りしてたぐらいだな」
「そうか」
「そこは『そうか』じゃないだろ、お前」
淡白なシンの反応を前に、マレットは眉根を寄せる。
予測済みの反応ではあったが、どちらかというとこの予測は外れて欲しかった。
「仮にフェリーだったら、お前キレてただろ?
まあ、そこまでとはいかなくてもだな――」
マレットが言い終えるよりも早く、銃声が響き渡る。
ゴロンと言う音と同時に崩れるのは、小太りの男。
手足を撃ち抜かれ、苦痛にのたうち回るマーカスの姿がテーブルの下からでも確認できた。
「別に怒っていないわけじゃない」
「お、おう……」
これにはマレットも驚きを隠せなかった。
自分の予測が外れて喜ぶよりも、あまりにも躊躇なく銃弾が撃ち込まれるのだから。
シンは決して、怒りを覚えていない訳ではない。
むしろこの二日間は、憤っていない時間の方が短いぐらいだ。
フェリーを危険に晒し、恩人や家族を手に掛けさせられ。
極めつけは、10年来の親友が攫われたとなれば黙っていられるはずもない。
マーカスには色々と訊かなくてはならない事がある。
衝動的に殺していないだけ、まだギリギリ冷静さを保っている。
尤も、マーカスから情報を引き出すには高いハードルが遺されている。
彼もそれを理解しているからこそ、魔導砲の弾倉を回転させた。
「コ、コナアァァァァァァッ! 何をしている!?
早く、今すぐにこの男を殺せ! 危険な男だと、貴様も判っているだろう!?」
シンにその気はなくとも、マーカスは命の危険を感じたのだろう。
床の上でのたうち回りながらも、マーカスは腹から声を絞り出した。
「言われなくても、解っている」
コナーは崩れ行く獣の姿を、別の獣を通して眺めていた。
シン・キーランドの姿は見当たらない。カランコエの時と同じだ。どういう訳か、彼は一瞬で距離を詰めてくる。
しかしコナーは、原因を突き止めようとはしなかった。彼は魔術に明るい訳でも、魔導具に詳しい訳でもない。
『憤怒』に適合し、身体に埋め込んだ魔石だけの男。共振による、異質な死霊魔術師に過ぎない。
それよりも、自分をこのような姿にしたシンへの復讐心が勝る男だった。
カランコエの時とは違い、今は『憤怒』を顕現させる事が出来る。
まだ十分に回復はしていないが、人間一人を屠るだけの猶予はある。
だが、ここで感覚を共有しているという、本来であれば共振の長所であるべき部分が裏目に出てしまう。
解放軍の間者として送り込んでいた、エルガーの最期を通してコナーが見たもの。
紅蓮の刃を握り締め、彼の首を灼き斬るフェリーの姿。
彼女の眼差しは非常に複雑な思いを孕んでいた。
強い決意の宿った瞳は、エルガを通した先にいる自分を見ているような錯覚に陥る。
カランコエで彼女に近しい者と相対した時とはまるで違う。
必要とあらば、全てを焼き尽くす炎は自分の喉元へ突き付けられる。
遠くにいるはずの彼女を、コナーは本能的に警戒してしまっていた。
フェリーによる一撃と、見つける事が出来なったシンの姿。
そして何より最大の失敗は、マーカス自身にあった。
彼が救援を求めるべく叫んだのは、シンを捉えられないコナーに対しての憤りは含まれている。
マーカスは決して戦闘に長けた男ではない。世界再生の民の背後で、前線に出る者へ力を授けているに過ぎない。
そんな彼が自分の命の懸かった場面でシンの意識を逸らす事など、出来るはずもなかった。
「そこか」
マーカスが反射的に視線を向けた先に、『憤怒』の男は待ち構えている。
そう確信したシンは、小屋の壁へ向かって魔導砲の引鉄を引く。
赤色の灼熱による灼熱が、先制の一撃となって『憤怒』の男へと襲い掛かった。
「おい、シン! こんな所で火を――」
自分達も被害を受けるだろうと怒りを露わにするマレットだが、シンの視線が動く事は無い。
それどころか、より険しい顔で赤色の灼熱の先を見つめている。
「本当に君は、人を殺す点に於いては優秀だと思うよ」
小屋の奥から聴こえてくる、嘲笑の混じった声。
既に炎はかき消されており、煙だけが夜空へ立ち昇っていく。
シンが何かをやらかす度、コナーは憤りと共に自分の見る目が正しかったと思いを馳せる。
この男の手綱を握っていられれば、今のように薄気味悪い姿になる事も無かっただろうに。
だからこそ、シン・キーランドだけは他の誰にも譲りたくはない。自分こそが、彼を甚振るに相応しい。
「……そいつが、邪神の分体か」
コナーと向かい合う形で、シンはぽつりと呟いた。
煙の向こうに聳え立つのは、顔に魔石を埋め込んだ『憤怒』の男と、もうひとつ。
魔力で構成した鱗に覆われた、龍族のような得体の知れない怪物。
誰も、何も語らなくとも判る。この存在の放つ圧迫感が、シンの問いを肯定しているという事は。
適合者であるコナーと、彼の操る『憤怒』。外に居る獣の躯も、じきに戻ってくるだろう。
マレットの奪還を巡る戦いは、ここからこそが本番だった。