300.約束の地にて
「シ、ン……?」
土塊の壁を以て、悪意から切り離された少女。
精神的外傷を掘り起こされ、幸せだった記憶さえも穢されようとしていた。
咄嗟に縋った青年の名が口から零れるのも、致し方ないの事だった。
「シン、どうしてカランコエに? 他の皆は?」
身体を起こしたイリシャは、纏わりついた土埃による汚れを払いのけながら尋ねる。
彼の名を呟くだけで呆然としている彼女の代わりを務めようとしている様子が伺える。
「マレットたちとは別行動を取った。
……俺も、昔殺した相手と鉢合わせたんだ」
「それって……」
そこから先の言葉を、イリシャは呑み込んだ。
シンにとって気持ちのいい話でない事は明白なのだから。
これから彼が何をしようとしているのかを考えると、軽々しく口にしてはいけないのだと悟る。
きっと彼もそれを望んでいる。
誰よりも大切な女性が、これ以上傷付かない事を。
「すぐに終わらせる。だからイリシャ、フェリーを頼んだ」
何度も、何度も。ゆっくりと、しかし確実にシンは魔導砲の弾倉を回転させていく。
吸着した魔力が、巨大な魔力の弾丸を生み出していく。
壁越しに伝わってくる喧騒を前にして、彼は徐に銃を構えた。
「シン、待って!」
フェリーが見上げた先にあるのは、シンの後ろ姿。
彼が今、どんな表情をしているのか判らない。
それでも、これだけは理解している。
自分が弱いから、また彼に辛い役目を押し付けてしまっているのだと。
「大丈夫だ、フェリー」
フェリーの制止も意味を成さず、シンは魔導砲の引鉄を引いた。
刹那、眩い光と共にフェリーの視界からは土塊の壁が姿を消していた。
現れた景色は、全てを失ったあの時と同じ。
ただ星明りに照らされるだけの、空虚な世界。
……*
(いくら何でも早すぎる。一体何が……)
シン・キーランドの到着を誰よりも驚いていたのは、魔石越しに監視をしていた『憤怒』の男だった。
クリム達との接続が切れて以降、シンの動向は掴めなかった。
けれど、全力で駆け抜けたとしてもまだ時間的余裕は存在しているはずだった。
カランコエに辿り着くのがあまりにも早すぎる。
それだけではない。躯の壁を突破して、彼はフェリーとイリシャの元へと現れたのだ。
土塊の壁の向こうでは、一体何が起きていたのか。
突如投げられた難解な問題を前にして、男は奥歯を噛みしめた。
彼に知る由は無いが、当然ながらシンは全力で走っているだけではない。
距離を短縮する為に簡易転移装置を使用している。
創土弾を用いて四方を囲んだのも、その中心に現れたのも。
全ては一刻も早くフェリーの元へと辿り着く為だった。
そこまでして、シンが彼女達に寄り添わなければならない理由。
それは目隠しを用意してまで、見せたくないものがあったからだ。
これから起きるものを、シンは決してフェリーに見せたくはない。
彼女の心をこれ以上、傷付けたくはなかった。
……*
魔導砲から放たれた、純然たる魔力の塊はあらゆるものを消し飛ばした。
最早、壁の向こうには何も存在していない。
「行け!」
シンの合図と共に、イリシャは強く頷く。
力の抜けたフェリーの手を引き、無理矢理にでもその身体を動かそうとする。
「シン! ……そっちにいるのは!」
シンの背中に聳え立つ土塊の壁。
その裏側に立ちはだかる者の名を叫ぼうとする。
「フェリーちゃん。急ぎましょう!」
それよりも優先すべき事があると、イリシャはフェリーの手を引いた。
シンも誰がそこに居るのか、理解している。理解しているからこそ、フェリーを遠ざけようとしている。
彼の中では、とうに覚悟は決まっているのだ。
歯噛みしながらも、イリシャは彼の気持ちを汲み取った。
選んだ答えは、きっと誰にとっても残酷なものなのだろう。
自分ではどうにもできない。ならば、彼に委ねるしかない。
せめて決心を鈍らせてはならないと、懸命のフェリーの手を引きながらイリシャは走り続けた。
……*
シン・キーランドはゆっくりと、それでいて大きく息を吸った。
夜の冷えた空気が、脳を冷やそうと試みる。
頭を駆け巡る冷気とは裏腹に、煮えくり返った腸はその温度を下げる事は無かった。
壁越しに鳴らされる喧騒を、背中越しに感知する。
振り向けばもう、止まってはいけない。迅速に、しかし確実な対処が求められる。
フェリーはイリシャへ連れられ、躯達から離れていく。
これ以上は躊躇う時間すら存在しない。標的が移れば、自分が現れた意味も無くなってしまう。
