294.復讐の矛先
マギアの王宮。
嘴状の仮面で顔を覆い隠した男は、時が来たと言わんばかりにゆっくりと身体を起こす。
「おや、動きがあったのかい?」
期待混じりに、マーカスが仮面の男へと尋ねる。
ベル・マレットとの邂逅を待ち望んでいる彼だが、施設の整っていないマギアの王宮では聊か退屈な日々を送っていた。
「解放軍はゼラニウムへ向かっている。今から向かえば、丁度鉢合わせるはずだ」
「そうか、漸くかい。この王宮も丁度飽きて来たところだったんだ」
仮面の男からの返答に、マーカスは胸を躍らせた。
彼が言うのであれば間違いないという確信がそこにはある。
何より、この退屈から解放される事がありがたい。保管されている魔導具にも見飽きたところだった。
一般に流通している魔導石となんら変わらないと、愚痴を溢す時間が漸く終わりを告げる。
こんな既製品を眺めるよりも、作った張本人であるベル・マレット。彼女と話す方が数倍も有意義な時間を過ごせるだろう。
「そうと決まれば、早速向かうとしよう」
マーカスは仮面の男を連れ、部屋を後にする。
王宮の主であるルプスへ、出立を伝える為に。
……*
ゼラニウムへ向かうという世界再生の民の話を、ルプスは黙って聴いていた。
一通りマーカスが説明を終えると同時に、浮かび上がった疑問を彼へと投げかける。
「貴様達の事情は理解しているつもりだ。だが、反逆者共がゼラニウムへ向かっているというのは真実なのか?」
王宮内の誰ひとりとして、解放軍の動向を得る事は出来なかった。
幾度か追手を放ったものの、煙に巻かれてしまっている。
それがこう、易々と情報を手に入れたというのだから俄かには受け入れ難かった。
余所者にすら簡単に見つけられた尻尾を、未だに捕まえる事が出来ていない。
不甲斐無さ過ぎる兵に、ルプスは憤りを感じつつもあった。
「仮面の男が言うのですから、間違いありません。解放軍が何処に潜伏しているかなど、筒抜けも同然なのです」
不敵な笑みを浮かべるマーカスの隣には、『憤怒』に適合した仮面の男が佇んでいた。
左右のバランスが悪いのか、僅かに下がった左肩は直立する兵士達とは対照的に不遜さを思い起こさせる。
「はい。解放軍と名乗る者達はゼラニウムへと向かっています。
わざわざ王都まで待つ必要はありませんので。自分達が対処しておきましょう」
仮面の男は、動向を把握している理由を敢えて語ろうとはしなかった。
我欲に塗れた男であるルプスも、深く追い求める事は避けた。
ルプスにとっては吹けば飛ぶような反逆者の動向に執着するよりも、仮面の男の機嫌を損なう方が何倍も畏れる必要がある。
「そうか。ならば、こちらから兵や魔導具を貸し出してやろうか?」
「遠慮いたします。手駒なら、いくらでもいますから」
低く、重たく、冷たい声。憎悪にも似た感情を吐露するかのように、仮面の男は越えを反響させた。
表情が伺い知れないはずなのに、思わず気圧されてしまうルプス。
彼の力の片鱗を知っているからこそ、それ以上は強く言及する事を避けた。
「そ、そうか……」
ルプスが固唾を呑み込む一方で、マーカスは隣で口角を上げながら佇んでいる。
こと戦闘において、仮面の男を信頼していると言う何よりの証だった。
それならばと、ルプスはこれ以上の言及を避けた。
邪神の分体に適合した男の前では、半ば無理矢理徴兵した人間など邪魔な存在でしかない。
足を引っ張る者は不要だという意思が、ありありと伝わってくる。
「援軍が不要であることは理解した。して――」
しかし、ルプスにはもう一点気にしなくてはならない事がある。
彼がその身に宿したという永遠の命。その鍵を握るのが、他ならぬこの仮面の男だった。
周囲に兵士が居る状況では聞き辛いもの。
かといって、確認をしない訳にはいかない。
若干ではあるが、焦りの色を表に出したのを仮面の男は見逃さなかった。
「分かっています。自分達が戻るまで、陛下はごゆっくりされるのがよろしいかと」
「……そうさせてもらおう。戻ってくるのを、待っているぞ」
仮面の男が発した言葉の意味を察し、ルプスは強く頷いた。
得体の知れない男の話をすぐに受け入れる国王の姿に、兵士の表情には困惑が浮かぶ。
ただひとり、事情を把握しているマーカスだけが笑いを堪えていた。
……*
ルプスから貸し出されたマナ・ライドに跨り、二人はマギアの国を駆け抜ける。
