281.トリスとトリスティア
トリス・ステラリード。確かに彼女はそう名乗った。
朦朧とする意識の中でも、彼女の声を聴き間違えるはずがない。
霞む目を擦り、焦点を合わせる。黒いローブを身に纏い、四肢から血を流す少女が瞳に映しだされる。
トリスティア・エヴァンス。紛れもなく、自分の知っている少女だった。
(トリスティア? 君は一体……)
混乱する一方で、ライルは確かに彼女の温もりを感じた。
自分を包み込んだ雪は、見た目とは裏腹にとても心地よかった。
「ライル殿、決して私から離れないでください!」
「わ、解った」
一度も聞いた事がないような強い口調。
自分の知っている少女はそこに居ない。一人の魔術師の姿。
力の籠った眼差しが見据える先には、吸血鬼族が立っている。
「行くぞ、吸血鬼族!」
トリスは賢人王の神杖の柄を地面へと突き立てる。
示し合わせたかのように、その動作が戦闘開始の合図となった。
……*
賢人王の神杖によって覆われた雪の結晶。
その影響はライルとハーマンの居た広間だけに留まらない。
ネクトリア号の獣人を狙っていたハーマンの傀儡。
彼らも突如、雪の結晶で覆われては動きを停止させていた。
「なっ、どうしたってんだい!?」
狼狽えながらも、雪の結晶は自分達までは延びてこない。
状況について行けず、ベリアは呆然と瞬きを繰り返すだけだった。
「――!」
「ヴァルム? 知っているのかい?」
唯一、その結晶から迸る魔力に覚えのあるヴァルムが、獣人達へ訴える仕草を見せる。
間違うはずもない。自分を使役している主人の魔力と、同質のものなのだから。
ヴァルムは懸命に翼をばたつかせ、自らの胸を強くはたく。
相変わらず言いたい事は判らないが、必死な形相からベリア達にも一人の少女の顔が浮かび上がった。
「トリスティアだってのかい?」
「――!」
何度も首を上下させるヴァルムに対して、ベリアは目を細める。
雪の結晶に覆われた人達は、未だ微動だにしていない。
トリスティアは彼らに対して、何をしたのか。自分達を護る為に、仕方なく手を汚したのか。
嫌な役目を押し付けてしまったのかと影を落とそうとした瞬間だった。
「ん……っ。こ、ここは?」「オレは、なんで港に……?」
重い頭を抱えながら、獣人達へ襲い掛かっていた者達が周囲を見渡す。
困惑の言葉が口からは漏れ出ている。自分が何をしていたのか、把握していないような様子だった。
「元に戻った……?」
目を合わせた人間が会釈をするものだから、ベリアも釣られて返してしまう。
先刻までの出来事がまるで嘘だったかのように、日常の光景が取り戻されていた。
「なんだか知らんが、助かったぁ……」
ネクトリア号の乗組員たちは安堵の声を漏らし、その場に座り込む。溶けた雪が浸み込もうとも、気にしない。
人間と獣人の仲に亀裂が入っていない。その事実が、何よりも得難い結果だった。
ベリアも例に漏れず安堵のため息を漏らすが、一羽の炎爪の鷹だけは事情が違っていた。
まだ主人は戦っていると、本能で察知する。
自分は彼女の元へ向かわなくてはならないと、冷たい空気を切り裂くようにして街の中へ飛び込んでいった。
「あっ、ヴァルム! 待ちなよ!」
ヴァルムの様子を見て、ベリアもトリスの状況を察した。
まだのんびりとしている訳に行かないと、懸命にヴァルムの後を追っていく。
……*
賢人王の神杖。かつて調和と平穏の神が人間に与えた神器。
500年前に起きた争いにて、この神杖の継承者が仲間を集め、やがて魔族を退けた。
神器に秘められた本質は、調和。
継承者となったトリスの魔力に呼応し、魔力に侵された者を包み込んだ。
雪の結晶となったのには、彼女の精神が反映されている。
この街で識った温かい世界と、美しい銀世界。いつしか抱いていた憧れが、形となって現れた。
結晶は本人以外の毒となる魔力へ干渉し、やがて活動を停止させていく。
治癒魔術や魔眼による魅了の対極とも言える能力。
奇しくも、ジーネスの破棄に似た能力をトリスは神器を以て再現していた。
そして今。
多くの人間が、獣人が紡いできた調和を破壊しようとする者。
純血の魔族である吸血鬼族を打倒すべく、少女は神杖へ魔力を込める。
「行け! 紅炎の槍!」
まるで何年も使い込んだ相棒かの如く、淀みなく魔力が流れる。
