280.トリス・ステラリード
少女の瞳に宿るのは、恐怖だった。
それはきっと彼女が傷付いている事と無関係ではないのだろう。
ならば、自分が彼女を護らなくてはならない。命に変えても、彼女だけは必ず。
「なんだ、貴様は? 我は貴様のような人間に興味はない」
興が削がれたと、ハーマンはライルへ蔑みの視線を送る。
冷たい視線は、いつ殺されるかも解らない緊張感を生み出していた。
喉が締め付けられるような感覚に陥りながらも、ライルは気丈に立ち向かう。
「君に興味がなくても、私には用がある……!
私はライル・セアリアス。この街を治める、公爵家の者だ」
「ほう、貴様が……」
ハーマンの眉が、彼の名に反応を示す。
キーラが手籠めにしたいと考えていた男が、確かその様な名だった。
尤も、その事自体はハーマンにとってどうでもいい。重要なのは、この街を治めているという一点に尽きる。
この男は、獣人達を束ねている者。
傀儡とした人間どもでは、抵抗する獣人を捕らえるまでは至らない。
傷付けないよう懸命に振舞いながらも、彼らは一歩も退かない。
尤も、所詮は人間。想定の範囲内ではあった。
ハーマンが一刻も早く街へ訪れたのも、遠隔操作した傀儡を信用していないからに過ぎない。
トリスが自分を陽光の下へ引き摺りだそうとしたのとは反対に、雪雲を密集させて太陽を覆い隠す。
代償として魔術師数名の魔力が枯渇したようだったが、それを成し遂げただけでも十分だった。
お陰で自分は今、非常に気持ちのいい光景を見られているのだから。
「ライル殿! 逃げてください!」
まるで極上のワインのように甘美な血を、惜しげもなく周囲へ塗りたくる少女が叫んだ。
背後には憎き神器、賢人王の神杖が存在している。
王の存在や眼前のライルも含めて、500年の時を経て幸運の星が漸く巡ってきた。
「それは私の台詞だ。君こそ、早く逃げてくれ!
私が命に代えても、この男は食い止めて見せる!」
ハーマンにとっては、聞き捨てならない台詞だった。
見た所、この男は戦闘能力を持たないただの人間に過ぎない。
少し手首を捻れば頭と胴が離れるような者に命を張られたところで、ハーマンにとっては障害にすらならない。
強いて挙げるのであれば、ライルはトリスへ恋心を抱いている点ぐらいだろうか。
キーラは妬みから自分に都合の良い様に解釈をしていたが、どう見ても彼はトリスへ惚れている。
勝利を確信した余裕から、ハーマンは余興に勤しむ事を選択した。
「命に代えても、か。威勢だけは立派なものだな。
何もできないという現実を理解していないらしい」
ハーマンが右手を突き出すと、ライルは身構える。腰が引けてはいるが、決してその場から離れようとしない。
これなら十分楽しめそうだと、ハーマンは鋭い刃のように砥がれた爪を伸ばした。
「ぐ、うっ……!」
「トリスティア!?」
伸びた爪はライルを掠め、トリスの左手を打ち抜いた。
氷塊にまで貫通し、固定された左手は指を曲げるだけで精一杯だった。
顔を歪めるトリス。狼狽するライル。そして、笑みを浮かべるハーマン。
「やめろ! やめてくれ!」
ライルは伸びた爪を掴み、引き抜こうと試みるが意味を成さない。
反対にハーマンが爪を引くだけで、ライルの掌からは鮮血が零れ落ちる。
「まだだ、まだこの程度では終わらぬぞ」
想像通り。いや、期待通りの反応というべきか。
ハーマンは次々と爪でトリスの四肢を打ちぬいていく。
首や太腿の血管は傷つけないように、両端を固定するように爪を突き立てる。
標本のように身動きが取れなくなったトリスの姿が出来上がるまで、そう時間は必要としなかった。
「クク、いい眺めだな。このまま飾り付けるのも、悪くはなさそうだ」
「この……っ。痴れ者が……っ!」
トリスは四肢を動かす事も、裂かれた服を抑える事も叶わない。
白い肌と僅かに滲む紅のコントラストが、ハーマンの気分を高揚させる。
「頼む! それ以上は止めてくれ! 私なら、私ならどうなってもいい!
