308.細く、強い糸
「どうやら、シン・キーランドが単独で来るようだ。
そこの女が持っていた発信機を頼りにしてな」
顔に埋め込まれた魔石を通して、解放軍の動向を伝えるのは『憤怒』の男。
痛々しさの残る両腕の弾痕と裂けた口元は、どちらもシンの銃によって新たに刻まれたものだった。
「そうか。やはり、君は抜け目がないな」
男の報告を受け、マーカスは尚も余裕の表情を崩さなかった。
カップに口をつけては、対面のマレットへうっすらと笑みを送る。
彼がどう思っているかは別として、マレットは彼を生理的に受け入れられなかった。
「そうかい。お褒め頂いて光栄だね。
アタシからすれば、アンタも十分抜け目がないけどな」
マレットの言葉に偽りはない。彼女の恰好は、世界再生の民に連れ去られた時とはまるで違うのだから。
……*
昨夜、マレットは自分の身柄を差し出す事で一時的ではあるが解放軍の安全を確保した。
自分に付き添うのは小太りの男と龍族にも似た邪神の分体。
小一時間も経過した頃だった。
このまま王宮にまで連行されると思っていたマレットだが、マーカスが足を止めた事により雲行きが変わる。
「さて、ベル・マレット。淑女に言うのは気が引けるのだが。
身に着けているものを全て外してはくれないか? ああ、当然ながら衣服もだ」
「おいおい、どんな変態だよ。第一、今は真冬だっての」
突然、何を言いだしたかと思えば、マーカスは裸になれと言っている。
マレットは、人としての尊厳を無視した発言に肩を竦めて見せた。
「勘違いしないでもらいたい。これは危機回避だよ。
君は何を仕込んでいるか判らないからね。懐は勿論、その髪飾りや繊維ですら疑ってかからないと。
替えの服はこちらで用意しているから、安心してくれたまえ」
そう言って無造作に投げられた鞄には、スモックが収められていた。
マーカスの背後では『憤怒』が目を光らせている。従う以外の選択肢は用意されていなかった。
「勿論、下着もだよ」
衣服を脱ぎ、スモックへ手を伸ばそうとしたところでマーカスから待ったが掛けられる。
嫌悪感に満ちた表情を浮かべながらも、マレットは彼の目の前で一糸纏わぬ姿となった。
「ここが暗い森の中なのがとても残念だ。こんなに美しいというのに」
「やっぱり変態じゃねえか」
マーカスはこの瞬間も、マレットが妙な行動を起こさないか目を見張っていた。
というのは建前で、彼女が恥辱に耐える様を愉しんでいる節がある。悪趣味な男と寒さを前にして、全身に鳥肌が浮き上がっていく。
「ほらよ、これで満足か」
マーカスの用意したスモックは、生地としては厚手のものだった。
寒さは凌げそうだが、ポケットの類は縫い潰されている。何か仕込むのは不可能だと、彼女は瞬時に判断をする。
「おや、もう着てしまったのかい。私としては、もっとゆっくりでもよかったんだが」
「凍え死ぬって言ってんだろうが」
恥辱に塗れようとも、マレットの減らず口は変わらない。
彼女は理解している。ここで自分が下手に出ると、相手が付け得上がるだけだと。
自分を欲したという点を踏まえても、存在自体に価値が発生している。
これ以上の優位性は与えまいと、己の身を賭け続けるしかない。
(コイツ、マジで気持ち悪いな……)
脱ぎ捨てたばかりの衣服には、まだマレットの温もりが残っている。
それを丹念に撫でまわすマーカスを前にして、マレットは軽蔑の眼差しを送らずには居られない。
マーカスとしても、彼女が持つ肉感の強いプロポーションは非常に魅力的だった。
かつてピアリーで奔放に振舞った過去を思い返し、思わず涎が出そうになってしまう。
ただ、この美貌を持ちながらものぐさなのは頂けない。
一体どんな生活をすれば、こんな風に袖だけを汚す事が出来るというのだろうか。
十分な教育が必要ではないかと、マーカスは舌なめずりをした。