魔導砲の弾倉を回転させ、魔力を吸着させていく。
自身の怒りを放つが如く、シンは再びその引鉄を引いた。
緑色の暴風の生み出す突風が、土塊の壁を荒々しく破壊する。
大小入り混じった礫が、躯となった村人達へと襲い掛かる。
シンは躊躇う様子を見せず、視界が拓けた瞬間に彼らの足元へ魔導弾を放つ。
凍結弾による氷が、彼らの足を地面へと縫い付けた。
土の礫による攻撃。更に氷によって動きを奪われたともあり、躯となった村人達を間をシンはすり抜けていく。
三度充填した魔導砲は、先の二発に比べると量が少ない。
刃として展開するにしてもその刀身は短く、さながらナイフのようだった。
けれど、今はそれで構わない。
動きを止めた躯達を、シンは小回りの利く刃で斬り裂いていく。
腕を、喉を、心臓を。
意味があるのかを考えるよりも、身体を動かす事を優先した。
「シン? おれだよおれ!」
(違う!)
生前、良くしてくれていた村人が声を掛ける。
シンは一瞥も暮れてはならない。ただ頭の中で、その存在を否定する。
「シン、大きくなったな」
(……違う!)
父の躯が手招きをする。
子供の頃から、色々な所へ連れて行ってくれた父。
気持ちを悟られるよりも先に、心臓に刃を立てた。
「おにいちゃん!」
(…………違う!)
自分やフェリーよりも高い、少女の声が鼓膜を揺さぶる。
よく懐いてくれていた妹のものだった。
声が漏れ出ないように、シンは奥歯を噛みしめながら喉を突いた。
「シン。また、家族が揃ったのよ?」
(………………違う!)
いつも笑顔を絶やさず、背中を押してくれた母。
彼女がキーランド家を取り持っていたのは、疑いようもない。
そんな母に今の姿を見られたくなくて、彼女の目を刃で裂いた。
己に別人だと言い聞かせていても、迷いはあった。
原因はクリム達との戦闘にある。彼らははっきりと自身の記憶に基づいた言葉を述べている。
ただ単に、外見だけを模倣している訳では無い。
心の奥底に打ち込まれた疑念が、シンの精神を削り取っていく。
気が狂ってしまいそうだった。けれど、シンは決して止まらない。
彼を突き動かすのは、激しい怒りだけではない。
10年もの間。最愛の女性を傷付け続けた過去が、哀しくも彼の身体に淀みを作らなかった。
違う。
皆はもう、この世にはいない。
躯達は偽物だ。
次々と脳内で浮かび上がる可能性を否定しながら、シンは前へと進んでいく。
「おい、シン。久しぶりに会えたんだ。そりゃ、ねえだろ」
「……アンダルじいちゃん!」
ただ一人。シンの凍結弾から逃れた者が居る。
己の得意とする炎の魔術を用いて、氷を防いだ男。アンダル・ハートニア。
彼はシンへ己の指先を向けると同時に、挨拶代わりとなる魔術を放った。
「紅炎の槍」
シンへ目掛けて放たれる、炎の矢。
殆ど充填出来なかった事もあり、魔導砲の刃は光を殆ど失っている。
ぶつけた所で相殺は出来そうにないと判断したシンは、銃身から魔術付与による縄を出現させた。
氷により縫い付けられた躯へ巻きつけ、その長さを短くする。
自分の身体能力以上の移動速度で収縮する縄は、炎の矢の射線からシンを引き離した。
そのまま巻き取った躯を刃で斬りつつ、シンはアンダルへと接近していく。
「シン! やるじゃねぇか!」
「……っ! じいちゃんみたいなことを、言うな!」
縄を急激に巻き取った反動で、シンの身体は慣性によって流される。
紅炎の槍こそ躱したが、百戦錬磨の魔術師であるアンダルの手がそれだけであるはずがない。
その指先は、シンの動きを追跡していた。
「何言ってんだ? 正真正銘、儂はアンダルだ。
フェリーだって、おじいちゃんって呼んでくれたんだぞ」
「……だとしても!」
二人の行動は同時だった。
再び紅炎の槍を放つアンダルと、水流弾を放つシン。
蒸発した水の弾丸が、周囲を白く濁していく。
互いの姿を、霧が覆い尽くす。
「じいちゃんが、俺の家族が。フェリーを傷付けるはずがないんだ」
霧の向こうで、絞り出すように声を漏らした。
誰よりも皆を知っているからこそ、あり得ない、偽物だと言い切れる。
姿形が似ていたとしても。
記憶を持っていたとしても。
限りなく再現しただけの模倣に過ぎない。
そう言い切れるだけの絆を紡いできた。
そんなつまらない存在に、フェリーを傷付けられた事は許せない。
シンの怒りは、己の躊躇いを打ち消すには十分足り得る理由だった。
「そうは言っても、儂らも暫く眠っていたからな。
考えが変わることだって、あるかもしれないだろ?