風を切り裂くように、一直線にゼラニウムへと向かう。
「やれやれ。暴君もアレでは、形無しだね」
王都から離れたマーカスは、小馬鹿にするように肩を竦めて見せた。
あれだけ横暴に振舞っている男が、『憤怒』を前にしてはまるで怯える子猫のようだったのだから笑い種だ。
「奴にとっては、永遠の命しか縋るものがないという証明だろう」
「だね。こちらとしては、都合が良いから助かるのだけれど」
マギアの国王が手に入れた永遠の命は、仮面の男が居なければ成立しない。
あれだけ尽きない命を謳歌していた暴君も、いざ自分の手元から離れると狼狽えずには居られなかった。
その事実を知っているのは、当事者であるルプスと仮面の男にマーカスを含めた三人のみとなっている。
それでも、欲深いルプスにとっては何に変えても得難いものだった。
今でこそ仮面の男が必要だが、何れは己の力のみで永遠の命を維持しようという強い意思が込められている。
マギアの暴君が持つ欲望は、留まる事を知らない。
ルプスが強大な力を手に入れると同時に、世界再生の民はマギアの弱みを握っている事にもなる。
自分達が協力の姿勢を貫いている限りは、ルプスもそう簡単に裏切りはしない。
せめてミスリアが墜ちるまでの間は、手の上で転がそうとい企んでいる。
ルプスは知らない。例えマギアがミスリアを墜としても、決して自分のものには成り得ない事を。
侵略者であるマギアの暴君を、救世主であるアルマが仕留めるというシナリオの犠牲になるだけなのだ。
その日が来るまでは、欲深い男の妄想を可能な限り叶えてやろうと世界再生の民はほくそ笑んでいた。
「マーカス。改めて言っておくが、ベル・マレットは貴様にくれてやる。
だが――」
「分かっているさ」
互いの欲望が絡み合う中、二人には各々の目的も存在していた。
そのひとつが、ベル・マレットを味方へと引き込む事。
マーカスにとって、マレットの存在は今後の活動に大きく影響を及ぼす。
彼女が居ればどれだけ計画を短縮できるか、楽しみで仕方がない。
一方で、仮面の男にも何よりも優先すべき目的があった。
「代わりに、あの二人は君に任せる。それでいいだろう?」
「……ああ」
仮面が零れぬよう抑えながら、男は頷いた。
彼の目的は、復讐。『憤怒』に適合した男は、強い怒りの感情を彼らへと抱いていた。
「シン・キーランド。フェリー・ハートニア……」
自らの人生を大きく変えた人間。
シン・キーランド、フェリー・ハートニア。そして、ベル・マレット。
本来であれば、三人共が彼の復讐対象でもあった。
けれど、世界再生の民がそれを許さない。
マレットに利用価値を見出したビルフレストとマーカスが、彼女の身柄だけは確保するように伝えた。
その分の憤りは、シンとフェリーへ向けられる事となる。
特別なものをなにひとつ持たないシンは兎も角、不老不死であるフェリーも対象から外れなかった理由はひとつ。
三日月島で現れた、魔女の存在にある。
突如現れた魔女は、不完全とはいえ邪神を退けた。
ビルフレストのみが得ている情報だが、浮遊島でも同様に『色欲』を燃やし尽くそうとしたという。
制御の出来ない存在だと判断したビルフレストは、フェリーを利用する事を諦めた。
それどころか、最も危険な因子として排除する方針を固めている。
「あの二人には、私も辛酸を舐めさせられている。
私の分まで、どうか頼むよ」
マーカスが思い返すのは、ピアリーでの出来事。
あの日、あの時。不老不死の魔女が現れなければ。
自分は研究に没頭する事が出来ているはずだった。
新たに『核』を創り出す時間も、魔石で造った像を用いてマギアで分体を呼び起こす必要さえも無かった。
計画に大幅な遅れが生じた最大の要因は、他でもないフェリー・ハートニアだった。
「言われるまでもない」
二人の男が持つ深い憎悪は、具現化した悪意によってシンとフェリーへ向けられようとしていた。
……*
南部を抜けた解放軍は、順調にマギアを北上していく。
ここまで、マギアの王国軍との遭遇は避けて来た。
無理矢理徴兵されている者がいる以上、彼らと剣を交える事は本望では無かったからだ。
けれど、ここから先はそうにも行かない。
兵士達にとっては前へ進もうが後ろへ退こうが、待ち受けているのは地獄。
こちらに戦闘の意思がなくとも、彼らは牙を剥くだろう。
自分達の大切なものを、護る為に。
「通路を通り過ぎたら、国王の背後でしたー!