だから、トリスティアだけは……!」
「っ!? ライル殿! もうよしてください!」
いくら両腕を広げて立ちはだかって見せても、意味を成さなかった。
乞う事しか出来ない己の無力さに打ちひしがれたライルは、自然と跪いていた。
「ほう、どうなっても……か」
心が折れる様を見て、ハーマンは笑みを浮かべる。トリスと違い、存外こちらは早かった。
相手の大切な者を傷付けるというのは、いつの時代も有効な手段なのだと感心をする。
「ならば、貴様に是非とも頼みたいことがある。思いのほか、獣人が抵抗していてな。
我らが王の復活には、獣人を供物として捧げる必要があるらしい。貴様の口から無駄な抵抗を止めるよう、伝えては貰えないだろうか」
「なんだって……!?」
ハーマンの宣告は、ライルにとっては究極の二択だった。
父が、自分が積み上げて来た財産は金品などではない。獣人と人間が共存できるこの街そのもの。
それを、自らの手で破壊しろと言っている。到底、受け入れられるものではない。
だが、断ればトリスティアの命はない。
切っ掛けは確かに一目惚れだ。しかし、彼女をもっと知りたいという気持ちに偽りはない。
獣人達もトリスティアを気に入っている。彼女を見殺しにして、これまで通りの付き合いが出来るはずもない。
「ライル殿! 貴方やお父上の信念を曲げてはいけません!
私なんかのために獣人を裏切るような真似など、許されるはずが――」
「今は、貴様が喋る番ではない。黙っていろ」
伸びた爪。その先端が、トリスの眼前に迫る。もうひと突きすれば、目を用意に潰せる位置。
ライルに一線を越えさせるには、十分すぎる脅しだった。
元よりハーマンは、総獲りをするつもりでいる。
王は勿論、トリスも、獣人も、神器も。この選択は、どう転んでもライルの精神を破壊するものだ。
それでも彼は存在しない希望へ縋らなくてはならない。弱者というものは、この場に於いて罪にも等しかった。
「……分かった。獣人の抵抗は私が止めさせる。
だから、だからトリスティアを助けてくれっ!」
「良いだろう」
がっくりと頭を項垂れるライルの姿を見て、ハーマンは歓喜に震えた。
本来であれば魔眼や牙を使えば容易く終わる行為だが、人形遊びばかりではどうしても飽きてしまう。
たまにはこういった面倒を愉しむ余裕があってもいいのだと、ほくそ笑む。
「ライル殿! いけません! 私の命など、元々なかったようなものなのです!」
ただ一人、トリスが声を上げ続けるがもう遅い。
身動きの取れない彼女では、ハーマンを止められない。
魔術の発動を感知された瞬間に、殺される未来が見えている。
「……そんなことを言わないでくれ」
力なく立ち上がり、ライルはゆっくりとトリスと向き合う。
悩み抜いた結果なのか。好青年とも言える彼の姿はそこにはなく、疲れ果てたかの如く老け込んだ男がそこには居た。
「ライ、ル……殿……」
「自分がどれだけ最低な行為をしているかも、判っている。
けれど、トリスティア。私は、君を愛している。君に死んでほしくないんだ。
解ってもらえないと思うけど、赦されないと思うけど、本当の気持ちなんだ」
ハーマンに促されたライルは、最後に「すまない」と言い残してこの場から消えた。
返事も訊かず、ただ自分の気持ちだけを伝えて。これが今生の別れであると言わんばかりに。
「……っ」
独り磔にされたトリスは、己の無力感に嗚咽を漏らす事しか出来ない。
どれだけ抵抗しても、身体は動かない。氷の冷たさが、彼女から生気も奪い取っているようだった。
(どうして、どうして皆。私なんかを生かすために……)
ライルが最後に残した笑みは、ジーネスと重なって見えた。
あの男も、最期は笑ってみせた。今際の際だというのに、自分を気遣って。
自分はどうだ? いつも失敗ばかりしている。吸血鬼族が約束を守る保証なんて、どこにもないのに。
表面だけを見て、何も中身が理解できていない。ライルの告白だって、なにひとつ気付いていなかった。
真の大馬鹿者が誰なのかなんて、考えるまでもない。
――情けない死に方なんてするなよ。
不意に、ジーネスの言葉が呼び起こされた。
彼は間違いなく自分へ言った。「死ぬな」と。
決して「生きろ」では無かった。
「そうだ、ジーネス『死ぬな』と言ったんだ……!」
命を大切にして、みっともなくても生き続けろという意味ではない。
情けない生き方をするなと忠告もしている。その上で、ジーネスは「死ぬな」と言った。
彼は信じてくれていたのだ。浮遊島から、世界再生の民から逃げても自分が逞しく生きるに違いないと。
ならば、少しでも彼の遺志に応えなくてはいけない。そうしなければ、あの世で合わせる顔が無い。
トリスは、縫い付けられた左手に魔力を込め始める。
ステラリード家は、代々炎と雷の魔術を得意とする家系。掌に込めた熱は、徐々に氷を融かしていく。
「賢人王の神杖っ! 私は、咎人だ!