トリスのイメージよりも遥かに巨大な炎の矢が、ハーマンへと襲い掛かった。
「貴様の自信同様、その程度の魔術が誇大化したところで脅威ではない!」
ハーマンは右手の爪を重ねては、紅炎の槍を撃ち落とす。
先刻までは取るに足らない魔術だった。多少強化されたところで、遅れを取る訳には行かない。
無数に放たれた炎の矢を斬り裂いていく姿には、吸血鬼族としての矜持も在った。
無論、賢人王の神杖で強化されたとはいえ紅炎の槍だけで斃しきれるとは思っていない。
互いの姿を覆い尽くす程に炎の矢を放った彼女は、神杖を通して新たな魔術を放つべく魔力を練り込んでいく。
「紅炎よ、万物の存在を否定せよ。永遠の暇を与える不滅の刃として、斬り払え。
断罪の刻は終わらない。私は肯定する、汝の怒りを。汝も肯定せよ、私の怒りを。
全ての者に不変の終わりを、与え給え――」
「何をごちゃごちゃと!」
紅炎の槍による波状攻撃を突破したハーマンが、右手を突き出す。
金色の瞳に宿る殺意は、今までのような余裕とは違う。確実に仕留めると言う気迫を感じた。
だが、それはトリスも同様だった。
背後に世界再生の民がいようが、邪神がいようが、吸血鬼族の王がいようが関係ない。
今、ここで積み上げられた平穏を壊している男を、撃ち滅ぼす。自分の力の全てを以て、ハーマンを迎撃する。
ハーマンの爪先が、トリスの首を掠める。数ミリズレていれば、頸動脈が裂かれていた。
だが、裂けなかった。紙一重の差で、勝負は決した。
「――紅炎の新星」
トリスもまた、ハーマンに向けて賢人王の神杖を突き出していた。
眼前で放たれるのは、炎の最上級魔術。紅炎の新星。
紅炎の槍とは違い、極限にまで圧縮された炎が吸血鬼族の顔を焼いた。
「この程度の炎で! ――ぐうっ!?」
初めは拍子抜けをした。自分の知っている紅炎の新星とは似ても似つかなかったからだ。
詠唱を唱えていたにも関わらず、この程度の大きさという事はトリスの魔力は尽きていたのではないかと邪推する。
しかし、その考えが甘かったと知るのに時間は要さなかった。
眼球の水分が一瞬にして蒸発をする。鼻が、喉が焼けて呼吸が出来ない。
逆流した炎は、肺をはじめとした臓器に浸透をしていく。
「私程度の紅炎の新星でも、放てば街に被害が出てしまう。
消えるのは貴様だけでいいんだ。他は何も、望んではいない」
一方的に話すトリスの声に、ハーマンは何も返す事が出来ない。
ただ焼き尽くされる痛みに悶えるだけの時間が、無情にも続いていく。
身体の全てが炭となるまで、彼は無様にのたうち回っていた。
……*
焼き尽くされた吸血鬼族を見届けた後も、広場には沈黙が流れた。
ライルが顔を見上げても、トリスは自分の方を向いてはくれない。
彼女の服は裂かれて肌が露出している。自分から回り込むのは卑怯だと考えた結果、膠着が続いてしまっていた。
訊きたい事も、話したい事も沢山あるというのに。
背中越しのトリスティア。いや、トリスは一体何を思っているのか。
重い空気を吹き飛ばしたのは、人虎の女だった。
「トリスティア!? なんだい、その恰好は!?
怪我も酷くなっているじゃないか! こんなところで突っ立ってんじゃないよ!」
炎爪の鷹のヴァルムと一緒に、広場へ現れたベリアが素っ頓狂な声を上げる。
既に陽は落ちて、周囲は冷え込んでいる。ただでさえ防寒具が必要なこの状況で、トリスの恰好は見ていられるものでは無かった。
トリスはというと、彼女の様子を見て少し安心をした。
どうやら自分は上手くできたらしい。獣人も人間も、傷付けずに済んだのだ。
それだけが知りたかった。世話になった皆が無事であるなら、他には何も求めない。
「……ベリア。いや、私は――」
「良いから、さっさと手当をするよ! このままじゃ風邪もひいちまうだろ!
ほら、若旦那も! そんなところでへたり込んでないで、手伝っとくれよ!
トリスティアはズボラなんだから、こっちが世話してやんないと!」
「あ、ああ……」
後は自分が事情を話して、この場から去るだけ。
そう思っていたのだが、ベリアがそれを許さない。自分の言葉を遮っては、雇用主であるはずのライルまで捲し立てる。
「あのだな、ベリア。私は――」
「アンタは黙って言うこと聞いてな! それとも何かい? 怪我の治療をしながらじゃ、話せないようなことなのかい?