尤も、彼とて腐っても世界再生の民の一員。現状の自分がすべき事は何なのかは、理解している。
彼女が身に着けていたものに、罠が仕掛けられていないかを探し求めた。
最終的には、髪留めとして使用しているマナ・ポインタの存在に気が付いた。
「ふむ。何かあるとすれば、髪留めぐらいか。
思ったより、簡素な仕掛けだったな」
マナ・ポインタによる発信機を見つけたマーカスだが、どうするべきかと思案する。
発信機を破壊するべきか、否か。破壊した事で相手に場所が伝わるのであれば、迂闊な真似は出来ない。
(ここに置いておくだけでも、十分攪乱にはなるか)
どちらにせよ、相手はこの髪留めを頼りに追跡するであろうと予想できる。
ならば、下手な行動は起こさない方をマーカスは選択した。
ベル・マレットの足取りはこの地で忽然と消える。それを知るのは、遅いに越した事は無い。
「これで追手が現れても、君には辿り着かないだろう」
醜く口角を上げたマーカスが向いた先は王都でも、ましてやゼラニウムでもなかった。
マレットに抗う術はない。深い森の中へと、彼らは姿を消していく。
……*
そして現在。マレットは森で放棄されていた小屋に囚われている。
もう随分と使われていないのだろう。歪んだ壁板の隙間から差し込む寒気が、彼女を身震いさせる。
厚手の生地とはいえ、次に待ち受けているのは地肌なのだから無理もない。
「ところで、案外のんびりしてるんだな。
さっさと王都でも街でも行って、体勢を整えればいいだろうに」
「そうすれば、解放軍も君の行先が判りやすいだろうからね」
考えが見透かされていると、マレットは舌打ちをした。
彼の立場からすれば、何度も煮え湯を飲まされたシンとフェリーが残っているのだから、どれだけ警戒をしても足りないと感じるのだろう。
それに、この小屋に連れられて新たな懸念も生まれた。
顔に魔石を埋め込んだ男。マーカスにコナーと呼ばれた男は、察するに『憤怒』の適合者だ。
理屈はさておき、彼を通して解放軍の動きが筒抜けとなっている。追手がシン独りだと、知られてしまっているのだ。
「夜が明けるまでは、この小屋を使わせてもらおう。
王宮へ戻るのは、明日でも遅くはないだろう?」
マーカスの提案に、コナーは頷く。
彼もまた、シンに撃たれた傷が痛む。回復する時間を欲するのは必然だった。
本来ならマナ・ライドを使ってこの場を離れるのが最適解だった。
だが、両腕を撃ち抜かれたコナーが無事に運転できるとは思えない。
加えて、背中にマレットを括りつけたとしても暴れられては元も子もない。
目立つという観点からも、行きとは大分事情が変わっていた。
それでも、残された時間は夜明けまで。
マレットにとっては、決して長い時間ではない。
(シン、頼むぞ)
それでもマレットは、信じている。
マナ・ポインタは放棄された中でも、僅かな手掛かりを元にシンがこの場に現れると彼女は信じて疑わない。
……*
「……やはりというべきか」
森の中で無造作に棄てられているマナ・ポインタを前にして、シンはぽつりと呟いた。
ゼラニウムやカランコエに隣接している森は、子供の頃から何度も通っている。
マナ・ポインタが示した場所には何もなかったはずだと懸念した不安が、的中してしまう形となっていた。
一日の間野ざらしにされたマレットの服は、すっかりと冷え切っている。
相当前。それこそ、連れ去られて早い段階で身に着けている者を全て外されたのだろう。
身包みを剥がされたマレットの様子も気掛かりだが、救出する為の手掛かりも奪われた。
解放軍には間者が居る。下手に状況を整理しようと戻れば、それこそマレットは手の届かない所へ行ってしまうだろう。
シンはマレットの残した衣類から、何か手掛かりを見つけようとする。
敵の思考と、ここにマナ・ポインタを残した意味。全てを考慮した上で、想像力を膨らませる。
(王宮に帰った? それとも、ゼラニウムか?)