みたいなモンがあったらいいんだけどな」
あるわけがないと思いつつも、マレットは願望を垂れ流す。
段々と重くなっていく空気に耐えきれず、栗毛の尻尾を跳ねさせながらの一言だった。
「ベル、そんなものがあったら苦労しないよ」
「貴様、実は馬鹿だろう?」
「ものの例えだよ。真に受けんな、バカ」
可哀想な者を見つけたかのように、オルガルとオルテールが目を細める。
緊張感を和らげようと道化を演じたマレットだったが、想像以上に冷ややかな反応を前にして口走った事を後悔していた。
「えっと。それじゃあ、あたしとイリシャさんはこっちに行くね」
ゼラニウムへ向かう前に聳え立つ木々を前にして、フェリーは皆とは違う方向へ指を差した。
その先にあるのは、かつて存在していた小さな村。シンとフェリーにとっての故郷、カランコエ。
本来なら拓けた道もあるのだが、マギアの軍と鉢合わせる可能性を考慮した結果、両者共に森を突っ切る方針を固めている。
森と銘打たれてはいるものの、規模は左程大きくない。
子供の頃によく通り抜けていたのだから、凶悪な魔物が生息していない事も知っている。
「俺達も後で追いかける。気を付けてくれ」
「うん、そっちこそ。シンたちの方がアブないんだから」
軽く手を振りながら、フェリーはイリシャと共に森の中へと消えていった。
枝葉を掻き分けていく後ろ姿は、シンにとって初めて見る光景だった。
いつも遊んでいた時のフェリーは、まだ背丈が枝にまで届いていなかった。
もう10年もの間、彼女の時間は止まっている。けれど、確かに成長はしているのだと実感させられる。
止まったままの時計の針を、再び動かしたい。後ろ姿を見送りながら、シンは拳を握り締めていた。
……*
フェリーやイリシャとは方角こそ違えど、解放軍も森の中を進んでいく。
小動物や鳥によって葉が擦れる度、ロインが身体を強張らせる。
訊けば解放軍に保護されるまでの間、必死に逃げていた記憶が蘇ったと言う。
「大丈夫ですよ、ロイン様。僕たちもついていますから」
「あ、ありがとう。オルガル……」
オルガルやマクシスが彼の周囲へ張り付き、シンが先頭に立つ。
銃を持ち、小回りの利く彼ならば不意な敵にも対処が出来るだろうという判断だった。
実際、その判断は間違っていなかった。
彼の身体を硬直させたのは、全く別の要因だったのだから。
「……誰だ」
今までとは明らかに違う、大きく擦れる葉音。
反射的に銃を構えたシンが、眉間に皺を寄せる。
もう夕方となり、視界はかなり悪くなっている。
にも関わらず、うっすらと見える影が人の形を成している事を隠そうともしない。
この時点でシンは、違和感を覚えていた。
確かに視界は悪くなっているとはいえ、どうして夜襲ではないのか。
確かに夜までに森を抜けると判断したのであれば、決して誤りではない。
このまま歩けば、きっと森は抜けていただろう。
けれど、解放軍の方針としては森を抜けるつもりはなかった。
戦えないロインも混じっている中で、ゼラニウムの街で一泊を過ごす事の危険性を把握しているからだ。
王国軍なのか、それとも偶々現れただけの人間なのか。
シンはどちらでも対処できるよう、人影に向かって銃口を向けた。
刹那、シンの顔に浮かんだものは困惑だった。
眼前の男には右目の下から耳元まで延びた、大きな傷が刻まれている。
この顔は知っている。忘れるはずもなかった。
「久しぶりだな、シン」
「……クリムさん」
初めて殺めた人間の名を、シンは口にした。
引鉄に掛けた人差し指に、力が入らない。
かつて自分が殺した人間が、目の前に立っている。
あり得ない。あってはならない男が、シンの目の前で立ち塞がっていた。