海に落ちているアンタを拾ったのは誰だい? ここまで面倒を見たのは誰だい? 意外と恩知らずだったんだね、がっかりだよ」
(ああ、そうか……)
トリスは反省をする。また自分は表面的なところしか見ていなかったようだ。
余程自分は酷い顔をしていたのだろう。彼女はただ、心配をしてくれているだけなのだ。
厚意に甘えない方がむしろ、傷付けてしまう結果になるのだと気が付いた。
「……すまない。怪我も勿論だが、服もこの有様だ。世話になる」
「分かりゃいいんだよ」
腕を組むベリアは、鼻息を荒くした。船上で何度も見た彼女の仕草が、トリスを落ち着かせる。
同時に、彼女は決意をした。ベリアやライル。この街の皆がこれからも変わらぬ日常を過ごす為に、自分が成すべき事を。
……*
ライルの屋敷にて、トリスは怪我の治療を受けた。
思ったよりも出血が多かったらしく、実は緊張が解けると同時に眩暈がしてきていた。
正直にその事を話すと、ベリアは呆れ果てていた。
「しっかし、確かにアンタの魔術には救けられてたけど。
まさか、吸血鬼族もやっつけちまう程だったとはねえ……」
感心するベリアだが、トリスの胸中は穏やかではない。
トリスは言葉よりもまず先に、自らの頭を深く下げた。
「……すまない。その吸血鬼族だが、私にも責任の一端はある」
「ちょ、ちょっと。どうして急に頭を下げるんだい!?」
突然頭を下げられ、ライルとベリアは戸惑う。
命の恩人であるはずの彼女から謝罪を受けるとは、想像していなかった。
「それは、君が名を偽っていたことと関係があるのかい?」
「……はい。騙していて、すみません。私の名は、トリスティア・エヴァンスではありません。
本当の名は、トリス・ステラリード。ミスリア王国の五大貴族の者であり、邪神の顕現を目論む組織に所属していました」
段々と窄んでいく己の喉に、嫌気が差しそうだった。
「ステラリード……。本当に、ミスリアの五大貴族だったのか……」
「それに、邪神の顕現? どういうことだい?」
ライルも勿論、その名は知っている。世界一の大国の、主要となる貴族の名だ。
小国であるティーマ公国の公爵よりも、遥かに地位の高い人間だったというのだから驚きを隠せない。
気になる話は、彼女の出自だけでは無かった。
邪神の顕現を目論む組織。さわりを聞くだけでも、穏やかではない。
影を落とす彼女の表情が、決して面白い話ではないのだと物語っていた。
トリスは生唾を呑み込み、きちんと喉が使い物である事を確認する。
逃げない。情けない生き方はしないと誓った。二人から顔を逸らさず、トリスは己の事を語り始めた。
ステラリードの分家の出だという事。
本家に嫉妬し、祖国を裏切ったという事。
身を寄せた先が、邪神の顕現を以てミスリアを支配しようとした事。
何処まで行っても、自分は使い捨ての駒に過ぎなかったという事。
「そして、吸血鬼族は――」
ここから先は、ハーマンから聞いた話や自分の推測が混じっていると補足をした。
世界再生の民が封印されている吸血鬼族の王の身柄を確保したという事。
その為に、獣人の身柄を世界再生の民が欲した。故に、ティーマ公国に潜伏していたハーマンが動いたのだと。
ライルとベリアは、黙って話を聞いてくれていた。
神妙な顔をしている彼らへ話をするのは、怖かった。けれど、トリスは話す事でしか誠意を示した。
「私も祖国を裏切り、多くの人を傷付けることに加担した者です。
貴方達を傷付ける結果にもなってしまった。いくら頭を下げても、足りないことは承知しています」
それでもトリスは、頭を下げる事しか出来なかった。
悪意の種がどんな花を咲かせ、どこで芽吹くかなんて、考えもしなかった。
「し、しかしだな! トリスティアのお陰で私達は救われたんだ!
君も被害者だ、そう気負う必要はないさ」
取り繕うライルは、優しい男性だった。
そんな彼に好意を寄せられた事は、きっと幸せだったのだろう。
素直に享受できない事を、トリスは少しだけ惜しく感じた。
「ありがとうございます、ライル殿。
ですが、これはお返しいたします」
トリスは軽く微笑み、彼の眼前に一本の杖を置いた。
彼がトリスティア・エヴァンスへ贈ったもの。賢人王の神杖を。
「ま、待ってくれ! だが、それは君に……」
「いえ、ライル殿がこの杖を贈られたのはトリスティアです。
決して、トリス・ステラリードではありません。私が受け取るのは、筋違いです」
本当は、嬉しかった。好意を寄せてくれた事も、受け入れてくれた事も。
だけど、それはトリスティアに対してだ。自分が受け取ってはいけないのだと、彼女なりのけじめでもあった。
「なーんか、釈然としないねえ」
「……ベリア?」
作り笑いを見せるトリスと、困惑の表情を見せるライル。
二人の顔を見比べたベリアが、静かに呟いた。
「アンタは確かにトリスティアじゃないのかもしれない。けど、アタイからすれば『だからどうした?』って話なんだよ。
名前を偽っていても、アタイはアンタの事をこれっぽちも悪く思わないよ。これまでの関係だって、変えてやらないね」
「いや、しかしだな。ベリア」
戸惑うトリスへ、ベリアは畳みかける。
彼女を大切な仲間だと想っているからこそ、言葉が溢れ出てくる。
「気に入らないんだよ、そうやって遠慮するのが。
アンタは確かに悪事に手を染めたかもしれない。けど、後悔してるんだろ?