お前に会った時なんて、カランコエには住まないって言ってたじゃないか」
シンは怒りを堪えるので精一杯だった。
よくもまあ、ベラベラと回る口だと奥歯が割れそうな程に噛みしめる。
過去へ転移した時の話まで持ち出されているのだ。
生前の元となった人物の記憶を継承している事は、もう疑いようがない。
本当よく似せた玩具を作ってくれたものだと、黒幕に対して賞賛と嫌悪を抱いた。
「……だったら、じいちゃんが一番知ってるはずじゃないか」
けれど。だからこそ。
シンにも譲れないものがあった。
砂利が擦れてはいない。動いてはいない。
霧に覆われていても、アンダルの位置は解る。
シンは徐に銃を前へと構える。
「俺がフェリーを、一生かけて護るって約束したことを」
シンは確かに、32年前のこの地でアンダルと約束をした。
フェリーを、一番大切な女性を護り続けると。
例えその邪魔をするのが自分の家族でも、アンダルでも。
あの時の言葉に偽りはない。シンは約束を完遂すると誓っている。
「ああ、そうか。そうだったな」
霧の向こうでアンダルはボリボリと頭を掻いた。
この男はそうだった。自分に懐いてはいるが、あまり融通が利かない。
約束を反故にするなんて、する訳が無かった。
「だったら、とことんやり合うしかないよな」
風の魔術が、周囲の霧を一瞬にして散らせる。
露わになった互いの視線が交差する。言葉はもう必要なかった。
魔導弾も、通常の弾丸も。
シンの攻撃をアンダルは魔術を駆使する事により防いでいく。
未だ一発たりとも、その身にシンの銃弾は届いていない。
一方でアンダルも、攻めあぐねていた。
彼がその身に殆ど魔力を宿していない事は知っている。
本人からの申告もあったし、何より幼少期に確認済みだ。
けれども、自分の魔術はシンへ届かない。
疑似魔術を放つ魔導具や、魔術付与された縄により彼は所狭しと動き回る。
自分の生前には存在していなかった武器でもあり、アンダルは余裕を装ってはいるもののシンの動きに翻弄されつつあった。
互いに予断を許さぬ状況が続く中、この状況が続くにつれ優位に立つのはアンダルだった。
感覚が仮面の男と共有されている事により、他の躯達との意思疎通が用意に取れる。
加えて、『憤怒』によりその魔力は生前のものより高まりつつあった。
アンダル・ハートニアの躯が有しているものは、生前の記憶や培った経験だけではない。
『憤怒』の男を通して、仲間の躯と統率の取れた行動を得られる事が何よりの強みだった。
有利である事を裏付けるものとして、シンが放った凍結弾による硬直状況の変化がある。
アンダルはしきりに炎の魔術を放っているが、決して攻撃の為だけではない。
躯達の動きを止めた氷を少しずつではあるが融かしていた。シンに気付かれぬよう、風の魔術を併用して水蒸気を隠しつつ。
時間が経過する程に、アンダルが有利となっていく状況。
シンも薄々、その状況は感じ取っていた。
だからこそ、彼は動く。
アンダルと交わした約束の他に、彼から受け取った物を駆使して。
それはある意味では、恩返しなのかもしれない。
一生をかけてフェリーを護るという約束を、自分が知らない頃からアンダルが教えてくれていたという、またとない証拠でもあるのだから。