あなたを生み出した神たちではなく、新たな神を。邪神を迎え入れようとした痴れ者だ!」
氷塊に封印されし神杖へ捧げるのは、祈りではなく懺悔。
赦されないと理解しつつも、彼女は懸命に語り掛けた。
「赦されなくても構わない。けれど、この街を、この国を救うために力を貸して欲しい!
どれだけの代償でも、私からは好きなだけ持って行ってくれ!
ライル殿を、ベリアを、あれだけ清廉な者たちを、不幸にしないでくれ! 頼むっ!!」
自分の為に祖国を裏切った少女は、いつしか他者を慈しむようになっていた。
賢人王の神杖は自らを省みない少女の願いを、聞き入れようとしている。
願いに反応した神杖は淡く輝き、氷塊には大きな亀裂が入る。
新たな主人と自らの間を隔てる物が、邪魔だと言わんばかりに。
……*
周囲は薄暗く、夜の訪れが早くなると実感させる。
雪雲が太陽を覆い隠す必要はなくなろうとしていた。
ここから先は、吸血鬼族の時間。
薄く積った雪が、白い絨毯のように美しく広がっているはずだった。
既に踏み荒らされ、泥や血といった薄汚い色で塗り潰されている。
ライルは下唇を強く噛んだ。決して他人事ではない。
自分がつける足跡も、きっとと同様。いや、それ以上に薄汚いものへなろうとしている。
ひとりの女性の為に、積み上げて来たもの全てを棄てようとしている。
暗くを共にした存在を、こんな他者への思いやりなど存在しないであろう吸血鬼族に踏みにじられようとしている。
けれど、彼の思い通りには行かせない。ライルはひとり、街の真ん中で歩みを止めた。
「どうかしたのか? ライル・セアリアス」
解っていながらも訊く。ハーマンは心底憎たらしい男だった。
きっと自分は、これから命を失うだろう。それでも尚、最期の抵抗を試みる。
「……やっぱり、トリスと獣人の皆を選ぶなんて私には出来ない」
想定内と言うべきか。思った通りの反応を前にして、ハーマンがつまらなさそうに息を吐く。
彼が異を唱える。両者を裏切らないように立ち回るとしたら、このタイミング以外にはあり得ない。
獣人からも、愛しのトリスティアからも離れた、このタイミングしか。
ハーマンとしても、元よりライルとの約束を守るつもりはない。
ちょっとした余興だったのだから、ライルが反旗を翻した程度では支障など起きるはずもない。
「そうか。それで、お前はどちらも棄てるのだな」
伸びた爪がライルの腕を、肩を、脚を貫く。
赤い染みを生み出す箇所が増える度に、ライルは顔を歪めた。
「棄てるのは、私の命だけだ……!