街中に入れば、否が応でも国王軍と鉢合わせになるだろう。
しかし、世界再生の民がそれを良しとするだろうか。
彼らはマギアの人間ではない。国王が手を組んでいるとはいえ、暴君の命令に心から従う者がどれだけいる事か。
(そうなれば却って、ペラティスの耳に入ってきそうだな)
特にゼラニウムであれば、耳ざといペラティスはマレットの存在に気が付くだろう。
そうでなくても、ベル・マレットという存在はマギアでは大いに目立つ。隠し通す事は難しい。
何より、わざわざマナ・ポインタを森の中で棄てた理由が薄れるのではないだろうか。
(街中で棄てた方が、効果的のはずだ)
雑踏賑わう場所でマナ・ポインタを棄ててしまえば、誰かが拾ったり壊したりする可能性が高まる。
誰にも予想が付かない場所へ流れていく可能性だってあり得るのだ。
だが、世界再生の民はそうしなかった。
王都どころかゼラニウムより遥か手前の森の中で、身に着けているもの諸共マナ・ポインタを放棄したのだ。
世界再生の民はマレットを評価していると同時に、警戒している。
彼女の身に着けているもの全てが、戦況を覆しかねないと考えている。
シンがその結論へ辿り着くのは、半ば必然だった。
(だとすれば――)
シンは再度、マレットの放置された衣服を手に取った。
ギルレッグによると、白衣を脱いでから襲撃を受けるまでにそう時間は警戒していない。
にも関わらず、袖にべったりと汚れが付いている。一体何をどうしたら、こんなに汚せるのだろうかと考えた矢先の事だった。
袖の汚れが故意であると気付いたのは、自分もそうだったからだろう。
マーカスが気付かず、シンは気付く事が出来るのも、必然だった。
「言われなくても、そうするってのに」
引き延ばされた袖をじっと眺めながら、シンはため息を吐いた。
同時に、己の考えをやや強引ではあるが纏めた。迷っている時間は残されていないと、改めて自覚をしたからでもある。
彼女は人通りの多い場所へ連れ去られてはいない。
よって、現段階では王都はおろかゼラニウムにも到達をしていないと仮定をする。
カランコエ方面に逃げたのであれば、自分達と遭遇しているはずだからあり得ない。
自分は森の中を北へ進んでいる。そのまま進めば、ゼラニウムがある。
東を向けば、カランコエ。必然的に、シンの進路は森の西側へと絞られていく。
(この森の西側に、潜伏できる場所か)
子供の頃は、親やアンダルを同伴した上で。
冒険者になってからは、依頼によっては単独で。
何度も繰り返し歩いた森の地形は、未だ頭の中に残っている。
だからこそ、断言できる。
この森で、人間が長時間潜伏できる場所は限られている。
残る問題は、そこにマレットが居るのかどうかだけ。
何より、この戦いには時間制限がある。
マレットが手の届かない場所で連れ去られてしまえば、自分達の敗北。
問題は単に相手の準備が整うだけに留まらない。
イリシャへ依頼した、間者の対処も十分に影響を及ぼす。
間者を始末してしまえば、当然ながら世界再生の民には伝わるだろう。
予定を前倒しにし、潜伏場所から去ってしまう危険は常に付きまとう。
危険を負ってまで、シンが間者の存在をイリシャへ示した理由。
それは、マレットを取り戻す確率を少しでも底上げする為に他ならない。
大群で押し寄せれば、同様に予定を前倒しにされてしまうだろう。
自分が先行し、足止めを行う。その時間差で、フェリーに追い付いてもらいたかった。
流石にメモに長々と書き連ねる余裕は無かった。慣れない言語はこれだから、難しい。
イリシャは自分の意図を読み取ってくれる。フェリーは懸念が無くなれば、必ず援護に来る。
彼らは今、信頼という細い糸に身を委ねている。強度を推し量れるのは、本人達だけ。
委ねた結果が形となって現れるまでは、まだ少しだけ時間を要していた。