第一、話を聞けば吸血鬼族が狙ってたのはアンタじゃなくてアタイらじゃないか。
アタイたちからすれば、アンタは護ってくれたんだよ。なんでそのことは軽く見るのさ?
ただ感謝されるのが気恥ずかしいだけじゃないのかい? アタイの知ってるアンタは、そういう人間さ」
「そ、れは……」
ぐうの音も出なかった。
自分はこれまで、感謝をされた経験というものがあまりない。
そんな中で、悪事に手を染めてしまった過去。行き過ぎた自己否定が、自然と肯定する事を拒絶している。
「そもそも、アンタはこの街を離れてどうするつもりなのさ?」
「……ミスリアへ行こうと思う。ミスリアにとっては、私の情報が少しは役立つかもしれない。
そこで、吸血鬼族のことも話す。お前たちに追手が来ても良い様に」
「呆れたヤツだよ……」
ベリアは頭を抱えた。その地を去ろうとしている割には、護るつもりでいる。
それでいて感謝は受け取ろうとしないのだから、呆れるしかない。
「ミスリアまではどうやって行くつもりだい?」
「それは、これから考えるつもりで……」
「自己満足で行動を起こそうとするわ、無計画だわ、アンタなんなのさ」
「いや、私だって無計画というわけでは……!」
詰め寄るベリアに、たじろぐトリス。
二人の会話を黙って聴いていたライルは、ある決断を下す。
「……分かった。ベリア、ネクトリア号はトリスを連れてミスリアへ向かってくれ」
「お、若旦那。それいいね」
「ライル殿!? 一体何を!」
今のミスリアは決して安全とは言えない。ましてや、裏切り者の自分と同行するなど。
同意できないと身を乗り出すトリスの前に出されたのは、賢人王の神杖だった。
「君は神器を持っていくといい。神器があれば、ミスリアも少しは耳を傾けてくれるだろう」
「そうかもしれませんが……!」
自分は賢人王の神杖を受け取る訳には行かないと、先刻話したばかりだ。
それにも関わらず、ライルは自分の前に神器を差し出してくる。
無論、ライルも彼女が素直に頷かない事は承知していた。
だからこそ、ある条件を彼女へ課した。
「君の言う通り、この杖はトリスティアへ贈ったものだ。
ベリアはどちらでも構わないと言っているが、君の中では大きく違うのだろう。私としても、その点は君に同意できる。
だから、君にこの杖を貸し出そう。全てが終わった後、また返しに来てくれ」
「……っ」
ライルの出した結論は、トリスの気持ちを少しでも尊重する事だった。
確かに、自分が好いた少女はトリスティア・エヴァンスだったかもしれない。
けれど、だからと言ってトリス・ステラリードを好きにならないという理由には成り得ない。
「その後で、改めて私と親交を深めてはくれないか?」
にこやかに微笑むライルを前にして、トリスは言葉を失った。
思い返されるのは、ハーマンと対峙した際に彼が語った言葉。
――君を愛している。
顔が紅潮するのを止められない。
衝動的なものだったかもしれないが、紛れもなく愛の告白だった。
トリスは生まれてこの方、はっきりと自分に愛を囁かれた事が無かった。
「……分かりました。では、賢人王の神杖は私がお預かりします。
それと、ライル殿。ひとつだけよろしいでしょうか?」
「あ、ああ」
正体を話しても、ライルの優しさは微塵も変わらなかった。
きちんと自分の心に向き合った時、安堵する自分が存在している事に気がづいた。
「トリスティアを愛していると言ってくれたこと、嬉しかったです。
私は死にません。いえ、約束があって死ねないのです。
ですから、必ずこの杖はお返しいたします。その時に、改めてお話をいたしましょう。
今度は、トリス・ステラリードと」
トリスは決意した。自分はこれから、戦火の中へ身を置く事となる。
それでも決して、自らの命を粗末には扱わない。
ジーネスとの約束だけではない。
自分がそうしたいと、心から強く思った。
かくして、ネクトリア号は航路をミスリアへ向ける。
その船頭に立つのは白いローブを身に纏った、紅の髪を持つ魔術師の姿だった。