頼む、それでどうかそれで手打ちにしてはくれないか!?」
「馬鹿か、確かに貴様はこの街を統治する一族なのかもしれない。
だが、それが我に何の関係がある? 我にとっては、等しく餌でしかない。
餌が何か懇願したところで、意見を変えるはずもないだろう」
本来なら自らの意思で失望と絶望を伝播して欲しかったが、そうも行かない。
中々どうして、この男もキーラとは違うようだ。死ぬと判っていながら立ち向かう気概だけは、ハーマンも認めていた。
「お前はどう足掻こうとも、獣人を我に売る。その事実は、決して変わらない」
ライルを見下ろす金色の瞳が、怪しく光る。
「受け入れ、られな……。ぐぅ……っ」
他者を魅了する魔眼は、次第にライルから考える事を奪っていく。
まずは腕をだらんと垂らす。続いて、立っていられなくなり膝を地面の上へと着ける。
「案ずるな、そこに気様の意思が介入する要素はない。
我のために働く人形となるだけだ」
力なく差し出された首元へ、ハーマンが牙を喰い込ませようとしたその時だった。
強い波動が、街全体を覆い尽くす。吸血鬼族にとって、500年ぶりの感覚でもあった。
「――これはっ!?」
刹那、ライルの身体を雪の結晶が覆う。
彼だけではない。吸血鬼族によって操られた者全てが、彼と同様に雪にその身を包んでいた。
「……体内に入り込んだ悪しき魔力は、私が封じ込めた」
肩で息をしながら。身を引き摺りながら現れたのは一人の少女。
降り注ぐ雪に良く映える、紅の髪の持ち主。トリス・ステラリード。
「貴ッ様……!? まさか、継承したというのか!?」
彼女の手に握られている杖は、紛れもなく賢人王の神杖だった。
よもや、この間に彼女が継承者になるとは考えもしなかった。
終始余裕を見せていたハーマンの表情が歪む。
「どこまで賢人王の神杖が力を貸してくれるかは、私にも判らない。
けれど、この街の人々は救うに値すると判断してくれた。私の全てを賭けて、護り抜いて見せる」
「舐めるなよ、小娘が」
どうやら彼女自身、賢人王の神杖の継承者としての自覚は薄いらしい。
完全に覚醒していない今なら、まだやりようがある。
この極上の女を手に掛けるのは勿体ないが、ハーマンにとって優先すべき存在はあくまで王。
その最大の障壁と成り得るトリスを、彼は漸く敵と認めた。
「小娘ではない。私の名はトリス。トリス・ステラリードだ。
たかが滅びた魔族に、遅れを取るわけにはいかない!」
「人間風情が、言ってくれる!」
ハーマンは激昂した。この女も所詮は人間。分不相応の力に触れただけで、誇大化する自尊心の持ち主だった。
純血の魔族へ抗った事を後悔させながら、その生涯を閉じさせる。
蝙蝠のような翼を大きく広げ、右手の爪を鋭く重ね合わせた。ただ一人の少女を、辱める為に。
一方のトリスは、とうに腹を括っている。
分家に生まれてこれまで、五大貴族の生まれを疎んだ回数は少なくない。
平民であれば、手を汚す事も無かったのに。
ただの貴族であれば、本家に嫉妬する事も無かったのに。
きっとそうでなくても自分の本質は変わらないと理解していながら、自分の外に理由を求めた。
今までのトリスは自分の事だけを考えていた。だから、甘い言葉に惑わされていた。
己を護ってくれた、救ってくれた者達との邂逅を経て、漸く他者を慈しむ事を理解した。
自分もそうありたいと強く願った。その為なら、命を賭す覚悟はある。
けれど、それは決して自棄ではない。怠惰で助平でだらしない男が、自分に遺してくれたものは彼女の中で確かに息吹いている。
強く、願った通りに戦い抜く。決して、情けない死に方だけはしない。
甘い言葉に乗るだけよりも遥かに困難な道を、トリスは選んだ。
その強い願いに、賢人王の神杖は応えたのだった。
「来い、吸血鬼族! 人間風情の力を、見せてくれる!」
この戦いが、トリス・ステラリードにとって本当の初陣。
妬みと悪意に翻弄された人生からの、脱却の一歩となる。